人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(2)

 前回、〈コモン=共〉における相互扶助(「共助」)による社会のあり方に目を向けることが、ポスト・コロナ社会を考えるうえでも重要な人類学的視点となるというところで終りました。今回はその続きです。
〈コモン=共〉について、ネグリとハートは、『コモンウェルス』(NHKブックス)のなかで、それは「私たちの周りのいたるところにあるにもかかわらず、今日の支配的なイデオロギー[すべてのモノを所有物とみなし、私有物か公有物かのどちらかに分割してしまうイデオロギー]に目を曇らされているため、きわめて見えにくい」ものになっているといいます。つまり、近代社会が公(パブリック)と私(プライヴェート)という二分法によって成立しているために、あらゆる社会の基盤になっている〈コモン=共〉が見えにくくなっているというわけです。
 そのことを「アベノマスク」の例で考えてみます。安倍首相が布マスク2枚を全世帯に配ると発表したのは、4月1日でした。いまだにほとんどの世帯に届いていないようですが、緊急支援策としてなぜマスクだったのでしょう。確かに2月以降、中国での不織布のマスク製造の中止や人々のマスクの買い占めなどで、市場からマスクが消え、またネットでの高値の転売も見られました。つまり、マスクを私的領域の市場に委ねることによるシステムの機能不全が起こり、医療機関でのマスク不足も懸念される状況でした。そこで、公的領域である国家が介入してコントロールするという政策は合理的だったと言えます。実際、台湾政府は2月の早い段階からマスクを一種の配給制にして市場システムの機能不全の対処に成功しています。それに比べて、布マスク2枚の配給と転売禁止だけというのは中途半端な政策であるし、また今から言えば配給が遅すぎるというと言えますが、私的領域でのシステム機能不全を公的に修復する政策という意味では台湾の完全配給制と同じ種類のものです。
 ウィキペディアによれば、発案したのは佐伯耕三内閣総理大臣秘書官であると見られており、首相に対して「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」と進言したといいます。しかし、もし市場システムの機能不全からくる不安を解消するために役立つものであれば、これだけ配布が遅くなったときに、それを非難して「早く配れ」という声が大きくなったはずですが、実際に上がったのは「もう配らなくていい」という声の方でした。つまり、そもそも「アベノマスク」は市場の機能不全による不安解消の効果はなかったということになります。
 では、市場からマスクが消えたので公的支援として支給するという一見合理的にもみえる「アベノマスク」はなぜ最初から失敗だったのでしょうか。それは、発想した官僚や政治家が、公(パブリック)か私(プライヴェート)かという二分法のイデオロギーに目を曇らされて、共(コモン)という領域を見逃していたからだと思います。つまり、市場というシステムの機能不全による不安は、公的なアベノマスク以前に、共(コモン)における相互扶助によって解消されていたのではないか、というのがここでの仮説です。
 市場という私的領域では、人は利己的に行動します。利益のための転売は資本主義的には当たり前の行動ですし、品薄になれば買い占めることによって自分だけでも不安を解消しようとするのも消費者として当然の行動です。それが市場システムのルールに則った行為だからです。しかし、マスクは手作りできるものです。マスクが品薄になってからさまざまなメディアでマスクの手作りの仕方も出回りました。そして、マスクを手作りしてうまくできると人にあげたくなります。商品としてのマスクを買い占めていた同じ人が、マスクを手作りするとただで人にあげたくなるというのが面白いところです。また、マスクを買いだめした人も、親しい人にはおすそ分けするでしょう。「マスクが足りなくなったら言って。余っているから」というの会話は普通に聞かれたはずです。
