ハキム・ベイの『T.A.Z.』を読む

ハキム・ベイ『T.A.Z.:一時的自律ゾーン、存在論アナーキー、詩的テロリズム[第2版]』箕輪裕訳、インパクト出版会、2019年11月
 ISBN978-4-7554-0278-4

 この本は、1997年に出た第1版の訳書に原著の第2版(2003年出版)の前書きを加えた改訂版というべきものです。この新版がもう少し早く出ていれば、アナーキズム関連の文献として大学院のゼミで講読できたのですが。1997年版の訳書を教えてくれたのは、当時、私のゼミにいた大学院生の村上隆則君でした。村上君は、「小田先生の言われていることはTAZに近いと思います」と言っていたことを覚えています。村上君がTAZという概念と私の書いていることとどこが似ていると思ったのか。今から思えば、アナール学派やミシェル・ド・セルトーの「戦略/戦術」といった用語を用いて、エリート文化に包摂されながらも、ブリコラージュ的戦術によって「自治」空間を創り出しているといった民衆文化論を書いていたので、その辺りが似ていると感じたのかもしれません。
 さて、この本は3部構成になっていて、最初の2つ、「カオス:存在論アナーキズムの宣伝ビラ」と「存在論アナーキー協会のコミュニケ集」は、文字通り宣伝ビラとコミュニケ(声明)を集めた小間切れのものなので(グラフィティ・アートについてなど興味深いものもありますが)、ここでは比較的まとまった論考になっており、また本書の中心でもある第3部の「TAZ/一時的自律ゾーン」を紹介することにします(この本の紹介はたいていそうなってしまうのですが)。
 TAZ(Temporary Autonomous Zone)とは、「自治・平等・自由な小領域」を指しています。ハキム・ベイが具体的に挙げている例は、18世紀の「海賊のユートピア」、17~18世紀のジャマイカやハイチなどにおける逃亡奴隷による「マルーン共同体」、アナーキストであるグスタフ・ランダウアーも参加した1919年のミュンヘン・ソヴィエト(評議会)といった歴史的な事例や、遊動する狩猟民のバンドといった人類学的事例などです。「海賊のユートピア」の事例が多く挙げられているのは、ハキム・ベイが、本名(たぶん)であるピーター・ランボーン・ウィルソン名義で『海賊ユートピア』(翻訳は以文社から2013年に出版されています)という本を出版している海賊の研究者でもあるからです。
 しかし、TAZという概念にとって重要なのは現代社会における事例のはずですが、奇妙なことに、現代社会におけるTAZの具体例にはほとんど触れていません。ハキム・ベイはつぎのように言います。

 わたしは、「ネットの中の島々」に関する過去と未来の諸所説から推論することによって、ある種の「自由な小領域」が我々の時代に、可能であるだけではなく存在してもいることを示唆する証拠を我々が集めることができるだろうと信じる。わたしの調査と思索のすべては、一時的自律ゾーン=TAZ……の概念の周辺に結晶している。だが、わたし自身の思考に向けて総合してきているその説得力にも関わらず、わたしはTAZが、いわゆる〈エッセイ〉(「試み」という意味でのそれ)や示唆、あるいは九分通りの詩的な幻想以上のものとして受け取られて欲しいとは思わない。……わたしは政治的ドグマを構築しようとしているわけではないのである。事実わたしは、TAZを定義づけることをわざと回避してきた――わたしは、探査ビームを照射しつつ対象の周辺を巡るのだ。結局のところ、このTAZとはほとんど自明のことなのである。もし、この言葉が流通したならば、それは難なく理解されるだろう……行動において理解されるだろう。[192頁]

 つまり、ハキム・ベイが現代社会の具体例も挙げず定義づけもしないのは、それが目ざすべきゴールでもドグマ(教義・固定した信念)でもないからというわけです。しかし、それは現代社会においてもつねに可能であるし、現に存在しているというのです。そして、このTAZは「ほとんど自明のもの」であり、難なく行動において理解されるものだと言います。
 このように定義づけもせず現代社会の具体例も挙げないのは、TAZがなぜ「Temporary(一時的・間に合わせの)」とされるのかということと深く結びついています。ハキム・ベイは、「革命」と「反乱」を対置させて、「革命」は永続性ないし少なくとも持続を達成しようとするのに対して、「反乱」は祝祭と同様に「一時的」だと言い[194頁]、革命を欲することを断念し、反乱を絶えず起こすことを求めています。
 そして、それに対する批判、すなわち反乱は窮余の一策だ、アナーキストの夢、「国家なき」国家、コミューン、持続する自律ゾーン、自由な社会はどうしたというのだという批判が来ることを予想しつつ、つぎのように言います。

