内山節『怯えの時代』を読む

内山節『怯えの時代』新潮社(新潮選書)2009年2月20日発行
Isbn:9784106036293

 内山節さんは、私が現在もっとも関心を寄せている哲学者です。東京と群馬の上野村という山村の「二重生活」をしながら書かれた、『「里」という思想』(新潮社、2005年)、『「創造的である」ということ 上・下』(農文協、2006年)、『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社、2006年)といった著作は、このところの私の研究テーマである「共同体」や「ローカル」という概念の再構築というテーマにつながるものでもあるからなのですが、それ以上に、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」にとても近いセンスを感じるからでもあります。
 レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」という視点から「共同体」や「ローカル」を捉えなおすと、「社会の二層性」ないしは「二重社会」という見方に行きつきますが(私も最近ようやく行きついたのですが)、改めて内山さんの書いていることを読み返すと、この「社会の二層性」や「二重社会」ということに接近したものだということにも気づきました*1)。それは、内山さんが、人類学者のような(時間量は人類学者のフィールドワークをはるかに凌いでいますが)「二重生活」をしているに関連があります。内山さんの以前の本に見られる「社会の二層性」については、また別の機会に触れることにして、早速、最新著『怯えの時代』についてみていきましょう。
 この本は、「二〇〇六年六月二十二日。妻が死んだ」という、ショッキングな書き出しで始まっています。そして、次のように続きます。

 それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分のためだけにある。すべてのことは自分だけで決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。(7-8頁)

 この自由は、現代人の自由と共通すると、内山さんは言います。つまり、喪失によって獲得される自由、そしてもう一つは、ケータイでメールを打つ自由やテレビのチャンネルを変える自由のように、現実のシステムを受け入れ、それに依存することによって獲得される自由、それが現代人の自由というわけです。それを内山さんは、「孤独な自由」、「自分の世界だけで自己展開する自由」、「他人から承認の受けることのない自由」と言い換えてもいます。
 そして、この「自由」に対比されるのは「自在」です。秋葉原無差別殺人事件を起こした青年に触れて、内山さんは、つぎのように書いています。

 報道されていることをみるかぎり、この青年はうんざりした自由のなかで生きていながら、自在に生きた経験をもたないということになる。学生時代にも自在には生きていなかったようだ。仕事をするようになっても変わらなかった。事件をおこした頃は、自動車会社の派遣社員として働き、宿舎との間を往復していた。いつでも解雇されうる身分のなかにいた。将来給与が上がっていく「楽しみ」もなかった。そして単なる数の一人として生きている自分を感じていた。
 それを、かけがえのない自分ではなく、交換可能な自分、といってもよい。交換可能な派遣社員であり、交換可能な一人の人間である。
この現実を承認しさえすれば、青年は自由を手にすることができたのである。ネットのなかにもう一人の自分をつくりだすこともできただろう。映画をみたり、音楽を聴いたり、今日の夕食を考えたり、旅行計画をたててみたり。そうだ、自由人になることはできたのだ。たとえ収入は少なくても、少々の工夫によってそれらのいくらかは実現することができたはずだ。
 青年の悲劇はそのことのなかにうんざりした自由をみてしまったことだ。自在に生きていない自分をみてしまったことだ。もしも彼女がいたらこんなことはしなかったと青年は語っていたと報道されている。彼女がいるということは、制約されるということだ。自由のひとつを失なうということだ。時間は自分だけのものではなくなるだろう。お金の使い方も制約されることだろう。だがそのことが、自分を包んでいるうんざりした自由、孤独な自由を払いのけてくれるかもしれないと期待していた。
 犯行を止めてくれる誰かが現われてくれることに期待していたのも同じことだ。その人が現われたら、自分の行動は制約される。思うがままに犯行を実現するという自由のひとつが失なわれる。だがそこにうんざりした自由の連鎖からの脱出を期待した。(12-13頁)

