C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』を読む

 C・ダグラス・ラミスガンジーの危険な平和憲法案』集英社新書、2009年8月刊
Isbn:9784087205053

 不思議な本でした。
 ガンジーの独立についての構想の異様ともいうべきラディカルさは、今回のこの本ではじめて知りました*1。それだけでもこの本は読む価値があります。ガンジーが考えていた「独立=自立」とは、インドの70万の村ひとつひとつを自立した共和国にするというのですから。
 想像してみてください(ジョン・レノンみたい)。70万の共和国! そのひとつひとつが主権をもちます。たとえ、村が集まって「タルカ」をなし、タルカが集まって地域をなし、地域が集まって州をなし、州が集まって連邦をつくるとしても、州や連邦に権限や強制力はなく、村のために助言と提案をするだけ。あくまでも主権をもった村=共和国が全インドを埋め尽くす。すごい。
 ガンジーは、インドの村の平均人口が400人くらいと言っています[77頁]。インドの1950年の人口が約3億5000万人ですから、ガンジーのいうように70万の村があるとすると、ひとつの村の人口は約500人。もちろん当時でも都市の存在が平均を押し上げていますから、たしかに、村の人口は平均400人ぐらいになるでしょうか。

 この400人という数字がポイントです。このブログの読者ならピンとくるでしょうけれども、ちょうどレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」の規模です。つまり、ガンジーは真正な社会を共和国とし、非真正な社会から権力や主権を奪い取り、そのことによって非真正な社会から暴力を剥ぎとって霧散霧消させようと構想したわけです。再びすごい。
 これはたんなる「直接民主主義」の実現や「地方分権」とはまったく違います。400〜500人の、主権を持った共和国ですよ。これは、5万人や数十万人の自治とか地方主権とか直接民主主義とはまったく性質を異にしています。そして、それこそがこの本で紹介されているガンジーの構想のラディカルさのポイントです。

 けれども、ダグラス・ラミスさんは、独立前のインドや明治時代のようにほとんどの人びとが村に住んでいた時代ならいざしらず、農漁村も産業資本主義システムに完璧に組み込まれた現代社会では、ガンジーの村中心の「逆さま国家」の実現可能性はないといい、村の代わりになるのが「市民社会」だとしてしまいます。
 ダグラス・ラミスさんは、「市民社会」を、自分の前著『ラディカル・デモクラシー』から引用して、つぎのように言っています。

 大衆社会とは違い、市民社会は一個の群ではなく、公式および非公式の多様な集団や組織の複合体であり、そこに結集する人びとの目的も政治、文化、経済と多種多様である。[148頁]

 そして、市民社会は、「国家を乗っ取ったり取って代わることをせず、国家と立ち向かい、国家を置き去りにし、国家をコントロールする」[149頁]点で、ガンジーの逆さま国家思想と似ていると言います。しかし、この「市民社会」が「非真正な社会」であるのは明らかです。これでは、真正な社会(これは現代の都市でも可能です)が主権をもって自分たちのことを決めていく*2という、ガンジーの逆さま国家思想*3の本当のラディカルさはなくなり、ただの平凡な「ラディカル・デモクラシー」になってしまいます。

 ガンジーの構想のラディカルさを紹介したあと、そのラディカルさを消去するという意味で、不思議な本でした。

*1:ガンジーの『わたしの非暴力 1・2』(みすず書房)を読んでも分からないですからね。

*2:したがって、国家に立ち向かう必要もコントロールする必要もないし、主権をもつという点で「地域エゴ」ということもなくなります。地域を超えた道路建設とか水利問題とかは、まったく権限のない「州」とかが助言とか勧告をしたりするのでしょうが、意見が一致したときでも、いくつもの共和国(村・ご町内)がお金や労力を出しあって自分たちで建設することになるのでしょう。しかし、意見の相異のあった場合は、外交問題になります! 一つの共和国=村・ご町内も、自分たちの意見を通そうとすることが「外交問題」となると、さまざまな説得と納得の言説を用いなければならなくなるし、内部の400人も自分たちが行うことを自分たちで決めるという主権をもつことになれば、さまざまな意見を言うようになり、その内部でも説得と納得が必要となって、「主権在民」の生きた実地教育の場となるでしょうね。

*3:上の方に行けばいくほど権限や権力がないという意味での「逆さま」です。

レヴィ=ストロース追悼

 レヴィ=ストロースが10月30日に亡くなったというニュースが今朝はいってきました。コメントでもそのことを書かれた人もいましたね。去年11月に100歳の誕生日を迎えたときも寝たきりになっていたので、ああやっぱりそうなのかという感想でした。「祝 レヴィ=ストロース100歳の誕生日」を書いてから1年もたたないうちでしたね。
 共同通信社から追悼文の寄稿を依頼されましたが、短時間で(もちろん予定原稿なんか作っていませんからね)、しかも原稿用紙3枚ぐらいだと何も書けない感じで、いちおう寄稿しましたが、新聞向けとは思えないものとなりました(依頼した方も、時間がないので、しょうがねえなあという思いで配信するのではないかな)。
 いま、その改訂増補版を書いているところです(まあ、代打で三振したあとにベンチ裏で素振りしているようなものですが)。これくらいの枚数だとすこしはましなものを書けたのになという思いで、加筆したものを以下に載せたいと思います。素振りっぷりを観賞してください。

