C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』を読む

 C・ダグラス・ラミスガンジーの危険な平和憲法案』集英社新書、2009年8月刊
Isbn:9784087205053

 不思議な本でした。
 ガンジーの独立についての構想の異様ともいうべきラディカルさは、今回のこの本ではじめて知りました*1。それだけでもこの本は読む価値があります。ガンジーが考えていた「独立=自立」とは、インドの70万の村ひとつひとつを自立した共和国にするというのですから。
 想像してみてください(ジョン・レノンみたい)。70万の共和国! そのひとつひとつが主権をもちます。たとえ、村が集まって「タルカ」をなし、タルカが集まって地域をなし、地域が集まって州をなし、州が集まって連邦をつくるとしても、州や連邦に権限や強制力はなく、村のために助言と提案をするだけ。あくまでも主権をもった村=共和国が全インドを埋め尽くす。すごい。
 ガンジーは、インドの村の平均人口が400人くらいと言っています[77頁]。インドの1950年の人口が約3億5000万人ですから、ガンジーのいうように70万の村があるとすると、ひとつの村の人口は約500人。もちろん当時でも都市の存在が平均を押し上げていますから、たしかに、村の人口は平均400人ぐらいになるでしょうか。

 この400人という数字がポイントです。このブログの読者ならピンとくるでしょうけれども、ちょうどレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」の規模です。つまり、ガンジーは真正な社会を共和国とし、非真正な社会から権力や主権を奪い取り、そのことによって非真正な社会から暴力を剥ぎとって霧散霧消させようと構想したわけです。再びすごい。
 これはたんなる「直接民主主義」の実現や「地方分権」とはまったく違います。400〜500人の、主権を持った共和国ですよ。これは、5万人や数十万人の自治とか地方主権とか直接民主主義とはまったく性質を異にしています。そして、それこそがこの本で紹介されているガンジーの構想のラディカルさのポイントです。

 けれども、ダグラス・ラミスさんは、独立前のインドや明治時代のようにほとんどの人びとが村に住んでいた時代ならいざしらず、農漁村も産業資本主義システムに完璧に組み込まれた現代社会では、ガンジーの村中心の「逆さま国家」の実現可能性はないといい、村の代わりになるのが「市民社会」だとしてしまいます。
 ダグラス・ラミスさんは、「市民社会」を、自分の前著『ラディカル・デモクラシー』から引用して、つぎのように言っています。

 大衆社会とは違い、市民社会は一個の群ではなく、公式および非公式の多様な集団や組織の複合体であり、そこに結集する人びとの目的も政治、文化、経済と多種多様である。[148頁]

 そして、市民社会は、「国家を乗っ取ったり取って代わることをせず、国家と立ち向かい、国家を置き去りにし、国家をコントロールする」[149頁]点で、ガンジーの逆さま国家思想と似ていると言います。しかし、この「市民社会」が「非真正な社会」であるのは明らかです。これでは、真正な社会(これは現代の都市でも可能です)が主権をもって自分たちのことを決めていく*2という、ガンジーの逆さま国家思想*3の本当のラディカルさはなくなり、ただの平凡な「ラディカル・デモクラシー」になってしまいます。

 ガンジーの構想のラディカルさを紹介したあと、そのラディカルさを消去するという意味で、不思議な本でした。

*1:ガンジーの『わたしの非暴力 1・2』(みすず書房)を読んでも分からないですからね。

*2:したがって、国家に立ち向かう必要もコントロールする必要もないし、主権をもつという点で「地域エゴ」ということもなくなります。地域を超えた道路建設とか水利問題とかは、まったく権限のない「州」とかが助言とか勧告をしたりするのでしょうが、意見が一致したときでも、いくつもの共和国(村・ご町内)がお金や労力を出しあって自分たちで建設することになるのでしょう。しかし、意見の相異のあった場合は、外交問題になります! 一つの共和国=村・ご町内も、自分たちの意見を通そうとすることが「外交問題」となると、さまざまな説得と納得の言説を用いなければならなくなるし、内部の400人も自分たちが行うことを自分たちで決めるという主権をもつことになれば、さまざまな意見を言うようになり、その内部でも説得と納得が必要となって、「主権在民」の生きた実地教育の場となるでしょうね。

*3:上の方に行けばいくほど権限や権力がないという意味での「逆さま」です。