松村圭一郎『うしろめたさの人類学』を読む

 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』ミシマ社、2017年
 ISBN978-4-903908-98-4

 ブログを休んでいる間に、1970年代後半生まれの若い人類学者で、学界向けだけでなく、一般向けに本を書いて出版賞を取ったり、一般雑誌や新聞などで発信したりする人たちが登場してきました。松村圭一郎さん(1975年生)や、磯野真穂さん(1976年生)、小川さやかさん(1978年生)、久保明教さん(1978年生)、猪瀬浩平さん(1978年生)といった人たちです。もちろん、学界向けの専門書や論文を出している若手の優秀な人類学者はこの人たち以外にもいますが、一般向けに出してしかもよく読まれる人類学者が出てきたことは人類学全体にとっても一般読者にとっても好ましいことです。そこで、このブログの読書ノートで、かれらの一般向けに書かれた本を順次(不定期で)取り上げることにしました。
 

 第一弾として取り上げるのは、松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』です。この本は、第72回毎日出版文化賞・特別賞を受賞しています。一般向けでしかも評判の本なので書評はいくつも出ていますが、人類学界に向けての本ではないこともあって、同じ専門の研究者による書評はあまりないようなので、屋上屋を架すことにも意味があるでしょう。
 本書は、10代後半から大学生まであたりの若い読者を想定していると思われます。過剰に理屈っぽくなく、皮肉などは使われず、ただ分かりやすく書かれているだけではなく、共感を喚起するように書かれています。わたしも出版社のウェブサイトに10代の若者向けに連載したことがありますが、悪く癖が出て、理屈っぽく皮肉も交えてしまうので、共感を呼ばず、マイナーな捻くれた若者にしか受けないものになってしまいます。たぶん松村さんは学生にも人気のある授業をしている気がします。
 さて、本書は、「構築人類学」というものを提唱しています。それについての理論や本の構成もよく考えられていて、大人や専門家にも読み応えのあるものになっていると思います。「はじめに」の冒頭で、松村さんはつぎのように述べています。

 世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ。そう感じる人は多いと思う。でもどうしたらなにかが変わるのか、どこから手をつけたらいいのか、さっぱりわからない。国家とか、市場とか、巨大なシステムを前に、ただ立ちつくすしかないのか。[8頁]

 そのように感じている若い人たちに向けて、構築人類学は、「いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる」[17頁]という希望を差し出すというのです(この希望の示し方についてはまた後で議論します)。
そのために、構築人類学は、「ぼくたちは、どうやって社会を構築しているのか?」と「いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか?」という二つの問いを考えるのだと言います[82頁]。では、この考察はどこから始めたらいいのか、松村さんは次のように言います。

 これまでの「構築されている(だからそんなものに正当性はない!)」という批判から、「どこをどうやったら構築しなおせるのか?」という問いへの転換。それがこの本の目指す「構築人類学」の地平だ(まだ賛同者はいないけれど……)。
 もちろん簡単には答えは出ない。だから最初に、ぼくら一人ひとりがいま生きている現実を構築する作業にどう関与しているのか、その関わり方を探ることからはじめよう。そこで手がかりになるのが、人と人とがモノや行為をやりとりする「コミュニケーション」だ。[17頁]

 この本においては、人と人とがモノや言葉や行為をやりとりする「コミュニケーション」は、国家(国民国家)や市場(資本主義)という「システム」と対比されています。本書の構成は、短い中間部の「『社会』と『世界』をつなぐもの」を挟んで、第一章~第三章の前半部と第四章~第六章の後半部に分かれています。前半部は、「どうやって社会を構築しているのか?」と「どうしたら、その社会を構築しなおせるのか?」という問いに答えを出す部分です。そのために、エチオピアの村でのフィールドワーク体験を紹介しながら、直接にモノや言葉や行為をやりとりする「コミュニケーション」が扱われています。つまり、本書でいう「社会」は、日本社会やフランス社会といった大きな社会のことではなく、直接にモノや言葉や行為をやりとりする二者関係とその連鎖からなるムラくらいの規模の社会を指していることが分かります(最初はこのことが少し分かりにくいのですが)。
 そして、前半部の最後の第三章では、「どうしたら、社会を構築しなおせるのか?」という問いの答えとして、