 つまり、その人が利己的なのか利他的なのかという性格の問題ではなく、市場という私的領域では利己的に振る舞うように要求されるからそのように行動するが、初めてマスクを手作りしてみたという行為は、市場という領域とは無関係のところでなされる行為なので利己的になることなく、人にあげて喜ばれるのがうれしいという行動をとるわけです。それは、コモン=共という領域では当たり前の普通の行動なのです。小池都知事のマスクは「百合子マスク」と呼ばれているそうで、近所の人が作ってくれたのをもらっているという話ですが、市場から商品としてのマスクが消えたとき、その不安を解消してくれるのは政府が公的支援として配給する「アベノマスク」ではなく、人びとが分かち合っている(シェアリングしている)「百合子マスク」のほうだったのでしょう。
 このように、システムが機能しなくなったときに大事となるのが、別のシステムというより、社会の基盤に潜在していたコモン=共における相互扶助(グレーバーのいう「基盤的コミュニズム」)なのです。ただ、新型コロナウイルス感染症が厄介なのは、感染予防のために、人と人との接触を削減せよ、人と共に飲食することを避けよ、といった行動方針が出されることです。そのような接触や共食こそがコモン=共を作る場であり行為であるのに。つまり、ポストCOVID-19社会では、在宅勤務が常態になることも含めて、コモン=共を生む場が削減された社会となってしまう可能性があるのです。
 それに関連して、ポストCOVID-19社会には「お店」や「小商い」の危機ということがあります。当然、お店も小商いも資本主義システムの中にあります。しかし、平川克美さんが『小商いのすすめ』という本(ミシマ社、2012年刊)のなかで、「小商いとは、自分で売りたい商品を、売りたい人に届けたいという直接的につないでいけるビジネスという名の交通であり、この直接性とは無縁の株主や、巨大な流通システムの影響を最小化できるやり方」なのだと言っています。このように、小商いはシステムのただなかでの営みでありながら、コモン=共における相互扶助に近い性格をもっていました。その「お店」や「小商い」が危機をむかえています。そして、その危機を乗り越えるやり方も、コモン=共における相互扶助しかないのです。つまり生産者・経営者と消費者・顧客というシステムにおける役割関係ではなく(「金を払っている客なんだから」という態度をとる人は「お店」や「小商い」から弾き飛ばされます)、苦しいときは互いに助け合うという相互扶助の関係をそこに維持していくことが、公的支援とともに重要になります。
 それにしても、「お店」や「小商い」への公的な支援は遅いし少ない。せめて家賃保証ぐらいすぐにできるのかと思っていましたが。これは、小商いの店を潰して大手だけを救済する災害資本主義(惨事便乗型資本主義)かと勘繰りたくもなります。政府は休業した店に対して直接の公金による補償はできないという立場を崩していません。安倍首相は4月7日に、緊急事態宣言で営業休止を求められた事業者への直接の補償はできないと明言しました。その理由は、休業要請にかかわる飲食業に補償したとしても、同じく事業に影響が出る「飲食業に品物を納入する仕入れ業者や生産者」は休業要請外となり補償も対象外となるため、公平性を保てなくなるという、よく分からないものでした。「飲食業に品物を納入する仕入れ業者や生産者」には直接に休業要請や指示をするわけではないという明確な違いがあるのですから、公平性に問題はないでしょうし、そもそもそれらの業者にとっても取引している飲食業がなくなってしまえばもっと重大な損失になるでしょうから、不公平だという主張はしないでしょう。前にも述べたように、小商いは、仕入れ業者や客との間に直接的な持ちつ持たれつという相互扶助の関係を作るものですが、首相の見解は、そのようなコモンや相互扶助を否定するだけでなく、そのような関係を壊そうとしているのだといえるでしょう。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックは、自分のやっている仕事が社会的に役に立っているのか、不要不急ではないのか、あるいは「クソどうでもいい仕事」なのではないのかということを考えさせる機会になっているのは確かでしょう。デヴィッド・グレーバーの『クソどうでもいい仕事(Bullshit Jobs)』という本には、2015年にイギリスの調査会社が本の基となったグレーバーの短いエッセイを引用しながらおこなった調査の結果が記されています。それによれば、自分の仕事が「世界に意味のある貢献をしている」と思っている労働者は50%に過ぎず、37%の人が有用な貢献をしていない仕事だと思っているということです。この数字は、今回のパンデミックによる休業を受けて、もっと上がっているのではないでしょうか。