 わたしはそれをもっともな批判だと認める。しかしわたしは、二つの点で返答したい。第一は、未だかつて〈革命〉はこの夢の達成に帰着したことがない、ということである。反乱の瞬間にはヴィジョンが生き返る――だが「その革命」が成就して「国家」が復帰する時には、〈既に〉その夢と理想は裏切られている。わたしは変革の望みを、その期待すらも捨ててはいない――しかし、〈革命〉という言葉を信じてはいないのだ。第二に、仮に我々が、革命のアプローチを〈アナーキスト文化に自然発生的に花開いた蜂起〉の概念と置き換えるとしても、我々自身の個別的な歴史的状況は、そのような途方もない仕事には都合が良いものではない。端末的(ターミナル)な「国家」、巨大企業的情報「国家」、「スペクタクル」と「シミュレーション」の帝国との正面衝突からは、無意味な殉教に終わる以外にしかたないだろう。[195頁]

 第一点めの「革命」への批判は、ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社、2009年)にも共通しているものです(ホロウェイは「蜂起」からというより「叫び」から、と言いますが)。もっと広く捉えれば、システムをこのように変えれば良くなりますよという、上からの方向付けによる設計主義的な革命や改革への批判です。そのようなシステムの改革は永続性を目指すことから、それに逆らうためにTAZは「一時的」にならざるをえないのでしょう。
第二点めは、あらゆる場所が国家というシステムに包摂されて、持続的な自律ゾーンを維持する余地がもはやなくなっているという認識から来ています。ハキム・ベイは、そのことを「地図の閉鎖」と言い換えて、つぎのように言っています。

 背景としてTAZを発生させた第二の力は、わたしが「地図の閉鎖」と呼ぶ歴史的な発展に源を持つ。どの民族国家からも要求されない地球の最後の一かけらさえ、1899年には貪り尽くされていた。我々の世紀は、〈未知の世界〉を、フロンティアを備えない最初の世紀である。ナショナリティが世界統治の最高原理なのである――南太平洋に突き出た岩礁の頂、人里離れた谷、そして月や惑星でさえ、〈開かれて〉残されている可能性はないのだ。これは「領土のギャング行為」の極致である。管理されておらず、課税されていない地球は、一吋たりともないのである……理論的には。[199頁]

 前回の読書ノートで取り上げた『ゾミア』の最後で、ジェームズ・C・スコットは、第二次世界大戦後には国家からの逃避場所としてのゾミアは消失してしまったと言っていました(ハキム・ベイとスコットのいう消失の年代は50年ほどずれていますが、理論的な把握と辺境の実際とのずれと言えるでしょう)。つまり、TAZが「一時的」なものとして生成されるのは、空間としてのゾミアが消失した後だから、ということになります。テクノロジーによって強化された国家というシステムの支配する場所だからこそ、国家との正面衝突を避けるゲリラ戦が必要とされます。ハキム・ベイはつぎのように述べています。

 我々はTAZのことを、それだけで一つの全面的な目的であると宣伝してはいないし、他の組織の形態、戦術、そして目標と置き換えようともしていない。我々がそれを推奨するのは、それが、暴力と殉教へ導かれる必要のない反乱と一体になった高揚、という特質を与えてくれるからである。TAZは、国家とは直接的に交戦しない反乱のようなものであり、(国土の、時間の、あるいはイマジネーションの)ある領域を解放するゲリラ作戦であり、それから、「国家」がそれを押しつぶすことができる〈前に〉、それはどこか他の場所で/他の時に再び立ち現れるため、自ら消滅するのである。[196頁]

そして、TAZの「最も偉大な強さは、[国家が認識できない]その不可視性にこそある」と言います。そして、次のように続けています。

 TAZが名付けられる(表現される、あるいは[メディアによって]媒介される)や否や、中空の外皮を残してそれは消滅しなければならないし、消滅する〈だろう〉が、それは単にどこか他の場で再び飛び上がるためであって、「スペクタクル」の用語では定義できないために、それはもう一度不可視となるのである。TAZはそれゆえ、「国家」が常に、どこにでも存在し、全能でありながら、しかし同時にひび割れと空虚だらけであるような時代にとっての完璧な戦術なのだ。そしてわたしは、TAZが自由な文化の「アナーキストの夢」の小宇宙であることから、ここで今、その恩恵のいくつかを同時に経験しながら目標に向かって進むそれ以上の戦術を思いつくことができない。[197頁]

