ジェームズ・C・スコットの『ゾミア――脱国家の世界史』を読む

ジェームズ・C・スコット『ゾミア――脱国家の世界史』佐藤仁監訳、みすず書房、2013年9月
ISBN978-4-622-07783-1

 ブログを休んでいた10年のあいだに出版された人類学の文献の中で最も重要な本の一冊として、ジェームズ・C・スコットの『ゾミア』(原題は『統治されない技法――東南アジア山地のアナキズム的歴史』2009年)を紹介しておきたいと思います(スコットは政治学者で人類学者)。これを紹介するもう一つの理由は、この本の議論が、次回の読書ノートで取り上げる予定のハキム・ベイ『T.A.Z.』の議論とつながっているからです。

 「ゾミア」とは、東南アジア大陸部(ベトナムカンボジアラオス、タイ、ミャンマー)および中国南部の山岳地帯を指す名称です。歴史的に、そこには、国家にまだ統合されていない人々が存在し、焼き畑と狩猟採集を生業としてきました。従来、彼らは山岳民族ないし辺境に残った文明を知らない未開地域の人々と捉えられてきました。しかし、スコットは、彼らをもともと平地にいた農耕民であり、水稲農業による国家が登場してきたあと、その国家の支配から逃れるため山地に向かった人びとで、その山地は、国家からの避難地帯だったと捉えました。スコットは、「はじめに」でその概要を次のようにまとめています。

「ゾミア」とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の5カ国(ベトナムカンボジアラオス、タイ、ビルマ)と中国の4省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯を指す新名称である。およそ標高300メートル以上にあるこの地域全体は、面積にして250万平方キロメートルにおよぶ。約1億の少数民族の人々が住み、言語的にも民族的にも目もくらむほど多様である。東南アジア大陸部の山塊(マシフ)とも呼ばれてきたこの地帯は、いかなる国家の中心になることもなく、9つの国家の辺境に位置し、東南アジア、東アジア、南アジアといった通例の地域区分にも当てはまらない。とくに興味深いのはこの地域の生態学的多様性であり、その多様性と国家形成との相互関係である。あたかも北米のアパラチア山脈の国際越境版であるかのようなこの地帯は、新鮮な研究対象であり、地域研究への新たな視点を提供している。
 私の主張は単純だが挑発的であり、賛否両論を引き起こすだろう。ゾミアは、国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である。このさきゾミアが非国家圏であり続けるのもそう長くはないだろう。しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた。今日ゾミアの人々について、平野国家の視点から「現存する我らの先祖」とか「稲作、仏教、文明が発見される以前、私たちはあのように暮らしていたのだ」などともっともらしく語られるが、これに対して私は本書で以下のような反論を展開する。山地民とは、これまで2000年のあいだ、奴隷、徴兵、徴税、強制労働、伝染病、戦争といった平地での国家建設事業に伴う抑圧から逃れてきた逃亡者、避難民、マルーン共同体の人々である、と。こうした人々が暮らす地域の多くは、破片地帯もしくは避難地域とみなすのが適切である。
 ゾミアの人々の生業、社会組織、イデオロギー、そして(この点については多くの反論が出るであろうが)口承文化さえも、国家から距離を置くために選ばれた戦略、と解釈できる。険しい山地での拡散した暮らし、頻繁な移動、作付けの仕方、親族構造、民族的アイデンティティの柔軟さ、千年王国預言者への傾倒、これらすべては、国家への編入を回避し、自分たちの社会の内部から国家が生まれてこないようにする機能を果たしてきた。とくに多くのゾミアの人々を逃避へと追い立てたのは、長大な歴史を持つ中国の王朝国家であった。山地民に伝わる数多くの伝説にその逃走の歴史をかいまみることができる。15世紀以前の状況についてはいくらか憶測に頼ることになるが、それ以降の時代の文書史料にはこうした事実がはっきり示されている。明朝と清朝期に頻繁に起こった山地民に対する軍事作戦、19世紀中葉に中国南西部に起こったかつてない大反乱と、数百万に上る反乱の避難民については文献に記されているし、ビルマとタイでの国家による奴隷狩りからの逃避についても十分史料が残っている。