 10月30日に100歳で亡くなった人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、20世紀最大の知的革命であった「構造主義」を主導したことで知られている。
 レヴィ=ストロースがその著書『野生の思考』(1958年刊)のなかで行った、当時の知的英雄のサルトルへの批判で一気に注目されるようになった構造主義は、それ以前の知的潮流である現象学実存主義と違って、哲学者だけによるものではなく、広範な学問分野を巻き込んだものだった。それは、サルトル実存主義を含めて、西洋の思想が囚われていた「歴史主義」に対して、「野生の思考」から根本的な批判をしたものだった。
 彼の構造主義が疑問を投げかけたのは、いまも私たちのなかにのこっている「歴史は進歩する」という信念と「個人の能動的な主体性」という価値観に対してだった。
 そのため、構造主義は、歴史や人間の創意を軽視したものだとか、人間を構造の檻に閉じ込めるものだとか言われた。しかし、それは、構造という概念への誤解と、西洋近代が創りあげた価値観にとらわれているための誤解によるものといえよう。レヴィ=ストロースによれば、歴史の進歩という信念は「歴史によって自らを説明することを選んだ」西洋近代の文明でしか意味をもたない信念だ。構造主義が歴史を軽視したという批判は、それが歴史主義によって自らのアイデンティティを創りあげた西洋近代への根本的な批判だったことを理解しきれなかったことからきているといっていい。
 また、「構造の檻」などというとき、なにか建築の構造や社会構造のように固定された客観的実体ととらえてしまっているように思う。けれども、構造主義の構造はそういったものではない。なぜレヴィ=ストロースが誤解されやすい「構造」という語を用いたのかということを説明するためには、彼がその「構造」というアイディアを得た1940年代初頭のニューヨークに話をもっていかなくてはならない。
 レヴィ=ストロース構造主義は、1950年代のパリではなく、1940年代のニューヨークで生まれた。1941年にアメリカに亡命したレヴィ=ストロースは、翌年にローマン・ヤーコブソンと出会い、構造言語学の音韻論を学んだ。そこから、レヴィ=ストロースは「無意識のうちに働く二項対立群」というアイディアを引き出す。また、彼が「変換(変形)」の概念を学んだという生物学者ダーシー・トムソンの『成長と形態 第二版』は1942年に出版されており、これもニューヨークで読んだ可能性が高い。そして、学位論文である『親族の基本構造』を書きあげたのもニューヨークであったが、そのなかの分析のために、同じく亡命中だった数学者のアンドレ・ヴェーユ(シモーヌ・ヴェーユの兄)を訪ねて、数学的構造主義の教えを請うたのもニューヨークにおいてだった。ニューヨークという街でのいくつもの出会いが「構造」というアイディアを形作ったのだ。
 その「構造」という概念を理解するうえで重要なのが「変換」というアイディアである。レヴィ=ストロースのいう「構造」は、同じく要素と要素間の関係からなる体系(システム)とも違っている。体系は変換が可能ではなく、体系に手が加わるとばらばらになってしまうけれども、構造は、要素や要素間の関係が変換して別の体系に変化していっても、なお変わらない何かを指している。変換によって現われた新たな体系ともとの体系のあいだの関係が構造だといってもいい。つまり、構造は、変換を通じてはじめて現れる。別の変換をすればまた別の構造が出現するのである。それには始まりも終わりもない。
 このような構造という概念をみれば、構造主義が人間を構造の檻に閉じ込めたという言説が意味をなさないものだということがわかる。むしろ、レヴィ=ストロースは、変化しながら多様性を生成する構造の「連なりの場」へと人間を解き放ってくれたといったと言ったほうがいい。
 そして、この構造という見方からすれば、人間の創造力は「連なりの場」にあるものとしてとらえられる。「連なり」から切り離された個人の能動性に重きをおく西洋近代の価値観とは違って、それは、他人から与えられたものに、その他人の意図とは別の新たな様相を与えていくような創造性である。レヴィ=ストロースは、そのような人間の創造性を分析する手立てを、現在翻訳が刊行中の『神話論理』全4巻として遺してくれた。
 私たちはいまだに近代というただひとつの文明のみに適合している。そのことは、構造主義からポスト構造主義へという知的潮流(それは西洋哲学への回帰でもあった)が人びとからあたかも「歴史の進歩」のようにとらえられていることからにも示されている(実際には、ポスト構造主義も「歴史主義」の終焉を共有していたのだが)。そこでは、人と人とが具体的に関係しあい包括的に理解しあう「連なりの場」(レヴィ=ストロースはそれを「真正な社会」と呼んだ)から私たちは切り離され、そのために多様な創造性をもっていた「野生の思考」は均質的な「栽培された思考」となってしまっている(もっとも、レヴィ=ストロースは1968年のあるインタヴューで、いつのも悲観主義を引っ込めて、インターネットを予言していたかのように、「マスコミュニケーションの新しい諸手段が、いわば『野生の』状態で生まれてきている」ことに期待し、その「新しい諸手段」が文化を均一化しようとする傾向をもつことは確かだが、それが「一方向にのみ働きかけるのではない」こと、そして今日の若者が自分自身の文化を、両親の世代の文化とはまったく異質のものとして作り上げることを可能にするのもマスコミュニケーションの諸手段なのだと述べていた)。そのような現在、「ただひとつの文明に適合」することが、人類の多様な創造性を見えなくしてしまうのだということを示してくれたレヴィ=ストロースの人類学の真価は、ようやくこれから認められていくに違いない。