誰もが、さまざまな人やモノとともに「社会」をつくる作業にたずさわっている。そこでの自分や他人のあり方は、最初から「かたち」や「意味」が決まっているわけではない。他人の内面にあるように思える「こころ」も、自分のなかにわきあがるようにみえる「感情」も、ぼくらがモノや言葉、行為のやりとりを積み重ねるなかで、ひとつの現実としてつくりだしている。この、人や言葉やモノが行き来する場、それが「社会」なのだ。
 人との言葉やモノのやりとりを変えれば、感情の感じ方も、人との関係も変わる。[81-82頁]

と書かれています。つまり、直接的な二者関係とその連鎖からなる「社会」は、モノや言葉や行為のやりとりの仕方によって変えることができるというのがその答えです。それを受けて、中間部では、つぎのように述べられています。

 そうやって、いろんなモノを介したやりとりが交わされる間柄の集合体が「社会」だとしたら、「世界」は、その関係を越えた遙か向こう側に広がっていると感じられる領域だ。
   実際には、明確な境界線は引けないのだけれど、ぼくらの想像のなかでは、つねに「つながっている」と実感できる場所や間柄の外に、そこからは手の届かない「世界」が広がっているようにみえている。国家とか、市場とか、巨大なシステムによって動いているような「世界」が。[92頁]

 「社会」が二者関係において直接モノや言葉や行為をやりとりすることでつくられている社会であるのに対して、「世界」は国家や市場といった巨大なシステムにおいて法や貨幣といった媒体によって成り立つ社会とされています。これは、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会(ほんものの社会)」と「非真正な社会(まがいものの社会)」にそれぞれ相当すると言っていいでしょう。そして、松村さんは、この中間部において、後半部(第四章~第六章)の課題をつぎのように述べています。

 その「社会」のなかでは、自分が向き合っている他者との関わり方をとおして、なにかを変えていくことができるかもしれない。でも、それが「世界」として想像されている領域を動かすことになるのだろうか。たとえば、身近な人との関係がどう構築されているかを理解して、それを心地よい関係にしていくことは、はたして「世界」を変えることにつながるのだろうか?
 「社会」と「世界」は、どんなつながり方をしているのか?
 いったい、ぼくらはどうしたら「社会→世界」の構築に参画できるのか?
 たぶん、それが次に考えるべき問いなのだと思う。[93-94頁]

 しかし、第四章「国家」と第五章「市場」では、国家や市場といった巨大なシステムからなる「世界」を構築しなおすのは容易ではないことが示唆されています。たしかに、「社会」と「世界」はつながっています。格差を生んでしまい、それを是正できない市場システムの改革や国家による是正は必要でしょう。しかし、消費者/有権者としての私たちがどのようなやりとりをしたら、巨大なシステムを変えられるかは自明ではありません。
 ではどうすればいいのか、それについて、本書の核心部ともいえる第六章「援助」では、システムに小さなスキマをつくるというやり方が示されます。アメリカ政府による食糧援助が贈与としてなされ、それをエチオピア政府が再分配のように配る、それらの援助物資はローカルな市場で商品としてやりとりされたり、それで酒を醸造して儀礼などでふるまわれる、そういったやりとりの連結について述べられた後、松村さんはつぎのように言います。

 もうひとつ重要なのは、個人の日常的な行為のレベルが、国家や市場といった大きな動きと「連結」しながらも、かならずしも「連動」していないという点。つながってはいるが、前もって意図された方向だけに動くわけではない。そこに世界を変えるためのスキマがある。アメリカの外交戦略も、エチオピア政府の政治的意図も、いろんな人とモノの連結の過程をへて薄められていく。国家や市場の「思惑」は、最後は個人のささやかな行為のなかで解消される。
 さまざまな人の思惑が絡んだ「援助食糧」を消費し、交換し、酒をつくり、そこに「社会」をつくりあげているのは、人びとの日々の営みだ。ぼくらが生きるスキマとしての社会は、こうして大きな制度のただなかに生まれる。[151頁]