 スコットは、ゾミアの山岳地帯を国家からの避難地域と捉え、平地の国家からの逃亡者である山地民がそこで作り上げていた、クラゲのように柔軟にかたちを変える生業形態と社会組織と文化を「逃避的生業」、「逃避的社会組織」、「逃避的文化」と捉えなおしました。それらは、国家から逃れた「自治」と「平等」と「相互扶助」からなる協同体を柔軟に維持するための特徴でした。つまり、それらの特徴は、山地民がもともと固有性として首尾一貫して持っていたものなのではなく、平地国家から山地に移動して作り上げた「自己野蛮化」の結果なのだというのです。

穀物の集中的生産を基盤とする国家は、典型的に広大な耕作地から誕生する。東南アジア大陸部ではそのような農耕生態環境は一般に低地で起こるので、「盆地国家」対「山地(部族)民」といった区別が意味をなす。……つまり、鍵となる変数は、標高そのものではなく穀物の集中的生産であった。これに対して「無国家空間」とは、主に地理的な障害が原因で、国家支配が確立されにくい空間を指す。……アクセスの困難な地形こそが国家支配の拡大に対する障壁であった。[13頁]

ゾミアは、たんに低地国家に対する抵抗の地であっただけではなく、国家からの避難先であった。……「避難」という言葉を使うのは、これまで一五〇〇年以上にわたり多くの人々が山地に移った主な原因は、低地での国家建設事業がもたらす多種多様の苦痛であったからである。低地における文明の進歩に「取り残された」どころか、彼らは長い時間をかけて国家の手がおよばないところに自らを位置づけてきた。[22-23頁]

 このゾミアの「自己野蛮化」による「逃避的生業」、「逃避的社会組織」、「逃避的文化」の意味は、この講義で述べてきたことに近づけていえば、小規模な集団で移動することで、国家という非真正なシステムに包摂されることを拒否して、臨機応変の戦術を駆使して「真正な社会」を作り上げたということと言えるでしょう。そのような小規模の共同体(〈コモン〉と言ってもいいでしょう)は、ゾミアだけに見られるのではありません。スコット自身も、似たような「逃避的」な様態をもつ共同体として、ブラジルや西インド諸島での逃亡奴隷による「マルーン」共同体やジプシーなどを挙げています。
 スコットの『ゾミア』の利点は、野蛮から文明へという移行を不可逆的な一方向の変化と捉える見かたを放棄して、山地と平地の対立を、それぞれが固有の同一性を有しているような対立ではなく、共生し連続し混り合った上での対立であり、その間を往復しているような可逆的な対立なのだとしている点にあるでしょう。スコットは、「低地民の多くはかつて山地民であり、また山地民の多くはかつて低地民であった。いずれの方向でも一回かぎりのものではなく、一方から他方へ移ると、もう元には戻れないという類の移動ではなかった」[スコット 2013:27]と言っています。その上で、次のように問います。

山地と平地のあいだではヒト、モノ、文化の交流が何世紀にもわたり活発に行われてきたにもかかわらず、両社会のあいだの文化的な差異は今日まで驚くほどはっきりとしている。平地社会と山地社会は相互に密接な関係を保ってきたという史実とは裏腹に、それぞれの当事者は平地民と山地民のあいだに不変で根源的な違いがあると考えている。
  このパラドックスをどう理解したらいいのだろうか。まず初めに、平地国家と山地社会の関係はたんに共生的であるだけでなく、対立的要素を含みつつも同時平行的に変化してきたという点を認識しなくてはならない。[28頁]