池内了『疑似科学入門』を読む

 学部のゼミのM君がゼミ論文のテーマを「疑似科学と呪術」とするというので、ゼミで発表してもらいました。その発表のなかで、「疑似科学」とは何かということを説明するのに、M君が池内了さんの『疑似科学入門』のなかの分類を批判的に紹介してくれたのですが、「ん?」という疑問符でいっぱいになったので、早速この本を注文して読んでみました。その結果、頭の中の疑問符はもっと増えました。

 私は、疑似科学似非科学ニセ科学)というものは、「マイナスイオン」とか「ゲーム脳」とか「電磁波の害」といった、「科学を装っているが科学的方法に基づいていない言説」のことを指すのかと思っていました。しかし、池内さんはそう思っていないようです。この本では、疑似科学を3つに分類しています。

《第一種疑似科学
 現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけこみ、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系(お御籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「疑似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。……
《第二種疑似科学
 科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。……
(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説。永久機関ゲーム脳が典型的……
(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスの種となっているもの。マイナスイオン、健康食品などがある。……
(c)確立や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説。……各種の世論調査も使いようによっては疑似科学になってしまう。また、月齢と交通事故の相関など、見かけ上の相関関係を因果関係として安易に結びつけ、事実誤認させる方法もある。……
《第三種疑似科学
 「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。この場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロとかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまう。……環境問題や電磁波公害のほかに、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知環境ホルモンなど、今社会的な問題になっていることの多くがこの範疇にはいる。
[『疑似科学入門』v-vi頁]

 先の定義にしたがえば、「疑似科学」は、この分類の《第二種疑似科学》の(a)(b)のみとなりますが、池内さんの分類では、「疑似科学」というカテゴリーは、何でも入れることのできるジャンク・カテゴリーになってしまっています。
 まず、《第一種疑似科学》ですが、そもそも「科学を装って」いないのですから、「疑似科学」や「ニセ科学」と呼ぶ必要性がないでしょう(後で科学者にとっての必要性には触れましょう)。警官でもないのに警官を装っている場合には「疑似」とか「似非」とか「ニセ警官」と呼ぶでしょうが、警官を装っているわけではない人を「ニセ警官」とはふつう呼ばないでしょう。「占い系」に入る「占星術」や「血液型性格診断」を念頭に置いているのかもしれませんが、占星術は近代科学以前のときにはもちろん「科学を装う」ことなどありませんでしたし(「真正科学」がないのですから「疑似科学」もありえません)、「血液型性格診断」はそもそも「占い」ではありません*1
 《第一種疑似科学》を疑似科学と呼ぶことについて、池内さんは、つぎのように言っています。

 第一種疑似科学とは、人間の心のゆらぎにつけ込む「まやかしの術」である。「科学」と名付けるのはおこがましいのだが、心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう。[3頁]

 「心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう」というのは意味不明で、何か日本語の書き間違いかと思ってしまいました。「心のゆらぎにつけ込む」第一種疑似科学は心理学の対象だという意味でしょうか。でも、なぜ科学や学問の対象だと、「科学」と名付けて構わないのかさっぱり分かりません。カマキリの擬態は生物学の対象でしょうけれども、誰もその擬態を「科学」や「疑似科学」とは呼ばないでしょう(「まやかしの術」には違いないけれども)。

 占いについて、池内さんは、「迷信」としながら、「そもそも自分の生き方を省みる方がもっと大切だと思われるのに、運命を自分に付随する事物に転化させようというのだから問題が多い」[4頁]と書いていますが、なぜ人類の文化に「占い」があり、科学によっては駆逐されないのか、人はどういう動機で「占い」に行くのかを調べて考えることなどしようともしていない点で、「疑似科学社会学」を目指している*2わりには「問題が多い」と思われます。「自分の生き方を省みる」ことで解決するような問題であれば、占いに行く必要もないでしょう。そして、運命を何かに転化するのも、それが他の手段では解消できない難問をかかえて生きていくために必要だからでしょう。
 百科事典で「占い」を引くと、

通常の知覚や合理的な推論によっては認識できない事がらに関して,一定の〈しるし〉を解釈することによって情報を得る方法。
 占いによって明らかにされるのは,現在や過去の隠れた事実,未来のできごと,個人の運命や行おうとしている行為の是非などであるが,実践的な判断を下すことを迫られている個人や集団のために行われるのがふつうであり,答えられるべき問いは,実践的かつ個別的である。……『世界大百科事典 第2版』(阿部年晴執筆)

とあります。つまり、人類学的にいえば、占いとは、「実践的かつ個別的」な難問についての解釈を求めるものです。
 一方、池内さんが書いているように、「科学の法則は、ある特殊な状況のみで成立するのではなく、普遍的な条件下で一般的に成立することが示されなければならない」[21頁]ものです。逆に言えば、科学の法則では、一般性しか言えません。ある悲惨な飛行機事故で、出張にでかけた息子が死んだとき、科学では、どのように(how)事故が起こったのかという原因を一般化された法則によって解明していくことはできます。それは、もう一度同じような事故を起こさないようにするためには必要なことです。しかし、なぜ息子が他ならぬその飛行機に乗ってしまったのか、他にスタッフはいるのになぜ息子が出張にいくことになってしまったのかという、なぜ(why)に科学はなにも答えてくれません。そのような単独性の出来事に解釈を与えるのが占いなのです。
 池内さんは、迷信や占いが「偶然の一致を過大評価してしまう」という特徴をもつと言っていますが、過大評価というより、そもそもその「偶然性=単独性」に解釈を与える装置なのですから、あたりまえです。それが科学ではないと非難しても、そもそも「科学を装って」いるわけではなく、科学とは異なる機能をもつ装置なのですから、非難するほうがおかしいでしょう。看護師に対して、「あなたは警官ではない、警官の役割も果たしていない」と非難して、「ニセ警官」呼ばわりをしているようにみえてしまいます。

