磯野真穂『医療者が語る答えなき世界』を読む

 磯野真穂『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』筑摩書房ちくま新書)2017年

 ISBN978-4-480-06966-5

  

 若手の人類学者の一般向けの本を読むシリーズの第二弾は、磯野真穂さんの2017年刊の本です。磯野さんはこの後も、がんで亡くなった哲学者の宮野真生子さんとの往復書簡『急に具合が悪くなる』(2019年、晶文社)、『ダイエット幻想』(2019年、ちくまプリマー新書)と、話題となった一般向けの本を出しています。そして、5月28日の読書ノートで紹介したように、コロナ禍についても新聞その他で多く発言しています。

 

 本書は「医療人類学」という学問が何をするのかということが分かりやすく書かれています。生物学的医療とも呼ばれる近代医療についての社会科学的研究、たとえば医療社会学では、しばしば患者を「ひと」として見ない(数字などのデータしか見ない)医療のありかたが批判されています。しかし、本書の「プロローグ」で、「私たちは具合が悪くなると、自分のことに夢中になって、医療者も私たちと同じ人であるという事実を忘れてしまいがちである。そして医療者自身も患者からそのような人として見られることを必ずしも望んでいないだろう。/しかしやはり医療者も人なのである。/ここでは診察室ではなかなか超えられない医療者と患者という境界を取り払い、医療者をひととして見てみよう。/医療者という役割の後ろ側にはいったいどんなひとがいるのだろうか」[13頁]と書かれています。

 この「医療者という役割の後ろ側にはいったいどんなひとがいるのだろうか」というときの「ひと」は、役割には還元できない単独的な存在としての「ひと」でしょう。すなわち、本書の目的は、医療システムのなかで医療者と患者とが役割に押し込められているときには見えてこない、交換不可能な単独者としての医療者を描くことにあると宣言されているわけです。それはとても人類学的だと言えるでしょう。

 とはいっても、そのことは本書が現代の医療体制に対して無批判だということではありません。むしろ、十分に批判的です。ただ、そのような批判すべき体制に同化しながら働いているようにみえる医療者も、フィールドワークにおいて顔のある存在として付き合うことで、顔のない存在ではなく、単独的な「ひと」として現れてきます。そして、医療者一人ひとりが顔のある単独的な存在でもあるという視点が、そのような体制を外から批判するよりも、医療体制がどうしてそのようになったのか、またそれを良くしていくにはどうしたらいいのかを考えるうえで重要だということを、本書は示しているように思います。

 たとえば、第1章「気付き」に登場する、療養型病院でケアワーカーとして働く前田さんは、デイケアセンターから転職してきた当初、衝撃を受けたといいます。ひとつは、150人の老人のうち7割近くが経管栄養を受けていて、決まった時間になると栄養ボトルがずらずらとベッド上にぶら下げられ、その下に管につながれた無表情の老人が横たわる光景であり、もうひとつは、週2回の入浴で、自分で歩ける人もストレッチャーで部屋に運ばれ、ドーム型の装置に入れられ、介助者がドームの穴に手を入れて洗う機械浴をなすがままにされるもので、「入浴」というよりマグロの解体場さながらの光景に唖然としたと言います。

 しかし、「デイケアで働いていた時と大きく異なり、療養型病院の一日は比べ物にならないくらい忙しく、そのような日々を送る中、前田を絶句させた栄養ボトルがずらずらとぶら下がる光景も、機械浴のそれも、いつしか前田のふつうに」[26頁]なっていきます。機械浴の度に「嫌だ、嫌だ」と泣く100歳のおばあちゃんに、前田さんは「泣いている場合じゃないよ!」と叱りつけるようになりました。

 けれども、「スケジュール通りに業務を動かすための駒」として、前田さんがいつしか慣れてしまった病院の日常への疑問を感じ始めるきっかけとなったのも、この「スタッフから『わがまま』のレッテルを張られていた100歳のおばあちゃんでした。まず、いつもスカートを穿いているおばあちゃんは、そのゴムが緩んでしまったので「買いに行きたい」と前田さんに言います。でも、外に買いに行きたいというおばあちゃんの願いは、看護師長にそのような個別対応はできない、「一緒に行くことも、代わりに買いに行くこともしないでほしい」と断られます。前田さんは、「スカートのゴムも換えられない病院ってなんだろう」と、病院の「ふつう」に疑問がわき始めます。

