ベーシック・インカムについて(3)
さて、連載3回目です。
前回の最後に、ベーシック・インカムによって労働意欲がなくなり、モラル・ハザードを招くという右派やエコノミストの危惧を挙げました。それと関連して、ベーシック・インカムに反対する人たちの理由として最も多いのが、「働く気もなくぶらぶらしているやつに税金から金を出すなんて」というものでしょう。つまり、フリーライダー批判です。
けれども、ベーシック・インカムの思想は、労働による所得以外にも所得があることが社会にとってプラスになるということであって、労働による所得を否定していません。否定していないどころか、むしろ「労働による所得」を全面的に純化しているともいえます。つまり、扶養家族がいるかどうかなどという基準はなくなるし、労働に純粋に応じた給与が支払われるようになり、有能に働けば働いた分だけ所得が増えるのですから、月10万円のベーシック・インカムとは別に労働による所得を目指す人が減るとは考えにくいでしょう。もちろん、ベーシック・インカム分だけの労働を減らそうという人は出てくるでしょうが、それは、現在の「働きすぎ」で有給労働以外の活動に時間が取れないという現状を改善するものであり、労働意欲がなくなるのとはまったく違います。
20世紀半ばごろ、ケインズを始めとして経済学者たちは、経済成長によって労働時間は短くなり、週3日働けば暮らしていけるような、そしてその他の時間で自由な活動ができるような豊かな社会がもうすぐやってくると予測していましたし、経済学はそのような豊かな社会を実現させるための学問だとしていました。その後の経済学はどうもそうではなくなったようですが、ベーシック・インカムは往年の経済学者の夢を実現させる基盤を与えてくれます。そのような基盤ができ、実際に人々が有給労働以外の活動や、なかなか採算が取れない活動をするようになれば、「有給労働もせずにぶらぶらしているフリーライダー」という見方(偏見)も変わってくるでしょう。たとえば、いまは、不採算部門の典型である林業に後継者がいなくて、森林ボランティアという形でしか新規参入者もいない、里山の森林を守り育てる林業を仕事として行う人も出てくるかもしれません。また、本当にぶらぶら遊んでいるとしか見えない人たちの中から、新しいスポーツやゲームや芸術を考案する人だって出てくるでしょう。さらに、若手の研究者(OD)は、現在は、研究職につくまでは「高学歴ワーキングプア」となって、とくに研究助成金の少ない人文・社会学系では研究する時間もないという本末転倒の状況になっていますが、最も研究のできる若い時期に研究に打ち込む時間ができるでしょう。
つまり、「有給労働に就かずにぶらぶらしている人」の中から、現在は不採算であるけれども、長い目でみれば社会に役に立つクリエイティヴな活動をする人が出てくるのです。もちろん「ただのぶらぶら」で終わる人も多いでしょうが、そのような人たちがクリエイティヴな活動の裾野を広げているわけで、そのような「無為の人」による裾野なしには、なにも生まれてきません。逆にいえば、ベーシック・インカムをそのようなフリーライダーに供与することは、経済的にも文化的にもプラスの効果があるのです。つまり、フリーライダー批判は、「ノー・ロングターム」というイデオロギーから出てきているわけで、そのイデオロギーを崩していくこと自体がベーシック・インカムの効果なのです*1
ベーシック・インカムは、たしかに所得再分配という側面がありますが、それだけではなく、このように、景気への効果や、長い目で見れば必要な活動だけれども市場では不採算となる活動を促進するという効果があります*2。
しかし、右派やエコノミストのなかでも、市場原理主義とも呼ばれる右派リバタリアンからは、所得再分配じたいがけしからん、という意見が出されています。その根底には「必要悪としての政府=税金」という考え方と、神の創造した秩序である市場に委ねるべきという信仰があります*3。たとえば、ミルトン・フリードマンの信奉者で右派リバタリアンの経済学者スティーブン・ランズバーグは、『フェアプレイの経済学』(ダイヤモンド社、1998年)のなかで、つぎのように言っています。
本気で信じるには、所得再配分はあまりにもおかしな話なのだ。/なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私にはなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。/もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。(『フェアプレイの経済学』11頁)
このようなずさんな譬え話によって、税を取ることは泥棒であり、所得再分配は「盗み」だということが「経済学的思考」だと他の経済学者は考えていないことを祈りたいと思います*4。この譬え話は、直感的にもおかしいと思うはずですが、難しくいえば、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」の区別の混同があります。「公園で遊ぶ子どもたち」という社会で、政府も税金も必要がないのは、「譲りあいが大切」とか「利己的な行動は恥ずかしいという感覚」といった習俗や、あるいは「交渉をする、仲間はずれにする」といった対面的なコミュニケーションで問題を解消するのに十分だからです。歴史的にも人類学的にもそんな水準で「政府」を作った例などありません。けれども、ある人数以上の人口の社会では習俗(モラルは習俗という意味です)や対面的なコミュニケーションによる解決が不可能になります。ですから、政府や契約や文書といった媒介(メディア)による間接的なコミュニケーションによる解決が必要となるのです*5。