 もちろん、「占い」を犯罪に利用する人たちもいますが、それは警察の取り締まりの対象であって、占いだから有害だということではないわけです。
 でも、池内さんは、「占い」自体に害があると考えているようで、「最も憂えることは、自分の頭で考えるのではなく、(神仏や人からの)ご託宣を何の疑問も持たずに受け入れてしまう体質になることである」[22頁]とし、次のように書いています。

その行き着く先は、観客民主主義が政治的に利用されファシズム導かれていく方向だろう。偏ったスローガンばかりになっても占いと同じで、それを疑うことなく信じてしまうのだ。今の日本がそのような道を歩みつつあることを強く危惧している。そこに疑似科学が片棒を担いでいるのではないだろうか。[23頁]

 占いは犯罪に利用されなくても、ファシズムの片棒を担ぐから有害だというわけです。ナチス疑似科学とは親和的だったし、科学的思考でファシズムを防げるといいたいのでしょうけれども、その言いかたは科学的ではありません。たしかに、観客民主主義もファシズムもオカルトや占いも、社会が孤立した人びとを大量に生みだしているからだといえるかもしれません。しかし、それと「ファシズムの片棒を担ぐ」こととは違います。ここには、池内さん自身がいう「みかけの相関を因果関係にしてしまう」疑似科学の方法と同じ方法が使われています。池内さんは、「平均寿命の伸びとクルマの保有台数には相関関係はあるが、これは直接の因果関係ではないことは明白で、所得の増加という共通原因があるためだ」という例を出していますが、それを言いかえれば、「ファシズムと占い=オカルトブームには相関関係があるが、これは直接の因果関係ではなく、その相関は個人の孤立化という共通原因があるため」ということになります*3

 さて、「第一種疑似科学」という分類の問題点だけで、十分長くなってしまいました。最後に、なぜ池内さんが、このような分類をして、まったく異なったものを「疑似科学」に放り込んでしまっているのかということを問題にしたいと思います。このようなジャンク・カテゴリーは、「オリエンタリズム」のようなアイデンティティ・ポリティクスにはよく使われるものです。つまり、自分にあると認めてしまったら自分のアイデンティティを確立できないようなモノすべてを、他者のカテゴリーに放り込んで、自分を純粋化するというものです。それは、「未開 primitive」というカテゴリーにも見られました。アフリカのネイティヴや東洋人や女性や子供、労働者階級や下層民、精神障害者や同性愛者など、なぜ一緒なのかと思うようなさまざまな人たちが「未開」というカテゴリーに放り込まれましたが、それはブルジョワ白人成人男性が「能動的で理性的で進歩的な自分たち」というアイデンティティを作り上げるためでした。
 同じことが、科学者による「疑似科学」カテゴリーの創出にもいえるような気がします。科学者としてのアイデンティティを純粋化するためという理由だけで、「第一種疑似科学」のような科学を装っているわけではないものまで「疑似科学」「ニセ科学」というカテゴリーに入れてしまうのではないでしょうか。そして、自分たちより低位のそのカテゴリーに属するものは自分たちがコントロールすべきだという態度(「未開」に関して言えば、それが植民地主義の態度です)も、このアイデンティティ・ポリティクスで説明できるでしょう。

*1:「血液型占い」といった題名の本がありますが、それは「占い」ということばの誤用でしょう。

*2:池内さんは「あとがき」で、「本当は『疑似科学社会学』としたかったのだが、社会学に関して素人の私だから、そう名付けるのはおこがまし過ぎるというものである」と書いています。

*3:ファシズムと占いに実際に相関があるかどうかはまた別の問題ですか。

祝100回記念! といっても何もないけど。

 このエントリーが、このブログの100日目になります。パチパチパチ。2006年12月30日に開設したので、34カ月、約1000日で100日、10日に1回というペースは目標としていた週1日に及びません。でも、知り合い以外はほとんど読んでいないのではと思うこともあり、最近ではコメントもほとんど寄せられないブログにしては、よく続いたと言っていいのかもしれません。
 深夜放送的なニッチを目指すといってはじめて、開設した最初の頃はコメントにずいぶん救われて書きつづけることができました(感謝)。もっとも、最近はコメントもめっきり減り、深夜放送にたとえれば、メールもはがきも寄せられないってことで、面白くないという評価なのかなという気がしています。「論文も書けない忙しさ」を理由にはじめたことを考えると、現在は論文を書く時間はまあまああるし、執筆中(と言えないかな、最近は論文のほうを書くのに忙しくてあまり書いていないから)の本も2年間待たせていますので(誰が待っているのかよく分からないけど)、そろそろ潮時かもという気もしています(「やめないで」という声を期待しているのが見え見え! でもスルーされそう)。
 まあ、とりあえず、自分でお祝いということで。目指せ、109回!