 

 さらにゴム事件からしばらく経ったある日、前田はおばあちゃんから「あんた一人暮らしなの?」とたずねられる。「そうだ」と答えると、なんとおばあちゃんは「一緒に住んでもいい?」とたずねてきた。/いっけん多くの人をどん引きさせそうな質問であるが、その時の前田の脳裏に浮かんだ考えはかなり実践的なものであった。記憶力もよく、もたつきながらではあるが、ある程度のことは自分でできるおばあちゃんなら、「火の元さえ気を付けてもらえればいけるかも!」。そう彼女は答えたのである。[31頁]

 

 そして、前田さんはおばあちゃんについて、インタビューで次のようにも言います。

 

ある時、泣きながら「外の空気を吸いたい」っていわれたんですよ。あれ食べたい、これ食べたい、とかじゃなくて、「空気を吸いたい」って言われた時に、本当に悲しくなって。[32頁]

 

 前田さんが、病院の体制に疑問をもつようになったきっかけは少しも劇的なことではなく、おばあちゃんとの些細なやりとりのように見えます。けれども、そのやのとりのなかで、前田さんにとって、おばあちゃんを交換可能な「利用者」としてではなく、顔のある「ひと」になっていったのでしょう。「一緒に住める?」という質問への答えはそのことを端的に表しているように思います。そして、このことは、一度相手を単独性のある(「顔」のある)「ひと」として見てしまったら、その人を交換可能で比較可能な存在として、つまりモノとして扱うことが困難になるということを示しています。それを麻痺させるのが、効率性を重視したシステムなのだというわけです。

そうして、前田さんは、「利用者よりも、職員の確保と都合が最優先され、ときに利用者を乱暴に扱うスタッフになんのお咎めもない病院の体制に大きな疑問を感じ、そして何よりも自分自身の心を守るため、この病院を去ることを決意した」のでした。この章の最後はつぎのように締められています。

 

現在在宅介護の現場で働く前田は病院時代を振り返り、経管栄養ではなく口から食べることのできる人は実際はもっといたのかもしれない、自力入浴が可能なお年寄りが10人に満たないという理由で浴場は閉鎖されたが、ほんとうはもっといたのかもしれないと思う。

 しかしそれは今だから思うことであり、その渦中にいた際にはそのような疑問をもつことすらできなかった。[34頁]

 

 第4章「新薬」では、脳梗塞を起こすリスクのある心房細動に対する抗血栓薬の新薬の処方に慎重な態度をとる医師が紹介されています。1962年に導入されて以来広く使われてきた抗血栓薬はワルファリンという薬で、脳梗塞の危険性が64%軽減されると実証されていました。しかし、この抗血栓薬は血をサラサラにする半面、脳出血のリスクを挙げてしまいます。そのため、この薬を処方する医師は、脳梗塞のリスクを最小限に抑えると同時に脳出血のリスクも最小限にするため、定期的な血液検査を行い、効き目の指標をみながら、薬の容量を微妙に調整し、また効き目のための食事制限も指導する必要がありました。まさに医師の「匙加減」が必要とされる薬でした。

 しかし、2011年に、定期的な血液検査も食事制限もいらず、ワルファリンより脳出血の可能性が低いという、DOAC(直接経口凝固薬)の一種であるダビガトランという夢のような新薬が日本でも発売解禁となります。この新薬の有効性は、権威ある医学雑誌に発表された、44か国951施設での1万8113人の心房細動患者を対象とした大規模臨床試験の結果を記した論文によって知れ渡っていました。大規模臨床試験の結果で医師たちを驚かせたのは、ワルファリンと比べた脳出血の発現率で、薬を飲んでいない心房細動患者とほぼ同じだったのです。それにより、大きな期待とともに発売解禁となったダビガトランでしたが、発売後5か月たって発売した製薬会社からブルーレターと呼ばれる緊急安全性速報が発行され、死亡例5つを含む81例の重篤な出血が報告されたのでした。

 なぜこのようなことが起こるかというと、臨床試験では、高い専門性を持った医師が、安全性が高いと考える患者を選び被験者の依頼をし、万が一の事態を防ぐための二重、三重の防御策が張られていますが、一般の臨床でここまでの防御策を張ることはできないからです。磯野さんは、「信頼性の高い結果を出すためには、研究のデザインを綿密に設計し、それと齟齬がでないように研究を進めなければならない。しかしそれゆえに、研究は現実の世界と乖離してしまう。なぜなら現実とは、設計図では想定していなかった事態が起こりうる不確実な世界だからだ」[95-96頁]と述べています。