 このように見ていくと、TAZが「一時的」であるのは、その小宇宙を持続的・恒久的なものとして維持するためだという逆説が浮かび上がってきます。それを維持するために、把握され介入される前に消滅させて不可視でいなければならない、しかし、それは自律的ゾーンを恒久的なものとして維持するためのものなのです。つまり、TAZは〈コモン〉のさまざまな現れであり、その(グレーバーの言い方を借りれば)「基盤的コミュニズム」を持続的なものにするために、姿を変え他の場へと移動する必要があるというわけです。いいかえれば、地理的・空間的な逃避場所が消失した後という状況のなかで、いわば「ノマド的な逃避を続ける術」が「一時的であること」なのでしょう。
 けれども、そうなると、TAZ(一時的自律ゾーン)とPAZ(恒久的自律ゾーン)の区別はあいまいになっていきますが、ハキム・ベイ自身、そのことに気が付いています。本文が書かれた10年後の1996年の「日本語訳(初版)への序文」ですでに、1994年に武装蜂起したメキシコ・チアパスのサパティスタ民族解放軍に触れながら、「『一時的自律ゾーン』の概念の概念のうち、その手続き上の主張を再コンテクスト化したい」と述べて、次のように言います。

 TAZのゲリラ的側面は、「目隠しされた資本の円形刑務所(パノプティコン)」への抵抗の手段としてはまったく適切なものである。だがTAZに今必要なのは、自らを反対者、否定者として肯定するその禁断症状(拒絶の身振り)を乗り越えることなのだ。それは戦略的には、他の革命的な差異との相互関係を連合するプロセス(リゾーム的な複雑性)を通じた組織的な形態――その自発性においても――として、一時的にそして恒久的に実現され得るだろう。[11頁]

 このように他の自律ゾーンとの連合を模索することによって「恒久的」な形で実現しうる可能性に触れています。そして、2003年の「第二版への前書き」では、TAZとPAZとの区別は連続的・相対的なものだという見解を述べています。

仮にあなたが、メディアというものを生活の中枢とするならば、あなたは、媒介された/メディア化された生を送ることになる――しかし「TAZ」は、メディアを介さない直接的なものであることを、さもなくば無であることを望むのである。
   TAZは、空間よりも、時間への流動的な関連の中に存在する。それは、真に一時的なものであるが、恐らくはまた、休日、バカンス、夏休みのキャンプといった繰り返す自律のように、周期的に訪れるものでもあるだろう。それは、首尾よく成功したコミューン、あるいは放浪者の小領域のように、「恒久的な」自律ゾーンである「PAZ」となれるかも知れない。「PAZ」には、大麻の栽培家によってひそかにコントロールされた、アメリカやカナダの田舎の地域のように不法で秘密裏のものもあれば、宗教的セクト、アート集団、トレーラーハウスの駐車場、スクオッターたち等々のように、もっとオープンに運営することができるものもある。あなたは、「TAZ」的であることの相対的な度合いについても語ることができる。つまり結局のところ、自律はないよりもあったほうがまし、と。わたしは、趣味のグループや、古風な友愛会組織も、こうした点に関心があるのだと思う。[ⅴ-ⅵ]

 ジェームズ・C・スコットは、『ゾミア』の最後で、空間的な避難場所がなくなった後では、「現代社会で私たちの享受できる自由に未来があるかどうかは、リバイアサン(強力な政府)を避けることよりも、それを飼いならすという途方もない仕事にかかっている」と述べていました。たしかに国家というシステム全体を「飼いならす」というのは途方もないことです。しかし、『実践 日々のアナキズム』では、ジェーン・ジェイコブズが都市計画という公式の知に対置させた、都市における近隣の高度に精緻化された柔靭な土着の知や、小商いをするプチ・ブルジョアジーたちのコモンへの貢献などを取り上げて、そこにシステムを飼いならすやり方の可能性を示唆しています。つまり、システム全体を飼いならす必要はなく、自分たちの近隣地区において、いいかえれば真正な社会において、〈コモン〉を基盤として飼いならせばよく、それはそんなに途方もないことではないということです。
 同じように、ハキム・ベイは、絶えず遊動するノマド的共同体(部族社会)によるTAZによるゲリラ戦に可能性を求めていましたが、絶えず逃げ続ける、あるいは絶えず祝祭的な行動をするというのも途方もないことです。しかし、逃避的様式による自律は持続的で恒久的なものにもあるということに気づけば、「趣味のグループや、古風な友愛会組織」にも(つまり日常的な生活のなかにも)自律ゾーンがありうるということにもなります。
 非真正な社会のシステムのなかに真正な社会が島々のように点在していること、そのような二重社会論という視点に立てば、システムのただなかで生活していても、システムに依存しない「メディアを介さない直接的なもの」としての自律ゾーンが維持できるということが明確になります。ジェームズ・C・スコットとハキム・ベイが別々のところからきて交差している到達点がそこにあるのだろうと思います。