宗教紛争と「客体化された宗教」

 いま大学院の授業で、関根康正さんの『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社、2006年)を講読しています。この本のなかで、関根さんは、インドの今日の宗教紛争を招いているヒンドゥーナショナリズムイスラーム主義双方の「コミュナリズム(宗教対立主義)」の台頭に対して、セキュラリズム(世俗主義)を擁護しようという論調があるけれども、コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできないと言っています。
 すなわち、特定宗教を普遍的価値として主張するコミュナリズムと、すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズムの対立は、見せかけのものであり、両者は、「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(41頁)と言います。
 つまり、セキュラリズム(世俗主義)もコミュナリズム(宗教対立主義)も、宗教を「客体化」しているところで成り立つというわけです。「イデオロギーとしての宗教」と「信仰としての宗教」を分けたアシス・ナンディの議論を紹介している箇所で、関根さんは、「現代のヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)は……[生活の場から切り離された]『イデオロギーとしての宗教』を操作する世俗近代主義者であるとし、彼らは一義的に標準化され切り売り可能なイデオロギー商品「パッケージ化されたヒンドゥー教」(「パッケージ化されたイスラーム教」に対抗するように)を扱う商人のようなものであるというのがナンディの見方である」(46頁)と述べていますが、この「イデオロギーとしての宗教」が、「客体化された宗教」であることは見やすいと思います。
 それと区別された「信仰としての宗教」を、関根さんは、「生活宗教」とも呼んでいますが、それは「独善的で一枚岩なものではなく、その実践において複数性をもつ」と言っています。つまり、「客体化」される以前の、生活の場における実践を指しており、ヒンドゥー教徒でも、他の宗教の要素を範列的に選んだりする柔軟性をもっているものです。

 この視点からは、今日の宗教紛争が起こっている状況は、次のように描けるでしょう。まず、宗教というものを、私的領域に押し込めることのできるものとして「客体化」するセキュラリスト(リベラリスト)がいます。彼らにとって、特定宗教を絶対視する者は遅れた愚か者です。つぎに、宗教というものをセキュラリズムに対抗的に「客体化」して、一義的に標準化された操作可能なイデオロギー商品とするコミュナリスト(ヒンドゥーナショナリストイスラーム主義者)がいます。
 つまり、超越的立場からのセキュラリストの「客体化」が、コミュナリストによる対抗的な「客体化」を生んでいるわけです。これは、前回のエントリーで述べた、FGM(女性器切除)廃絶論者の「女子割礼の客体化」が、「伝統」としての女子割礼の存続を主張する側の「客体化」を招くという図式とまったく同じ構図です。

 さて、ここまでは、近代のシステムの側にいる者たちの話であり、宗教を客体化する者たちのことです。言いかえれば、〈顔〉のある関係からなる生活の場から離れ、標準化され一般化された論理とメディアによる非真正な社会で起こっていることです。そこにおいて、セキュラリズムとコミュナリズムとが「客体化された宗教」の対立を生みだすのですが、それが暴力的な宗教紛争となるのは、コミュナリストに扇動された「大衆」が現れるからです。インドで宗教紛争が激化するのは、経済自由化による市場原理の徹底とそれによる経済成長にもかかわらず、それによって相対的に低下していく中間層以下が、不安定さと存在論的不安の状態に置かれていくのと軌を一にしています。いわばネオリベラリズム的体制によって不安定化した「大衆」が、RSSやVHP、BJPなどのヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)によって扇動され、そのなかから、主に失業している若者たちを中心に、ムスリムに対して暴力的攻撃を行う者たちが出現しているというわけです。
 関根さんは、この構図を、差別の構図を説明するのに用いていた「二者関係」と「三者関係」という用語を使って説明しています。二者関係とは直接対面的な関係で、そこにも差別や暴力は必然的に生じます。けれども、自己が他者に向き合って振るう暴力や差別という「二者関係の暴力・差別」では、その都度の言い返し・やり返しや交渉といった直接的なやり取りに開かれているし、他の二者関係にもつながっている開放性があります。それに対して、「差別者・扇動者」「共犯者・扇動される者」「被差別者・排他的暴力を振るわれる者」という三者関係になると、この関係は固定化されます。「差別者・扇動者」が、サイードのいうオリエンタリズムにおけるオリエンタリストのように超越的立場にたって、全体を意味づけるからです*1
 宗教紛争や差別に対抗するには、この三者関係を崩す必要があります。人間の生に暴力がビルトインされている以上、暴力反対と唱えても効果がありませんし、そもそもデモクラシーを守るために暴力反対と叫ぶセキュラリストの足場が「超越的立場」にあるのですから、それはこの三者関係を強化するだけです。では、どうすればいいのか。三者関係を二者関係に戻すというのが、関根さんの答えのようですが(間違っていれば、関根さん、ごめんなさい)、近代思考やマス・メディアや法といった一般化されたメディアに介されて成立した三者関係をまったく無くすのは至難の業でしょう。国民国家だけではなく市民社会三者関係の構図そのものとして成立しているわけです。
 ただ、三者関係を完全に解体するのではなく、部分的にしかし不断に、三者関係を二者関係に戻すことはできます。三者関係のなかの「扇動される者・大衆」は、一般化された媒体に介された非真正な社会では「大衆」として現れますが*2、真正な社会(生活の場)では、二者関係をつないでいる人びとです。ひとは非真正な社会のみを生きることはできないゆえに、真正な社会と非真正な社会を二重に生きているというのが、私が唱えている「二重社会論」ですが、三者関係のなかの「扇動される者」も、真正な社会という足場をもっています。
 前のエントリー(9月26日の「西ケニアの「女子割礼」について」)で、「女子割礼はクリアの伝統だ」と、女子割礼を客体化していたクリアの「中間層」の男性が、自分の娘の話になると、客体化を中断して、生活の場の二者関係に戻っていくという例を出しました。関根さんのいう三者関係は、非真正な社会における「客体化」によって成立します。それを真正な社会における二者関係によって不断に中断させていくことが、三者関係を崩すことになっていくわけです。関根さんも、生活の場の「生活宗教」に、三者関係を崩す可能性をみていますが、それは「生活宗教」が真正な社会での生活実践であり、おそらく、関根さんのいう「三者関係を二者関係に戻す」ということにつながるからでしょう。つまり、それは、三者関係を解体するということではなく、三者関係と二者関係の間の「往復」を取り戻すということだと理解していいのだと思います。