 このように、薬の有効性のエビデンスが揺らいだ一方で、臨床の現場からもダビガトランなどのDOACに対する懸念が表明されています。ワルファリンから直ちにDOACに移行した医師も多いのですが、DOACの処方に慎重な医師もいるのです。その一人である、20年以上の臨床経験のある循環器の専門医である赤井さんは、ワルファリンでは存在していた効き目を見るための指標がDOACではなくなったことを指摘します。そして、赤井さんの懸念は、次のように述べられています。

 

 血液検査による微妙な用量の調整がいらないというのはDOACのセールスポイントであり、錠剤を一日二回といった一律の処方の仕方は、抗血栓薬が「ふつうの薬」に近づいた証拠ともいえる。

 しかしそのことは逆に、現場の医師が肌感覚で感じることができていた、目の前の患者の状態を知るための指標を奪いとってしまう結果となった。医師と患者が診察室で共有することのできていた数値が消えたことで、セールスポイントが逆に懸念材料となるというパラドックスが生まれているのである。[101頁]

 

 患者個々人の予測できない状態の変化を見ながら「匙加減」をするという、いわば臨床の「術」が、新薬からは排除されていっているわけです。しかし、赤井さんは、「だからといって臨床医の裁量でDOACを出さないと決めるのも難しいと言います。ワルファリンより出血のリスクは低い統計結果というエビデンスがある以上、患者の年齢や個々の生活状況、体力、ちゃんと指示通り服用しているかという薬剤管理などのすべてを考慮してデメリットの大きさを理由にDOACを控えるという判断は、勇気がいるし難しいというのです。赤井さんは、「単純に型どおりに薬[DOAC]を出す方が楽でもある」と言います。

 その困難さの背景にはエビデンスに基づく医療という考え方があります。この章の最後にはつぎのように書かれています。

 

 1990年代から世界に広がったEvidence Based Medicine(EBM)は、科学的根拠に基づいた医療という意味である。その領域の権威の言葉や感覚的な知見に頼って治療を行うのではなく、科学的根拠に基づいた医療を行おうという考えは理念としては素晴らしいだろう。しかしそれは、エビデンスという新たな権威を作り出す結果となった。

 血栓予防のためではあるがその一方で出血しやすくなる薬を、従来薬よりリスクが少し低いという根拠で積極的に処方することの意味は何か、処方の際に効き目の確認と微調整が不要になることはほんとうに利点なのか、10倍の価格をどうとらえるべきなのか――赤井が感じるこのような疑問は、患者個々人がエビデンスという均質化された数値では対応しきれない多様性を示すことを肌感覚で知っているからこそ現れる懸念であろう。しかし、そのような現場の質感は、RE-LY試験のような華々しい量的数値の前では、影が薄くなってしまう。

 新薬を手にし、医師が歓喜するとは限らない。新薬を前に、医師が立ち止まることだってあるのである[107-108頁]

 

 このように、EBMは、個々の患者のさまざまな状況を総合的に判断するという、臨床におけるコモンセンス(常識)や、それらの状況に合わせる〈わざ〉を無意味なものにしてしまう医学だと言ってもいいでしょう。それは(科学的根拠を重視する以上、当然ですが)、身体の単独性や、精神科医木村敏さんのいう「アクチュアリティ」を扱うことができないのです。

 最後に取り上げたいと思うのは、第6章「いのちの守りびと」です。最初のところで、この章のねらいが次のように書かれています。

 

 私は文化人類学者として、さまざまな医療現場にお邪魔させていただく機会を得た。そこで私は診察に同席させてもらい、現場で医療者は何を考えているのかを教えてもらっているのだが、私はその経験を通じ、次のことを感じるようになった。

 病気を「治す」ことが医療の仕事であるというしごく当たり前の考えは、かれらの仕事の本質をむしろ見えにくくするし、もっといえば、誤解すら招きかねないのではないか、と。身体の異常を元通りに治すとか、心身の不調をすっかり取り去るとか、字句通りの「治す」からはいっけん離れたところにある医療行為が現場にはたくさんあり、それらの行為こそがまさしく医療なのではないかと思わせる場面が存在するからである。[139-140頁]

