人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(1)

 およそ10年と7か月ぶりにブログを再開することにしました。今年の3月31日に大学を定年退職して、大学教員にとって日常的なアウトプットであった授業がなくなって、そろそろ何かを発信したくなってきたというのが再開の理由です。そもそもこのブログを始めたきっかけも研修休暇で授業がなかったからでした。
 さて、このタイミングでブログを再開するとなると、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックについて述べないわけにはいかないでしょう。実際、今回のパンデミックには、いろいろと考えることもたくさんあります。また毎日、家に閉じこもっているので、ネットでパンデミックについての専門家や知識人の論評を読むという生活をしています。この再開したブログでも当分、このパンデミックについて語ることになると思います。

 第一回目としては、新型コロナウイルス以後の社会(「ポストCOVID-19社会」)について考えたいと思います(長い話になることを覚悟してください)。「ポストCOVID-19社会」についてはすでに議論がいくつかなされており、そのなかでは「独裁か民主主義か」という二つの道を挙げている議論があります。例えば、『サピエンス全史』などで世界的に有名になったイスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、2020年3月20日の「フィナンシャル・タイムズ」紙の「新型コロナウイルス後の世界」という記事や

「デジタル朝日新聞」の「コロナ後の世界を語る」という連続インタヴュー(第7回4月15日)において、私たちが迫られる重要な選択の一つに、「全体主義的な監視か市民の権利拡大か」、「独裁体制か民主的な制度の維持か」というものがあると述べています。また、内田樹さんも、『月刊日本』(4月22日)の「コロナ後の世界」と題されたインタビューで、「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点について述べています。そこでは、中国のように独裁体制によって封じ込めを行なうほうがアメリカや日本のような民主制よりも、感染対策に有効だという見方が出始めているという危惧です。実際、日本の封じ込めがうまくいかないのは憲法に緊急事態条項がなくロックダウンできないからだという短絡的な意見が政権の近くから出てきています。
 災害が起こったときに、それまで社会関係に埋め込まれて交換価値化(商品化)しにくかったものを災害によって社会関係が壊れたことを利用して交換価値を創りだし、新たな金儲けのチャンスとするやり方を、ナオミ・クラインは、「ショック・ドクトリン」による「災害資本主義(惨事便乗型資本主義)」と呼びましたが、それに倣えば、コロナ禍を利用して緊急事態条項の必要性を説くのは、「災害独裁(惨事便乗型独裁)」と呼べるでしょう(ハンガリーのオルバン政権が最も顕著な例です)。
 それが「便乗」であるのは、憲法に緊急事態条項がないから、あるいは民主主義だからロックダウンできずに封じ込めがうまくいかないというのは間違っているからです。封じ込めに成功したニュージーランド独裁制だからできたわけではなく、またドイツの憲法には緊急事態条項はありますが、外出禁止令によるロックダウンにそれを使ったわけではありません。
 アメリカやイギリスやブラジルが封じ込めに完全に失敗し、日本がなかなかうまくいかないのは、民主制か独裁制かに関係なく、これらの国がネオリベラリズム的な経済至上主義を採っているからと言ったほうがいいでしょう。つまり、そこには「独裁か民主主義か」という対立軸とは別に、「経済か命か」(「市場経済か生存経済か」)という対立軸があります。
 ネオリベラリズム的な経済至上主義の最も極端な例は、「ブラジルのトランプ」と称されるボルソナロ大統領でしょう。彼は、3月24日のテレビ演説で、新型コロナウイルス感染症を「ちょっとした風邪」と呼び、「われわれは生き続けなければならない。雇用を守らねばならない。普段通りに戻らなければならない」と主張、25日にはサンパウロ州のドリア知事など自治体による商業施設閉鎖等のロックダウン措置について「ブラジルを破壊する犯罪」と表現しました。