 宗教紛争を「何百年、何千年もの歴史があるから解決困難なもの」とか(これはコミュナリストの「客体化された宗教」の言説をなぞってしまっています)、「遅れた愚かな狂信者による暴力であり、世俗化をすすめなければならない」とか「経済的・政治的状況に原因があり、経済成長と政教分離が必要だ」とか(これらもセキュラリストの「客体化された宗教」の言説をなぞっただけです)いった言説がまだ蔓延していますが、それらは宗教紛争を読み解くどころか、それを生みだす構図を強化するだけだということを、そして、それが「女子割礼」をめぐる議論(つまり「オリエンタリズム」の議論)とも重なっていることをすこしでも理解していただければ、このエントリーの目的は果たせたということになります。関根さんの議論は、「宗教」の本質としての「暴力」(「二者関係の暴力」「エロス」)という点にまで踏み込んでいますが、ここでは十分に触れることはできませんでした。それに対する私のコメントはまたいつか。

*1:セキュラリストも同じ「超越的立場」に位置していることを忘れてはならないでしょう。

*2:「大衆」の正確な定義は、「非真正な社会に生きる人びと」です。

再び女子割礼/女性器切除FGMについて

 前々回のエントリーで、私が調査している西ケニアのクリア社会の女子割礼のことを取り上げました。人道的介入を訴えるFGM(女性器切除)廃絶論者と文化相対主義に立つ人類学者の断絶を少しでも埋めて対話がなりたつようにという意図もあって書いたのですが、FGM(女性器切除)廃絶論者からのコメントもトラックバックもいまのところありませんね。

 これはひとえにこのブログの力不足のせいでしょう。Googleで「女子割礼」を検索しても上位200までに入っていないのですから、関心のある人に読んでもらうのは困難というものです*1。学生のレポートにも使えると思うのですが(単位がとれるかどうかは保証の限りではありません)。
 日頃からゴールデンタイム番組のような万人向けではない「深夜放送」的なニッチを目指しているなどと、読みにくいブログになっていることへの言い訳にしているから、いざ広く読まれることを狙ったものを書いても、当然読まれない結果になるというものです。
 悔し紛れにというわけではありませんが、再び「女子割礼/女性器切除」を取り上げて、少しでも読まれるようにしようという魂胆です。

 さて、前々回のエントリーに対して、別のところで質問が寄せられました。そちらには応答しておいたのですが、同じような疑問をもたれた方がいるかも知れませんから、こちらにも書いておきます。その質問とは、「でも(クリアで)女子割礼をやめるようになったのって、広い意味での西洋化ではないの?」というものです。
 それに対する答えは、それはその通りだというものです。ただし、それだけだと、アフリカ社会のあらゆる急激な変化は「西洋の衝撃」で始まり、それまでは不変だった、あるいはひと世代ではわからないような緩やかな変化しかなかったという誤解を招くおそれがありますので、付け加えておけば、たしかに、こういった変化は、契機が外部との交流にあります(「ひとのふり見てわがふりなおせ」ってやつ)。そもそも、レヴィ=ストロースの神話研究が明らかにしているように、あらゆる文化は他の文化との変換によってつくられています。そして、その変化は、西洋化や近代化で早くなったといえます。クリア社会での女子割礼の変化もそのようなことは言えます。しかし、外部との交流による変化は、西洋化とは別に以前からアフリカ社会内部にもありましたし、女子割礼以外で、西洋化以前に変化した儀礼もあります。

 大事なのは、クリアの老人が「女子割礼がなくなっていくのは、昔は重要な儀礼だった他の儀礼がいまはだれも行なわなくなったのと同じことさ」と言っていたように、広い意味での西洋化によって変化が促されたとしても、西洋化以前のその変化と西洋化後の女子割礼の変化が連続しているように捉えられているという点です。
前々回のエントリーで言いたかったことは、そのような連続的な変化であれば、たとえ客観的にいえば「西洋化」「近代化」による変化であっても、自分たちの生活の変化(これももちろん「西洋化」の影響と言ってかまいません)の便宜にあわせた臨機応変の選択によって変わったというという点であり、そのような変化なら、無意味な客体化も、矜持や自負の喪失も起きないし、実際の変化は、人道的介入する場合よりそちらのほうが早いということです。
 したがって、ここで対比されているのは、「西洋化以前の閉じられた内部での変化」(西洋化以前も外部との交流による変化が多かったわけで、これは幻想です)と「西洋化による変化」ではなく、「西洋化を含めた外部からの要素を範列的に臨機応変に選んだことによる変化」と「人道的介入による、最初から正解がある前提での固定的な変化」です。介入する側が最初から「人道」「人権」という普遍的(と思いこんでいる)な正しさを固持している場合には、そこにあるのは、現地の人との対話や共同作業を標榜しているばあいでも、それは対話ではなく、最初から問答無用(正解がすでにあるのですから)の啓蒙にすぎません。