 グレーバーのいう「クソどうでもいい仕事」の多くは組織の維持、防衛、飾りつけのためのものです。具体的には、企業弁護士、ロビイスト、マーケッター、PR調査者など、組織の敵にたいする攻撃をする仕事、受付係、秘書、広報、社内広報誌の編集など、組織を立派に見せるための仕事、出来の悪いプログラムの修正など、そもそもあってはならない問題を日々手直しする仕事、何も決定せず次の日には忘れてしまうような合意を作る会議やプレゼンの仕事、そしてそういった無用な業務を生み出す中間管理職などの仕事が挙げられています。こういったクソどうでもいい仕事は金融、保険、不動産といった部門に多いとグレーバーは言います。
 経済を防衛するために経済を回すというとき、守るべき仕事はこのようなクソどうでもいい仕事です。これらは高給でありGNPを押しあげているものだからです。それに対して、パンデミックの最中にも休業できない、生存経済を維持する仕事、すなわち「命のケア」をする仕事である、看護師や介護士などの医療従事者、食糧を生産する農業従事者、バスの運転手など公共交通機関の従事者、スーパーなどの食品小売業の従業員、教師、保育士、ごみ収集の従事者などは、医師という例外を除けばたいてい低賃金だとグレーバーは言います。このような仕事をしている人たちは、現在、感染のリスクを負いながら働いているにもかかわらず、人びとの差別や怒りのはけ口となっています。また、そのような「命のケア」をする人たちのケアをする仕事、たとえば医療従事者の子どもを保育する仕事や、その人たちのためにボランティアで食料の配給や買い物をする人たちも、リスクを犯して働いています。
 休業を余儀なくされている仕事の中にも、クソどうでもいい仕事ではなく、社会にとって有用な仕事があります。社会的に有用な人たちが明日を生きるために、居心地の良い「サードプレイス」を提供している飲食店やパブ、カフェの営業や、音楽、演劇、美術などの芸術を提供する人たちの営み、すなわち「命の再生産」の(日本語で「いのちの洗濯」と表現する)仕事です。
 これらの仕事を維持するためにはシステムによる公的支援が不可欠なのですが、それだけに頼っていては失われてしまいます(ただでさえ日本では「クソどうでもいい仕事」の保護が優先されますから)。そのためにも(そしてシステムに頼り過ぎないようにするためにも)、ボランティアを含めたコモン=共による相互扶助(共助)が大事になってきます。震災のときとは違って、今回のパンデミックは移動が制限されているのでボランティアがしづらい面もありますが、逆に言えば被災地が限られていないので、自分の身近で、自分で見つけだすボランティアの余地はいくらでもあるわけです。それこそ、指示によって動くのではなく、自分たちで創意工夫をする共助という、自治社会に向けてのボランティア活動が生まれてくる可能性があるのです。

 そのことは、「災害独裁(惨事便乗型独裁)」に対抗して民主主義を創りだす実践についても言えます。そもそも新型インフルエンザ等対策特別措置法は、罰則や強制力なしの外出規制をするもので、その意味で悪い法律ではないでしょう。日本維新の会はこの法律についてボロクソに言っていますが、その理由として挙げている強制ではないので補償ができないという点は、強制でなくても補償をやろうと思えばできるのですから間違っています。安倍首相も西村担当相も「要請」だから補償しないとは言っていないし、特措法に補償が明記していないから補償はできないとも言っていません。別に決めればできるわけですからそうは言えず、だから公平性に欠けるとか他国でもやっていないというでたらめな理屈(ドイツでは労働者だけではなく事業者にも補償しているはずです)を述べているわけです。維新の会の主張している欠陥は、罰則や強制力も付けて憲法にも緊急事態条項を付けるということを正当化するためのものということでしょう。