 

 つまり、この章では病気を「治す」ことに還元できない医療行為を実践している医療者が何人か取り上げられています。そのうちの一人である加藤さんは、現在、高齢者病棟で働く理学療法士です。その病院にやってくるのは老化が原因で転倒したとか、寝たきりの患者がほとんどで、患者の家族も家での介護の負担を減らすため、患者に長く病院にいてもらいたいと思っているし、病院側も長期入院のほうが採算的に助かるという関係で成り立っている病院です。つまり、機能回復という明確な目的のあるリハビリはほとんど行われていないのです。そこで、病棟勤務も外来勤務も経験したことがあり専門知識もある加藤さんに、磯野さんが、経験や知識を活かせない環境でむなしさは感じないのかという質問をぶつけたところ、「むなしさを感じることがしばしばある一方、徒手的療法のような手技療法だけがリハビリではない」という答えが返ってきたといいます。すなわち、自分が「指示する運動だけでなく、同じ空間に人々が集まり、そこで他愛もない会話が生まれること、それによって楽しさが感じられること、それらを全部ひっくるめてリハビリなのでは」と加藤さんは考えているのです。

 けれども、加藤さんのそのような意見は、それを書いた磯野さんの記事を読んだ加藤さんの元同僚の理学療法士から、「これが理学療法士の仕事だと思われたら困る」という批判を受けたのでした。その同僚は、大きな病院でバリバリと理学療法を実践しているので、「そういう人たちからすると『話すだけでもリハビリ』っていうのは許せないし、『理学療法士のプライドは? やっぱり自分の手で何かを患者さんにやってあげられて初めてリハビリじゃないの?』と言われちゃうわけですね」[144頁]と加藤さんは言います。

 それに対して、磯野さんはつぎのように書いています。

 

 加藤の元同僚の言葉からは、理学療法士にとって「何かをやってあげる」ということは、患者さんの身体を「治る」に近づけることであるという信念が見え隠れする。その視点からみると、「治せていない」加藤のリハビリは、理学療法ではないという結論になるのだろう。

 しかしその一方で、リハビリの時間を通じて、高齢の入院患者が笑顔になったり、生き生きしたりする事実を私たちはどのようにとらえるべきなのだろう? それは、その辺の通行人もできる簡単なことと言えるのだろうか?[144-145頁]

 

 この章には、「治らない」難病のALS病棟で働く看護師が、他の病院の看護師から「それは看護ではなく介護だ」と揶揄される例も出てきます。それについても、磯野さんは、「『それは看護ではない』という言葉から読み取れるのは、『看護とは、あくまでも治ることのプロセスを後押しするもので、日常生活のお世話ではない』、『看護とは介護よりも崇高な何か』という含意であろう」[151頁]と書いています。

 磯野さんは書いていませんが、医療システムのなかの「治す」という役割に結びついた医療者のアイデンティティとプライドは、医療者を交換可能な存在としてシステムに縛り付けます。医療者が交換可能な存在として働くことは、かれらが相対する患者も交換可能な存在として扱われるということです。そのようなアイデンティティやプライドは、働くモチベーションになるのかもしれませんが、磯野さんが「治す」という役割からなかば降りた医療者(治さない理学療法士やALS看護師)の姿を描いているのを読むと、かれらのほうが活き活きと働いているようにみえます。

 たしかに、医療者も患者も交換可能な存在になっている近代の医療システムは、その交換可能性ゆえに一定の成果をあげてきました。磯野さんは、それを「標準化」と呼び、次のように言っています。

 

 標準化は現代医学が重要視するものの一つである。/研究で得られた結果が、どこに行っても再現されること。/誰が診察しても、誰が患者でも同じように再現されること。

 それがエビデンスであり、エビデンスこそが医学の根拠にされるべきと謳われる。現代医学においてRCT(無作為試験法)が重宝されるのは、研究デザインの中に人に依存しないやり方がビルトインされているからだ。そしてエビデンスに基づき、治療のためのガイドラインや病気のリスクを評価するための尺度、処置の手順を示したプロトコルが創られ、それらが標準化のツールとなる。