 「外部からの要素を範列的に臨機応変に選んだことによる変化」には、女子割礼の「医療化」という変化も含まれます。クリアのような田舎でも、クリニックで看護師が施術したり、伝統的な割礼師が行う場合でも、使い捨ての安全カミソリやアルコール消毒、止血剤を使うなどの「医療化」が見られました。HIV感染を防ぐためという理由で医療化が急速に進んでいるのですが、娘たちが割礼によってそのあと病気で苦しむことを望むものは誰もいないわけで、医療化は自分たちの生活のために選択されていると言ってもいいでしょう。
 けれども、多くのFGM廃絶運動やWHOは、この「医療化」に反対しています。確かに、医師が女性器切除の手術を行うような医療化の場合、病気でもないのにメスを入れることに「医療倫理」の面から問題とされるでしょう。しかし、FGM廃絶論者が反対する理由は、医療化やクリトリスの包皮をきるといった「穏やかな女子割礼」という変化が、かえって女子割礼を温存してしまうということにあります。
 ある意味で、FGM廃絶論者にとって、女子割礼の医療化や「穏やかな施術」への変化は悩ましい問題です。FGM廃絶の理由の一つが、「非衛生的に行われ、感染症など女性の身体に重大な支障を与える」というものでしたが、これが「医療化」によって取り除かれてしまいます。そのことは、施術を受ける女性たちにとって、もちろん好ましいことですが、廃絶を訴える運動としてはアピールする根拠の一つが失われるという点が悩ましいわけです。そうなると、もうひとつのFGM廃絶の主な理由である、「女性から性的快感を奪う性差別的なものである」*2ということを訴える一方で、女子割礼の廃絶を遅らせるだけの「医療化」に反対するということになります*3

 私の立場は、「伝統だから(あるいは人々がやっていることだから)存続せよ」と主張することも(前にも書きましたように、伝統だから存続させよと主張する人類学者はほとんどいないでしょう)、「人権侵害だから(あるいは野蛮だから)廃絶せよ」と主張することも、ともに生活の場を超えた視点からの「客体化」によるものだから、やめて、そこで生活している人々の、生活の場での「範列的操作」*4による選択を重視するというものです。たとえば、クリアに見られるような生活の場での「医療化」は、生活の都合による「範列的選択」の結果ですから、むしろ支援したほうが、同じく「範列的選択」による廃絶を促すことになります。
 エジプトの都市部などで、医師による女子割礼の医療化が進んでいますが、そこでは医師が「これは伝統だから続けるべきであり、清潔で安全なやり方で行うことを広めるべきだ」と、女子割礼の医療化を正当化しています。このような主張は、生活の場を超越した視点からの「客体化」による主張です。そこでは、割礼すること自体が目的化してしまっています。
 けれども、そのような客体化を招いたのは、FGM廃絶論の側の「客体化」であることに留意する必要があります。客体化が客体化を招き、かえって女子割礼が存続してしまうのだから、その両方の「客体化」を生活の場の「範列的操作」へと戻すこと、それが「客体化」による対立を乗りこえる唯一の道だというのが、前々回のエントリーの提案でした。
 このような「客体化」から「範列的操作」という転換は、同じく生活の場を無視した超越的な視点からの、双方の「客体化」が招いている宗教紛争を乗りこえるためにも有効であると思っていますが、それはまた次回にでも論じたいと思います。

*1:ちなみに、「アフリカ 女子割礼」で検索すると20位以内、Googleブログ検索だと「女子割礼」の検索でトップ10に入っています。Googleに入らないのはCIAの陰謀に違いありません。追記:と書いた翌日の10月11日には、Googleでの「女子割礼」の検索で、前々回のエントリーがトップ10入りしていました。検索エンジンってどうなっているのやら。やはり、CIAが「ばれたか」ということで妨害をやめたとしか考えられません。また、不思議なことに、「アフリカ 女子割礼」のほうは圏外に落ちてしまいました。

*2:この理由も、クリトリスの包皮を切るだけの「穏やかな施術」によって軽減されていますし、またそれが「性器中心主義」的な主張(C派もそれに対する反動であるV派も、また男性の性的快感がペニスだけという主張も含まれます)であるという点で問題をはらんでいますが、ここでは「医療化」についてだけ取り上げます。

*3:他に、「苦痛を与えること自体が虐待」という理由もあるでしょうが、これも「医療化」と「穏やかな施術」に変化していることで、男子割礼なみになっていることを考えると、女子割礼だけを廃絶する理由としては弱くなっています。もちろん、「穏やかな施術」とはいえ、かなり「痛い」わけで、クリアで女子割礼がなくなっていっている大きな理由が「痛いからいやだ」というまっとうな理由です。ただ、それは、外部から「介入」する根拠としては弱くなくなります。成人式などの通過儀礼には、割礼以外にもさまざまな「身体加工」や「試練」はつきもので、それらはたいてい「痛い」ものだからです。追記:もっといえば、「無痛文明」の現代にあって忘れられがちな、「これらの苦痛がなんのために必要だったのか」という問いを考えなくてはならないでしょう。そして、割礼が割礼自体を目的としていたのではなく(たとえば「伝統」として全体化することも、「性的快感を減少させる」ことも「割礼」自体を切り離してしまっています)、あくまで隠喩的な「死=社会からの追放」を経験する儀礼であったことも。

*4:松田素二さんの用語で、相互に矛盾さえするイディオムの雑多なストックの中から、生活の便宜に応じて臨機応変に選択するような、定式化・固定化されないような生活知による無意識の操作を指しています。

子ども手当に所得制限って、左翼小児病?