 もちろん補償はするべきです。しかし協力の要請だけでは限界があるので罰金などの罰則や警察などによる強制執行などをできるようにするべきというのは、システムや権力に服従させたいというだけです。ハラリが「フィナンシャル・タイムズ」紙への投稿で言っているように、今日、何十億もの人が毎日石鹸で手を洗っているのは、手洗いを怠る人を取り締まる「石鹸警察」や罰則を恐れているからではなく、この単純な行為が自分を含めた多くの人の命を救っているからだという事実を理解しているからです。犯罪社会学が統計的に明らかにしているように、法を犯す人が少なくなるのは罰則を強化することによってではなく、人びとがその決まりの意味を理解することによってなのです。いわゆる「自粛警察」を買って出る人たち(店に貼り紙をしたりする行為自体が犯罪だという矛盾はさておき)は、その理由を少しも理解せずに、実際に他の人びとの命を脅かす行為かどうかに関係なく、自分が権力に盲目的に服従しているのに、服従しない人がいることに我慢できないというだけです。
 実際に罰則や強制力もない特措法に基づいて外出やその他の行為の規制を要請するときに大事なのは、為政者や専門家がきちんとその理由を説明して理解してもらうことです。実際に説明がうまくいけばほとんどの人たちは協力します(いまでも9割くらいの事業者たちが補償は十分でないのに協力しています)。最初から生存に関係のない仕事をしている事業者や企業に(つまり基本方針で生活に必要な業種を決めて、それ以外の事業者に)労働者を出社させないように協力を要請していれば、とっくに緊急事態宣言は解除できたでしょう。もちろんそれは経済至上主義を採る政府にはできなかったでしょうが、長引けばそちらのほうが大きな悪影響をもたらす可能性が高いでしょう(ですからニュージーランドは早く厳しく制限して既成の期間を短くするという選択をしたわけです)。
 つまり、罰則や強制力もない特措法の意義は、強制力によって従わせるのではなく、政治家も専門家も言葉による説明を丁寧にして理解してもらうという民主主義を実現させる可能性があるということにあります。そして、そちらのほうが罰則や強制力や独裁的な監視よりも、自分のためという合理性にしたがって要請に協力するという、より広範囲な効果を期待できるのです。実際、不要不急の通勤をやめていたならば、罰則や強制力なしに8割の接触削減はできたというのが専門家委員会の分析でした。通勤を止められなかったのは特措法の不備ではなく、その運用の不備だったのです。
 この場合でも、その民主主義はシステムとしての議会制民主主義(間接民主主義)というよりも、直接言われたことを自分で理解した上で従うという「自治」の民主主義です。もちろん、議会で立法した法律というメディアで規制し、それの意義や理由を首相や自治体の長がマスメディアを使って説明するというのはシステムの次元(非真正な社会のレベル)のものであり、メディアを介した分だけ非真正性(まがいものらしさ)が付きまといます。しかし、そのシステムの中で、コモンや真正な社会のレベルにおいてシステムへの依存を縮減してその支配を和らげることはできます。顔見知り同士でそれについて語り合い理解すること、そしてそれぞれの個別の事情も知っている仲であれば、理解しながらも従えないという事情も分かり合えます。そこにはファシズム的な「自粛警察」が出現する余地はないのです。
 もちろん、ハラリの言うように、システムとしての議会制民主主義や科学的合理性によって惨事便乗型独裁に対抗することも必要です。けれどもそれだけだと、非真正なレベルでのシステムの支配や専門家支配を強化してしまう恐れがあります。それに対抗するには、真正性の水準で区別される二つの民主主義の区別をして、コモン(真正な社会)での直接的コミュニケーションによる民主主義を基盤にして、そこからシステムを懐柔していくことが大切なのです。