 プロローグの部分から長々と引用しましたが、この本の第3章までは、かなりペシミスティックなというか、絶望と言ったほうがいいようなトーンで書かれていることを示すために、引用してみました。それは、資本主義と市民社会国民国家からなる近代のシステムの問題点はすでに分かっていても、もはや誰にも解決することができなくなってしまったという認識からくるものですが、「真正な社会」である群馬の上野村について書かれたものとは違って、そのシステム、つまり非真正な社会について書かれているからでもあるでしょう。
 さて、そのシステムへのペシミックな診断ですが、第1章は、マルサスの『人口論』で始まっています。マルサスは食糧生産の有限性の問題を扱ったわけですが、その問題を一般化すれば、「資本主義とは、拡大再生産をとげることを正常な姿とする生産様式」であり、「無限の発展を予定した生産様式」ですが、「この無限の発展を可能にするには、資源としての自然も無限に存在しなければつじつまが合わない」(24頁)のにもかかわらず、自然は有限です。このジレンマにどう対応したらいいのか、これが一般化されたマルサス問題ですが、内山さんによれば、「この問題に対するほとんどの経済学者たちの対応は、自然は無限に存在するものとして仮定する」というものでした。この「自然は無限に存在する」という「仮説」は明らかに間違っていますが、その「仮説」の上にシステムが成立している以上、それを否定したら、経済学者だけではなく、経営者も消費者も自分たちのあり方まで否定されてしまうわけです。そこで要請されるのが科学技術の進歩という「魔法の杖」です。「科学技術の発展が不可能を可能に変えていくだろうと信じることによって、人々は自然の有限性という問題を脇に追いやった」(25頁)のです。
 ここにも、「問題の所在はわかっても、誰も解決手段をもてなくなってしまっている」という、現代社会の無力感が現われています。つまり、このような「仮説」によって問題を脇に追いやるのは無責任のようにみえますが、拡大再生産しつづけること、経済成長をすることが正常であるというシステムが生まれた以上、縮小することは負の連鎖を生んでしまいます。「経済の拡大が止まるとき、根本にある矛盾が噴き出してしまう」のであり、「しかもそれは多くの人々の労働や生活をおびやかしてしまう」(68頁)のですから、単純に、経済成長なんていらないというのは解決にはならず、そっちのほうがかえって無責任になってしまうのです。
 じゃあ、多くの経済学者のように、経済成長がほとんどの問題を解決すると言っていればいいのか、あるいは自然の有限性につきあたるまで*2、このシステムを改革しつつ維持していけばいいのかといえば、自然の有限性の問題以外にも、このシステム自体が劣化していかざるをえないという問題があります。内山さんが第2章「経済と諒解」で取り上げている事例は、「流通と生産の関係の断絶」です。
 内山さんは、古代から流通が生産をうながしてきたといいます*3。資本主義的な経済も、「貨幣→消費→流通→生産」の順で経済は形成されていくのですが、「資本主義的な経済は、この一連の流れとしてとらえるのではなく、個別経営の領域で自己完結させるかたちで成立した」(62頁)と内山さんは言います。そして、「ここには原理として、経済と経営の不調和が生まれている。マクロ経済とミクロ経済の不調和である」(63頁)と述べています。この不調和は、経済学者が「合成の誤謬」と呼んでいるもので、不況では、個別の経営体が自己を守ろうとして、人員整理や融資の削減などを進め、消費者も家計を守るために貯蓄や買い控えをし、小売りなど流通業も安売りをすることで、経済の総体をますます縮小・破壊していくというものです。ただ経済学者は、不況の時の問題とだけ考えているようですが、内山さんは、劇的なかたちで顕在化する不況の時にかぎらず、経済と経営の不調和はシステムを劣化させていくと示唆しています。その一例が、流通が主導権を握るようになったこと(「流通革命」)による生産の劣化です。量販店が発生してくると、ひたすら低価格での仕入れ・販売を目指し、生産者が生産を維持できないレベルまで仕入れ価格の低下が要求されます。その結果、賃金の安い地域への工場移転と非正規雇用の低賃金労働者が増加し、市場が縮小し、ますます低価格を目指し、工場移転と派遣の増加という悪循環が生まれます(これは、今回の不況以前の、好況といわれた時期に進展していたことです)。
 ここからみえてくるのは、流通と生産が相互性を失ない、流通の自己完結化が進んでいる姿であり、流通が生産を促すのではなく、流通が生産の劣化を促している姿だと、内山さんはいいます。「消費者は王様」という欺瞞的なキャンペーンにより、流通が生産から主導権を奪った結果(ついでにいえば、それを「生産社会から消費社会へ」とした社会学的分析も欺瞞的であったといえるかもしれません)、流通の価格要求に応えるために(これを「国際競争力」と呼んだのも欺瞞的です)、生産拠点は海外の低賃金地域に移され、国内での工場では非正規雇用が増え、農村では、農業を放棄したくなるような価格でしか仕入れないために農業がたちゆかなくなったというわけです。

 だが問題は、流通が軸になったとか金融が軸になったというところにあるわけではない。流通と生産の関係が断絶し、あるいは金融と生産の関係が断絶し、流通や金融が生産の劣化を促すようになってしまったことに、現代資本主義の問題がある。経済活動の相互性や連続性が失なわれ、流通や金融が自己完結型の利益追求をめざすようになったことが、経済規模は拡大しても、経済社会は劣化するという現象を生みだしてしまったのである。(92頁)

 つまり、不況を脱して経済成長することは、人びとの生活を守るためにも必要であるけれども、経済成長に戻ったところで、問題の根本は解決されないというわけです。このように、問題の所在は指摘できても、誰も解決の手段をもたないという、やりきれない無力さはここでも表れています。
 そして、そこからくるペシミスティックなトーンは、つぎの第3章「不安と怯え」でも続きます。そこでは、近代のシステムは資本主義、市民社会国民国家の相互性からなるものですが、その三つとも、個人を基調としたシステムであること、そのために、「結び合い」(個人と個人の連帯ではない、「連帯」)がないがしろにされてきたことが指摘されています。社会学が「個人化」と呼んできた問題ですが、ここでも、つぎのようなことが書かれています。