 民主党マニフェストの目玉の一つである「子ども手当」について、所得制限を設けるべきという声があがっているようです。政権発足後すぐに、与党である社民党福島みずほさんが、子ども手当には所得制限を設けるべきだと発言しましたし、自立生活サポートセンター・もやいの湯浅誠さんも、『毎日新聞』2009年9月8日夕刊の「特集ワイド」の記事でのインタヴューのなかで、所得制限のない子ども手当を「まるっと支援」と呼び、「一億中流は崩れたのに、階層の発想がない」と批判しています。
 再分配すべき財源が一定なのに、金持ちに再分配するなんて無駄だという左翼らしい発想ですが、このブログで「ベーシック・インカムを!」と提案している私としては、このような発想は困ります。「0歳から死ぬまで、金持ちにも貧困層にも、なんの区分・制限なしに、一人当たり一律月10万円支給」なんて言ったら、「なんで限られた財源から金持ちにまで支給するのか」「階層の発想がない」と言われることになるわけですから。
 ちなみに、『毎日新聞』2009年9月24日夕刊の「特集ワイド」での中堅・若手官僚へのインタヴュー記事のなかで、経済財政関連省庁のある若手官僚は、「子ども手当や高校無償化がなぜ年収1000万円以上の世帯にも必要かわからない。低所得者に手厚く配分するのが、国の役割では」と語っています。若手官僚のなかにも左翼がいることがわかって心強いかぎりなのですが、ミーンズ・テスト(所得や資産を調べて、受給資格を審査すること)なしの普遍的な支給が重要となる「ベーシック・インカムのある社会」を目指すためには、このような発想はやはり問題となります。
 ミーンズ・テストによる所得制限のどこが問題なのかは、ベーシック・インカムを論じたいくつかのエントリーに書きましたが、子ども手当に即して再論しておきましょう。問題は主に3つあります。
1) 「貧困の罠」
2) 「事務コスト」
3) 「受給のスティグマ
です。
 低所得者に厚く配分するという「階層の発想」で所得制限を設けるときには、前年度の所得を世帯ごとに調査して、たとえば500万円以下の世帯に支給するということになるのでしょう。「貧困の罠」というのは、共働きで前年度の世帯収入470万円、子ども2人という世帯が、翌年に年62.4万円の子ども手当をもらっているとして、ちょっとがんばって働いて世帯収入が510万円になりそうだとなったら、次の年から子ども手当をもらえなくなり、収入は減ってしまいます。となると、合理的な行動は、働くのを制限して、世帯収入が500万円を超えないようにするというものです。つまり、所得制限の社会保障支給があるために低所得から脱け出すことができないというのが、「貧困の罠」です。
 だったら金持ちだけを制限するために世帯所得1000万円以下に支給すれば、となりますが、今度はそれによって節約できる「無駄」はたいして多くありません。前年度の世帯所得を調べて審査するという事務コスト*1を考えると、節約にはあまりならないのではないでしょうか。
 最後に、「受給のスティグマ」について。これは経済学者がほとんど無視する問題ですが、社会学的には重要です。とくに日本社会のように、「自己決定・自己責任」論の強い社会では、低所得者層向けの支給を受けること自体が、低所得者に、「本当は、自分でなんとかしないといけないのに、自分は他人の世話になってしまっている」というスティグマを烙印してしまいます。
湯浅誠さんなら、生活保護を受けることなしにぎりぎりまでがんばってしまう貧困層を大勢みているはずなのに、「まるっと支援」を否定しているのはどうしてなのでしょうか。「まるっと支援」こそ、自己決定・自己責任論からくる「受給のスティグマ」を解消してくれる一つの道なのに。それが左翼の「貧困層に再分配を」という思想に反するからだというのは、左翼小児病と言われても仕方ないでしょう。
 先の若手官僚が「低所得者に手厚く配分するのが、国の役割では」と言っていることには賛成します。そして、金持ちに子ども手当が必要ではないというのも正しいでしょう。限られた財源では、そう主張したくなるのも当然かもしれません。それについてはどうしたらいいか。簡単なことです。ベーシック・インカムのエントリーでも書きましたが、金持ち減税を止めて、所得税累進課税を再び強化し、相続税も高くすればいいわけです。左翼ならば当然そう主張すべきでしょう。
 累進課税をやめて金持ち減税をしたときに、「がんばっている人に報いる社会」、「金持ち減税しないと海外に移住してしまう」、「一握りの金持ちが社会全体の経済を引き上げていく」といった、ほとんど根拠のない理由がもちだされていましたが、いまそんなことを信じている人もいないでしょう*2。しかし、財源を問題にするときに、いまでもマスコミや評論家は消費税の増税しかいいません。消費税は累進ではなく逆進性の税です*3。左翼までがそうなってしまっているとしたら、左翼小児病以前かもしれません。

*1:私にはどれくらいになるのか、想像もつきませんが。そういうことを計算するのが官僚の役割なのですが。

*2:法人税増税だと企業は拠点を海外に移すことはあるでしょうが、個人の所得のばあい、人間関係を含めて環境依存度が高いので簡単に海外に行って同じだけの所得をえられる人はそんなにいないでしょう。さらに言えば、高収入の人は、インフラ整備など自分の仕事の環境が整えられているという形で、社会や国からかなりの再配分を得ているわけです。それを、「自分個人の能力で稼いでいるのであって、社会や国から支援されているわけではない、がんばらずに社会保障など再分配されているのはけしからん」と言っているのはどうかと思います。

*3:逆に子ども手当のような一律支給は累進性の性格をもちます。