 そして、人類学者のゲルナーのアラブとベルベルの共生と対立についての議論を参照しながら、このパラドックスについて、次のように言います。

このベルベルの事例は二つの点で示唆に富んでいる。まずひとつは、ゲルナーが明らかにしているとおり、アラブとベルベルの境界線を規定しているのは、文明の差でもなければ、宗教の相違でもないという点である。それは、国家に支配されている者と支配圏の外にいる者を区別する真に政治的な境界であった。ところが、この境界を越える移動と交通は実のところ歴史上盛んであったというゲルナーの指摘に従えば、政治的な区別は興味深いことに民族的差異として符号化されるようになる。つまり、境界が区別する根本的な違いは政治的選択による違いとしてではなく、あたかも民族的差異として理解できるようになるのだ。この視点から見ると、国家から逃れる人々とは、自らを部族化する人々であったと理解できる。統治権と徴税が行使されなくなる最果ての地において、民族や部族が現れる。[30-31頁]

 トライブという民族集団の形成としての「部族化」は、国家から逃亡して山地民となった人々が国家と自分たちを区別するためだったというわけです。そうなると国家の中に住む平地民のほうでも、山地民を「部族」として捉える「部族化」が行われます。けれども、この辺境での「部族化」には非対称性があり、平地の水稲国家においては、他者としての山地民はまだ文明化されていない辺境の山岳民族であり、昔の自分たちの姿をとどめている遅れた人々として「部族化」されます――つまり、自分たちは進歩した、文明化したが、彼らは昔のままだという認識が作られ、可逆性が否定され、固定的な境界が作られていきます。そこでは、その文明化の差が民族の差異とされ、それぞれが純粋な形の民族的同一性を保っているとされるわけです。それに対して、山地民の側の「部族化」は、生業や社会組織や口承文化の柔軟性と可逆性を保持したままの「自己部族化」がなされ、その境界も柔軟で可変的なものとなっているのです。
 このようなスコットの議論は、現代においても、国家というシステムなしに共同体――〈コモン〉――を作り維持することが可能だという希望を示しているように思います。けれども、結論のところで、スコットは、「しかし、過去半世紀のあいだに生じた技術革新と独立国家の野心が互いに組み合わさり、ゾミアの人々にわずかに残されていた相対的な自治さえをも弱体化させた。そのため、本書の分析は第二次世界大戦後の状況にはほとんど当てはまらない」[330頁]と言っています。つまり、20世紀後半には、国家のシステムからの避難場所としてのゾミアはなくなってしまったというわけです。しかし、それではもう後戻りできない不可逆的な歴史の単線的な移行しか残っていないということなのでしょうか。スコットは、「現代社会で私たちの享受できる自由に未来があるかどうかは、リバイアサン(強力な政府)を避けることよりも、それを飼いならすという途方もない仕事にかかっている。ますます標準化された制度の構造は、私たちの生活の隅々まで占拠するに至った。なかでも支配的なのは、私的所有制度と国民国家という欧米で顕著にみられるモデルである。そのなかで私たちは私的所有制度の生みだす富と権力の著しい格差、そして相互依存を深める人々の生活に押し付けがましい規制をかけてくる国家との格闘を強いられている」[329頁]と、かなり悲観的なトーンで述べています。
 しかし、地理的な領域としての避難地域のゾミアが消えてしまった現代社会でも、システムや制度から「逃げ出す」というやり方は、人々の基本的な「もののやり方」であるはずです。それが不可能に思えるのは、自分たちをシステムや制度に合わせて作り上げてしまう、いわば「自己適応化」のせいです。そのためにシステムや制度のなかで居場所がないと感じても、他に行き場所・居場所がないと思ってしまいますが、たとえば学校という制度や会社勤めというシステムのなかで居場所がないと思ったら、「逃げ出す」というやり方は、無理な自己適応を辞めてしまえば、いまでもいつでも可能です。もちろん、一人で逃げ出すのは大変ですが、大事なことは、周りの人たちとともに、「コモン」というを創りだすかたちで逃げ出すことなのでしょう。
 希望はまだあるということです。そして、スコット自身、『実践 日々のアナキズム』(岩波書店、2017年)のなかで、国家に包摂された後の現代における「ゾミア」、すなわち不法占拠や逃散等の「底流政治」によってゲリラ的に作られたり、「小商い」によって維持される半ば相互扶助的な〈コモン〉を描き出しているのですから。