 日本の安倍政権も、アメリカのトランプ大統領やボルソナロ大統領ほど馬鹿正直には表現しませんが、似たような経済至上主義を採ろうとしていたのだと思います。ただ、何か対策をする振りはしなければならないということで、感染の広まってきた2月27日に唐突に3月2日からの学校の全国一斉の休校措置を発表します。「アベノマスク」同様に、官邸官僚のアイデアという話ですが、たいして必要とも思われず、文科省も考えていなかった措置を何かしているという証明に選んだのは、それが経済活動にたいする影響が少ないと思ったからでしょう(男たちは保育のことは思い浮かばなかったわけです)。そして、3月中旬にそのままでも使えたはずの新型インフルエンザ特措法の改正がなされたのも、対策を講じているという時間稼ぎだったと思われます。特措法が改正された後は早い時期に憲法の緊急事態条項の予行演習として緊急事態宣言がなされるという観測もありましたが、経産省主導のアベノミクスを唯一の政権基盤にしていた安倍政権にとって、緊急事態宣言はできればしたくなかったはずです。だいたい、コロナ対策の担当大臣が厚生労働大臣ではなく、経産省官僚出身の西村「経済再生担当」大臣であるところにそのことがよく表れています。しかし、欧米で感染爆発が起き、東京オリンピックの延期が決まる頃になると、日本でも感染爆発が起きるという予測が専門家会議の専門家からも出され、オリンピック延期まで何もしていなかった小池東京都知事が「ロックダウン」(都市封鎖)という言葉を用いて感染爆発が起こるかどうかの瀬戸際だと会見で表明してから、シナリオが崩れ奇妙なねじれを伴う迷走が始まります。政府は、特措法では「ロックダウン」はできないのだと火消しに躍起になり(ロックダウンが日本の法律では不可能だというのは後でいうように都市封鎖の解釈の問題であり、不正確な言い方です)、小池都知事や吉村大阪府知事が「命ファースト」や外出自粛要請などを出しても、安倍政権は緊急事態宣言を4月7日まで先延ばしにするだけでなく、宣言をした後も、西村担当大臣は、東京都など自治体がさまざまな業種の休業要請を検討していたのに対して、休業要請を2週間程度見送るようにと言ったのでした。つまり、宣言をしたのにもかかわらず4月21日まで何もしないつもりだったのです。それは、小池知事など知事たちの「反乱」によって覆され、各知事は特措法の第四十五条(感染を防止するための協力要請等)に基づき、休業要請をしました。そのときどのような業種に要請するかという協議においても、経産省クラスターの発生源となっていた飲食店を外したりデパートの地下食料品売り場を外したりとできるだけ範囲を絞るということをしています。
 ところで、特措法の第四十五条の最初の第1項は、「特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等緊急事態において、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため必要があると認めるときは、当該特定都道府県の住民に対し、新型インフルエンザ等の潜伏期間及び治癒までの期間並びに発生の状況を考慮して当該特定都道府県知事が定める期間及び区域において、生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の新型インフルエンザ等の感染の防止に必要な協力を要請することができる。」というものです。つまり、まず「施設管理者等」(事業者)への要請ではなく、住民に対しての「生活の維持に必要な場合を除」いた外出禁止の要請になっています。これは実際に各知事からなされた「不要不急の外出」よりも厳しく、「生活の維持に必要な」仕事以外の仕事に出ることも禁止するという「ロックダウン」の要請なのです。しかし、この第1項は明確に要請されることはなく、テレワークできない場合、生活の維持に必要ではない仕事でも通勤しつづけていました。本気で「8割の接触の削減」を実現したかったら、住民に外出禁止を強く要請し、施設管理者たる企業にも休業要請を出すことはできたはずです。なにせ感染爆発の瀬戸際だというのは首相も言っていたのですから(実際に起きてからでは遅いわけです)。実際、6割程度の接触の削減しか達成されず(専門家も接触削減が6割にとどまっていたのは通勤が減らなかったからだと分析しています)、そのために5月7日に緊急事態宣言の解除はできず、延期されました。そのしわ寄せは飲食店や小商いをしている店(事業者・従業員)に押しつけられたわけです。