当然、ランズバーグのような経済学者たちは、自分の子どもに教えているように、お金(おもちゃ)を独り占めすることは恥ずかしいことで譲りあいが大切だと思って、社会に自分のお金を配っているのでしょうし、たくさんお金を持っている人のところに行ってみんなで使うようにと、おだてたり、交渉したりしているのでしょうけれども、ふつうの人は対面的な関係を超えてそのようなことはしません。まあ、かれらが上のようなずさんな譬え話をするのは、自分で譲りあう気があるのではなく、自分の能力と努力ないしは自分の親の能力と努力で手に入れたものを独り占めにするのは悪いことではないという「自分勝手」のイデオロギーによるものなのでしょう。けれども、本当の成功者は、自分の成功は運と人間関係、つまり社会のおかげであり、多額の税金を支払ったり慈善団体を作ったりして社会に還元するのは当然だとよく言いますが、それは偽善的なポーズというより本音でしょう*6。
もちろん、今回の金融危機での公的資金の投入という、自己選択・自己責任論に反する政策をみるまでもなく、ランズバーグのような市場原理主義は経済学としても経済政策としてもすでに終焉したイデオロギーとなっているのでしょうし、主流の新古典派経済学は、そもそも市場は失敗するものであり、そのような限界をもつ市場への政府の介入は必要だとしてきました。ですから、いまさら非主流に堕ちた市場原理主義者のことばを引用して批判しなくてもと思われるかもしれません。けれども、フリーライダー批判や労働意欲の減退への懸念というのは、からなずしも市場原理主義者ではないエコノミストから出ています。つまり、主流派経済学と市場原理主義はイデオロギーをいくつか共有しているのです(経済学に詳しい人には当たり前なのかも知れませんが、門外漢の私には、論争しているわりには、みんな意外と近いなあと感じるわけです)。それに、市場原理主義やネオリベラリズムはもう終わったということが、むしろ、今回の公的資金による金融機関救済を正当化してしまう恐れもあります。自分たちがいままで多額の金を稼いでいたときは賢くリスク・テイクしていた自分たちの能力と努力の賜物だとしていたのに、そのリスク・テイクが愚かであったことが露呈して損失したときには公的資金で救済するというのは理屈には合いません。
ただ、金融資本主義というバスには、金融機関の関係者以外の人びとも乗ってしまっていたわけで、走っているバスが故障したときに、その故障は明らかに運転と整備をしていた金融機関の自己責任だといっても、他の乗客も犠牲になる可能性がある以上、バスをみんなのお金で応急修理をする必要があるというのはわかります。ただ、それはあくまで他の人々(世界中の人々)がいわば人質になっていたからです。そして、そのことをちゃんと指摘せず、またその故障するバスをこの先も使うのかという議論もせずに、公的資金で資本注入までしなければだめだとしか言わなかったエコノミストが多すぎたように思います。そういったエコノミストは、二度と福祉やベーシック・インカムに対してフリーライダーを生むとか、モラル・ハザードが起こるという批判をする資格はなくなったということを忘れないでほしいものです。今回の金融機関救済への公的資金の投入よりも大きなフリーライダーやモラル・ハザードはないでしょうから。
あれ、ベーシック・インカムについてもっと書くことがあったような気がしますが、市場原理主義と金融危機の話をしすぎて、もうこんな長さになってしまいました。この調子だと、延々とこのベーシック・インカムについての連載が続きそうなので、いったんここで終りとします。いま思いだしましたが、「もっと書くことがあった」というのは、フーコーのいう近代の「監禁」の時代での「労働倫理」(「働かないやつはクズだ!」)の誕生とそれに対する人々の反応についてという大事なことでした。それが大事なのは、いま当たり前となっている「労働倫理」が倫理としては奇妙なものであり、それを奇妙なものだと感じていた時代の倫理を再想起することで、ベーシック・インカム社会を想像する一助としようと思ったのでした。ただ、これまた長くなりそうで、そろそろ他の仕事もしなければならない時期に来たので、3回の連載でいちおう終わりにします。
*1:したがって、ベーシック・インカム導入前に、そのイデオロギー批判をどうやって人びとに広めていくかというのが難問になるわけですが。
*2:もちろん、ベーシック・インカムとは別にそのような活動に公的な援助が必要ですが、そのような援助は選抜のための審査や実績へのオーディット審査が伴い、そのようなカテゴリー別の援助だけでは、裾野を広くするにはあまり役に立ちません。
*3:市場原理主義や右派リバタリアニズムがそのままでネオリベラリズムとイコールというわけではありません。ネオリベラリズムとは、自己実現の称揚と自己選択・自己責任からなる「個人化」による流動性を最大限に使って、資本蓄積にとって障害となるような社会からの規制を取り除き、経済的不平等を拡大再生産して階級権力を再確立するための市場原理主義と、それによって生ずるプレカリテ(不安定さ)を最大限に利用して、不安定さを国家や宗教や家族という偽の恒常性の価値を高めることで代償させるという体制をさします。
*4:経済学者の蔵研也さんは『リバタリアン宣言』(朝日新書)のなかで、ランズバーグのこの議論にたいして「なるほど、たしかにその通りです」と書いていますが。
*5:そもそも、歴史的にみて、たくさんお金をもっている人からお金を取り上げるために政府が作られたというより、たくさんお金をもっている人たちがそれを守り、またもっとたくさん持てるような環境を整備するために政府が作られたといったほうが当たっているのですが。
*6:そのような「ノーブル・オブリッジ」がまだ生きている例としては、個人資産世界第一位のビル・ゲイツや第二位のウォーレン・バフェットがともに、ブッシュ政権による高額所得者への所得税の減税や相続税の引き下げに反対して、われわれはもっと税を払うべきだと言っている例があります(もっとも彼らの想像を絶する資産を考えると、90%取られて10%になったって使い切れないお金ですから、拍手する気もおきないという感じになりますが)。累進課税や相続税は「成功者への罰」だと主張していたのは、その課税によって、自分たちより下だと思いたい連中との差がなくなってしまうような人たちで、そのわずかな「差」にしか自分の誇りの拠り所がない人たちなのかもしれません。