 私たちが日本中どこの病院に行ってもそれほど変わらない医療を受けることができる理由の一つは、標準化のための様々なツールが教育現場や病院内で機能しているからであり、標準化が重要視される理由の一つは、現代医学の哲学に人間の身体の同一性が措定されているからである。[161-162頁]

 

 けれども、患者も医療者も交換可能なものにする標準化は「治す」ということに関しては一定の利点がありますが、それだけでは医療にはなりません。というより、磯野さんは、それは医療の一部でしかないとしているようにみえます。そして、次のように言います。

 

 しかし当然のことながら私たちはモノの塊ではない。私たちは人生というそれぞれの歴史の中で、固有のものの見方、考え方を作り上げ、そしてそれを刷新しながら生きており、その生き方までも標準化することは不可能である。[162頁]

 

 そして、磯野さんは、医療者の仕事を「治す、治さない」という二項対立的な基準を超えて、つぎのようにとらえなおしています。

 

 医療者の仕事の根幹は、モノとしての人間を徹底的に標準化することで体系づけられた医学という知を、それぞれの患者の人生にもっとも望ましい形でつなぎ合わせ、オーダーメイドの新しい知を患者とともに作り出していくことにある。そこで作り上げられる知は、標準化されることもなければ、再現されることもないが、人間の営みかが本来そのような再現性のないものである以上、医療という知もまた再現性のなさをはらむ。

 医療者の仕事は医学を医療に変換すること、本章ではこう結びたい。[163-164頁]

 

 ここでの「医学」と「医療」という言葉を使った対比を用いれば、臨床における「医療」は、再現性や公共性のないものです。それに対して、標準化によって誰もが再現できるものとなっている科学的な「医学」は、人間の生き方・営みそのものを捉えることができない。この対比は、精神科医木村敏さんによる、現実を言い表す二つの言葉、「リアリティ」と「アクチュアリティ」の対比と重なります。木村さんは、そのラテン語の語源までたどって、リアリティのほうは「事物」を意味するresから来ており、アクチュアリティのほうは「行為」を意味するactioに由来していることを指摘し、リアリティが事物を認識し確認する立場からみた現実であるのに対して、アクチュアリティは現実に向かってはたらきかける行為のはたらきそのものに関わる現実だと言います。そして、「科学はこのアクチュアリティを扱うすべを知らない。アクチュアリティは一瞬も固定することができないからである」(『心の病理を考える』岩波新書、30頁)と述べています。

 臨床の場で「医療」として作り上げられる知は、標準化され公共的になったリアリティの知ではなく、アクチュアリティの知です。しかし、その「医療」の知は、科学としての「医学」の知を否定するのではありません。科学ではない「臨床精神医学」(現象学精神病理学)を展開してきた木村さんも、次のように言っています。

 

 私は、精神医学といえども全体としてはやはり、科学としての客観性を追求してゆくべきだろうと思っている。少なくとも、精神科医の全員が共有しうる公共的に開かれた知識を集積することは、科学としての精神医学に与えられた任務だろう。(中略)しかし本書でも随所に書かれているように、科学には人間的現実に対応できないという決定的な限界がある。科学がその限界を忘れるとき、科学は人類に禍をもたらすことになる。科学は自己自身に対する異議申立人をもたねばならぬ。現象学精神病理学が、たとえ少数派であろうとも消滅してはならない理由はそこにある。[『心の病理を考える』ⅵ-ⅶ頁]

 

 磯野さんは、「医療者の仕事は医学を医療に変換すること」だと簡潔にまとめていますが、それは、すべての「医学」が臨床の場で一人ひとりの生きた人間に向っている以上、同じく一人ひとりの生きた人間としての医療者が、患者の生活の状況や身体の状況や精神の状況というアクチュアリティに合わせた「医療」へと変換していかなくてはならないということを意味するのでしょう。

 そして、そのことは社会/文化人類学にとっても重要な指摘です。人類学もまたフィールドという「臨床」の場でのアクチュアリティの知を扱う学問だからです(私はそのことを「アクチュアル人類学」という語で表しています)。もちろん、それは公共化しうる人類学的知識を否定するものではありません。しかし、そのような公共的な知だけでは人類学にはならないのです。人類学者は、そのような知識の体系を、フィールドに生きる一人ひとりの生活者のアクチュアリティについての知に変換しなければならないのです。磯野さんの「医療人類学」は、そのことを明らかにしているように思います。