 その責任は、ロックダウンのような外出禁止はできず「自粛要請」までだ(要請であり罰則もないけれども、「自粛」などではなく、実際には事業者には「ロックダウン」の要請に従う義務が生じる「指示」ができる)と明らかにミスリードした政府にあるでしょう。そして、各知事も、営業を続けるパチンコ店(実際には、パチンコ店でクラスター発生は報告されていなかったにかかわらず)に休業の「指示」はしても、不要不急の仕事のために(現在給料の良い仕事の大半は、人類学者のデヴィッド・グレーバーのいう「クソどうでもいい仕事」、必要のない仕事なのですから)労働者に通勤を強いる企業には休業の要請などはせず、マスメディアも、営業を続けるパチンコ店をスケープゴートにして非難しても、不要不急の企業活動を非難することはないわけです。そして、営業するパチンコ店に対して罰金などの罰則がないこと、あるいは感染した人が移動してしまうことも阻止できない特措法の強制力のなさへの批判を生んで、日本も「ロックダウン」できるように憲法に緊急事態条項を入れるべきだと世論を誘導しているだけにみえます。
 つまり、「経済か命か」において政府と対立しているように見えていたことで支持率を伸ばしていた小池東京都知事や吉村大阪府知事も、強制力のある権限強化という惨事便乗型独裁へと向かう点では一致しているのです。実際、小池知事も(吉村知事の属している)維新も緊急事態条項を含む憲法改正賛成派です。
 ところで、「経済か命か」という対立に対しては、経済至上主義の立場から、「経済的な理由による死」という言葉によって、「経済か命か」ではなく「命と命」であるという言い方がなされています。たとえば、国際政治学者の三浦瑠麗さんは3月15日の「ワイドナショー」という番組で、「経済が死んだら終わり」と述べ、「それは経済VS命ではなく、命VS命。コロナで死ぬ命と、経済で死ぬ命は等価なんです」と語ったと報じられています。また、三浦さんは4月22日にツイッターで、「ロックダウンと強い自粛の長期継続は大恐慌を作り出す。それによる格差の拡大は弱者を直撃し、数多のひとの命と将来が失われることになる。それを防ぎたければ、高齢者と持病持ちの方々の健康に配慮した行動制限とともに医療体制を拡充し、はやく経済を回しはじめなければならないということです」とツイートしてます。経済を回せというのは外出自粛要請を緩和しなければならないということでしょう。それによって確実に感染者は増加し死者も増えますが、経済が落ち込めば経済的な理由による死者も増加するので、同じく死者が増えるなら経済を回した方がましだという論理なのでしょう。
 このような「命VS命」という主張は、言葉遣いこそ違いますが、ブラジルのボルソナロ大統領と同じ論理です。あるいは、同じく死者が出るのであれば、ロックダウンを緩和して元気な感染者を増やして集団免疫に近づけたほうがましという論理(スウェーデンが採ったものです)も働いているのかもしれません。
 「命VS命」論の問題点は二つあると思います。一つは、「感染による死」と「経済的理由による死」とをトレードオフにある選択と見なし(2点目で指摘しますが、実際にはトレードオフではありません)、その二種の命を比較することを強いることによって倫理の崩壊を招く点にあります。市場経済を回すことを優先させることを正当化するためには、死者の数が「経済的な理由による死者」のほうが多くなる(そう述べる論者はけっこういるのですが根拠は示されません)という「数」の論理か、感染による死者の多くは65歳以上の老人や介護の必要な障がい者、つまり生産性の低い人たちだという優勢思想的な論理(さすがに表立っていう人はいませんが)かです。いずれにしろ「弱者こそ救うべきだ」という倫理の精神がそこでは崩れていきます(この崩壊はもちろんコロナ以前からネオリベラリズムによって進行してきたものですが)。
 二つ目の問題点は、経済的な低迷による死者の増加という相関関係は、ロックダウン緩和による感染死の増加の相関関係とは違って、因果関係ではないという、社会科学的な論理を無視していることにあります。経済的な理由による死者の増加ということの根拠として持ち出されるのはたいてい「失業率と自殺率の相関関係」ですが、この相関関係は普遍的な因果関係ではないのです。ちょうどいいタイミングで、デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・パスの『経済政策で人は死ぬか?』(草思社、2020年)という翻訳本が出ましたが、そこで紹介されている失業率と自殺率の相関関係を見ると、スペイン、アメリカ、イタリアなどでは失業率と自殺率の変動に強い相関がみられるけれども、フィンランドスウェーデンアイスランドでは失業率と自殺率の変動に相関がみられないこと、たとえばスウェーデンでは1990年代のバブル崩壊の不況によって失業率が急上昇したにもかかわらず、自殺率は1980年代から2000年代にかけて一貫して減少しつづけているのです。そして、日本も含めて失業率と自殺率の変動に強い相関がみられる国は緊縮政策を採っている国です。失業率と自殺率の変動に相関がみられない国があるという事実は、経済的不況によって自殺者が増加するというのは偽の因果関係ということになります。