 だから問題は深刻である。私たちに「発展」と「自由」を与えてきた原理が、私たちの未来を閉じさせている。つまり、私たちが未来をつかもうとすると、近代社会の原理や構造が今日の問題を生みだした原因として現われてきて、しかもこの仕組のなかで暮らし、「自由」を得てきたわれわれの存在が問われてしまう。だがそれを問わなければ、壊れていく社会のなかで漂流する自分をみいだすことになるだろう。何かを喪失したことを感じながら手にした自由や、何かに飲みこまれ、何かからはきだされていく自己をそのときみいだしながら。(123頁)

 ではどこに希望が見出されるのか。それがようやく第4章の「冷たい貨幣か、温かい貨幣か」で述べられることになります。その希望とは、「温かい貨幣」です。経済システムや国家のシステムと結びついている領域では、貨幣は純粋な貨幣価値しか語らない「冷たい貨幣」ですが、人と人との関係のなかで使用される貨幣、あるいは人と人との関係のために使われるお金は「温かい貨幣」だと、内山さんは言います。たとえば、昭和恐慌のときに津々浦々につくられた「無尽」(頼母子講)や、愛する人のために使うお金が、「温かい貨幣」です。内山さんは、つぎのように言います。

 これまで多くの人たちが、「お金で買えないもの」を大事にする生き方をしなければならないと説いてきた。それはそのとおりだ。お金では買えない豊かさや幸福感といったものを視野に収めていなければ、私たちは「冷たい貨幣」に振り回されるばかりだ。だがそれだけで十分なのかと言えばそうではない。なぜなら良い悪いは別にして、現状では私たちは貨幣の世界から離脱することができないかたちで存在しているからである。たとえお金で買えないものをみつめていても、貨幣を介するしかない部分では「冷たい貨幣」に振り回されてしまうことになる。
 そして、だからこそ、「冷たい貨幣」を「温かいお金」に変えることが必要なのである。私たちの等身大の関係のなかで、貨幣価値とは異なる価値を付与しながら、「温かいお金」を創造していくことが、である。(164頁)

 近代世界は人間と人間の結びつきや自然と人間の結びつきを、商品の結びつき、市場での結びつき、巨大システムによる管理に変えた。「冷たい貨幣」の時代が展開していった。生命世界のなかに自分たちは生きているという感覚は消え、市場経済や巨大システムの動揺に怯えるようになっていった。
 この状況に対して新しい巨大な社会システムを提示することは有効ではない。ローカルな世界、ミクロな世界、「里」の世界、どんな言葉を使ってもよい。生命が結び合う確かな世界をつくらないかぎり、私たちは喪失によって手に入れた自由人であり、自分を守ろうとする怯えた存在でありつづける。(172頁)

 「冷たい貨幣」を「温かいお金」に変えるには、ローカルな世界、ミクロな世界、「里」の世界、つまり「真正な社会」がなくてはならないのです。「温かいお金」という、読む人によっては拍子抜けするような「希望」は、巨大システムを前にすると、とるに足らないものであるかのようにみえるかもしれません。しかし、それは、巨大システムと真正な社会との区別を、貨幣やシステムを追放することを夢想するのではなく、たえずその区分線を引きなおしながら、維持していく実践です。つまり、「希望」は、幸いなことに、非真正な社会(巨大な社会システム)と真正な社会(「ローカルな世界」)とは別の社会様態として存在し、人はその二つの異なる社会の層を二重に生きているということにこそあるということになるでしょう。
 それがどうして「希望」なのか、これだけではわかりにくいかもしれません。もう長くなりましたので、それについては、内山さんの他の著作に「社会の二層性」ないしは「二重社会」の視点を読みこんでいくときに、もうすこし説明したいと思います。(つづく)

*1:内山さんの本に限らず、このところはいろいろな本をこの視点から読み返してみているのですが。

*2:現在の経済成長の基盤が「石油」や「希少金属」の消費という有限な自然物に依存していることを考えれば、つきあたるのも時間の問題で、現実は「無限の経済成長」などと現時点でも言っていられない状況だと言ったほうがいいでしょう。すでに指摘されているように、それは、原子力や「都市鉱山」の発掘(?)といった対処法では根本的な解決は不可能なのですが、いまのところ唯一の方策は、「地球温暖化」という問題にすり替え、本当の「不都合な真実」は脇に追いやるというものです。でも、経済成長に私たち自身の生活が依存しているあいだは、見て見ないふりをする以外に手の打ちようがないのでしょう。

*3:補足しておけば、内山さんは、「もちろん太古の自給自足的な経済を想定するなら、経済の出発点は生産にあったことであろう。生産をし、集落のなかで分配することで、石器の材料になった黒曜石などを除けば、経済は完結したはずだからである」(58頁)と言っていますが、人類学的にいえば、ローカルな共同体であっても、自給自足的に完結していたのではなく、贈与――クラやポトラッチはその派手な形態です――が余分な生産を促していました。つまり、そこでも流通が生産を促していたわけです。