 大不況になると弱者の命が失われることを理由に、市場経済を回せと言っている市場経済至上主義は、ネオリベラリズム的な緊縮を維持しながら(これだと失業率と自殺率の変動に強い相関関係が出てしまいます)、現在の経済システムを強化していこうとする惨事便乗型資本主義だと言っていいでしょう。「経済的な理由による死者」は、彼らが前提としているシステムを「反緊縮」へと転換することによって救われる死者たちであり、感染死者と自殺者の数はトレードオフではないのです。

 さて、この記事は、「人類学的視点からみたポストCOVID-19社会」と題していますが、まだ本論に入っていません(いつものことですが)。しかし、もう長すぎるものになってきましたので、「人類学的視点」ということだけに触れて、本論は次回にまわすことにしましょう。
 パンデミックに限らず大震災や大恐慌などの大きな災害があると、行政機構や市場など大きな社会のシステムが機能不全に陥ります。今回でいえば、普段の治療が病院で受けられなくなるといったことや、人びとがマスクを店で買えなくなるといった事態が市場システムの機能不全というわけです。支配者やエリートたちは、続いてきた既存のシステムのおかげでエリートの地位を得た人たちですから、彼らが何とかしてこのシステムを復興させ、強化したがるのは当然でしょう。それが「ショック・ドクトリン」による惨事便乗型資本主義や惨事便乗型独裁です。彼らは人びとの生活や命よりもシステムの維持を優先させるのです。
 しかし、災害時には、それとは別の方向性も出現します。システムが機能しなくなると、人びとはそういったシステム抜きで生き残らなくてはならなくなります。そのとき生活を維持するために出現するのが、近代以前の小さな社会、すなわち顔の見える人たちの間の相互扶助であり、それがレベッカ・ソルニットのいう「災害ユートピア」です。それはシステムなしに生き残るために出現する「基盤的な社会」なのであり、ネグリとハートがいう「コモン=共」あるいは人類学者のデヴィッド・グレーバーのいう「基盤的コミュニズム」とも言い換えられるものです。
 つまり、大災害の後には、システムに依存しない「コモン=共」による小さな社会の再興という「災害ユートピア」の方向性と、大きなシステムへの依存をより強化する「ショック・ドクトリン」の方向性とのせめぎ合いが起こるわけです。ここで大事なのは、このせめぎ合いが同じ地平での対立ではないということです。すなほち、大きな社会のシステムと、具体的で顔のある人と人とのつながりである「コモン=共」は異なるレベルにあるのです。この区別は、このブログの古い記事で幾度となく触れてきた、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」、すなわち500人からなる真正な社会と5万人やそれ以上の人たちからなる非真正な社会の区別と一致するものです。
 災害ユートピアという語についてのよくある誤解は、災害義援金などのチャリティや支援を指すという誤解ですが、それらは災害ユートピアと無関係です。それらは真正な社会におけるコモン(共)ではなく、非真正なシステム(あるいは公)のレベルのものです。つまり、チャリティは人々を支援の対象となる無力な被災者にしてしまいますが、「コモン=共」における相互扶助は人びとをそれぞれができることを行なう行為主体にします。後者は、あくまでも真正な社会のレベルに現れるものです。
 ポスト・コロナ社会についての議論においても、この区別は重要です。というのも、多くの議論はシステムのレベルにおける話に終始しがちだからです。もちろん、惨事便乗型独裁のようなシステム改革に対して、民主主義や開かれた科学的議論によって対抗することは必要でしょう。それ以上に、惨事便乗型資本主義に対しては、反緊縮による公的なシステムによる救済をシステムとして求めていくことが、「クソどうでもいい仕事」ではない生存経済を支える仕事をしていたのにロックダウンのしわ寄せを被っている弱者の「経済的な理由による死」を防ぐために必要です。
 しかし、そういったシステムそのレベルの議論だけでは、システムへの依存を高め、システムの支配に利するものになってしまいます。そこでは、人々は救済を待つ惨めで無力な弱者・被災者とされてしまいます。そこで重要となるのが、「コモン=共」による対抗、いいかえれば「共助」=相互扶助による救済という議論です。それによって人々は自治の力を持つ存在として、惨事便乗型資本主義や惨事便乗型独裁に対抗することができるのです。
 この真正な社会における「コモン=共」の重要性というのが、「人類学的視点」というわけです。では、このつづきは次回で。