 ここで言われている、真正な社会でのやりとりと非真正な社会のシステムとは「連結」しているけれども「連動」していないという視点は重要でしょう。アメリカの国内農産物の価格が豊作によって低下しないように政府が買い支えした食糧が(エチオピアの飢餓の状態と関係なく)、袋に英語で「売却や交換は禁止」と書かれて贈与され、それをエチオピア政府が人びとに再分配した食糧援助は、システムを維持する意図(思惑)で為されるものです。しかし、配られた援助食糧を、人びとはそれらの意図(思惑)とは別に自分たちの生活の便宜に応じて、ローカルな市場で売られたり、酒として贈与されたりして、そこに「社会」(真正な社会)をつくりあげるために流用されているわけです。それによってつくられるものを、松村さんは「スキマとしての社会」と呼んでいます。現代では、国家や市場(資本主義)システムが生活のなかに浸透していますが、そのただなかに小さな「社会」をつくり出すことを「スキマ」と呼んでいるのでしょう。そのことは、つぎのように、「世界」(非真正な社会)のなかに「社会」(真正な社会)をつくりだす力を、「自分たちでモノを与えあい、自由に息を吸うためのスキマをつくる力」と呼んでいることからも分かります。

 「経済」の章で書いたように、誰もが市場にモノを投入して商品化することもできるし、市場からモノをとりだし、「贈り物」として脱商品化することもできる。商品交換を行う市場に身をおけば、誰もが人間関係にわずらわされない無色透明な匿名の存在になる。でもその市場のとなりに「贈与」の領域をつくりだし、愛情を可視化し、「家族」という親密な関係をつくることもできる。現にぼくらは、そうやってささやかな顔の見える「社会」を構築している。
 「世界」のなかに「社会」をつくりだす力。強固な「制度」のただなかに、自分たちでモノを与えあい、自由に息を吸うためのスキマをつくる力。それがぼくらにはある。国家や市場による構築性を批判するだけではなく、自分たちの構築力に目を向ける。それが構築人類学の歩むべき道だ。[153-154頁]

 国民国家や資本主義といった巨大なシステムからなる「世界」をいきなり変えていくと言っても、どこからどうしたら変えていけるのか、実はだれにもわかっていない、しかし国家や市場のシステムを自分たちの外にある制度として批判するだけでは何も変わらない。そのような非真正な社会に包摂されたなかで、自分たちの身近な関係を変えていき、スキマをつくりだすことで、そこを共感しあうことのできる真正な社会にしていくことが大事だということでしょう。
 そして、そのスキマをつくるやり方は、資本主義システムを構成している商品交換という、「共感」を抑え込むモードに対して、そこに「共感」を増幅する贈与のモードを重ねたりつないだりするというものです。そのやり方について、終章でも、つぎのように書かれています。

 市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あふれる人のつながりを生み出す。その人間関係が過剰になれば、国や市場のサービスを介して関係をリセットする。自分たちのあたりまえを支えてきた枠組みを、自分たちの手で揺さぶる。それがぼくらにはできる。[178頁]

 「働く」ことは、市場での労働力の交換だと説明される。この「あたりまえ」の理解が、労働が社会への贈与……にもなりうることを見えなくする。
 市場のなかにも、どこかで「わたし」の働きの成果を受けとめ、生きる糧としている人がいる。市場交換によって途絶され、隠蔽された労働の贈り手と受け手とのあいだをつなぎなおすことで、倫理性を帯びた共感を呼び覚ます回路が生まれる。[179頁]

 このように、システムに支配されている領域の「スキマ」に「社会」をつくるというやり方は、私が提唱している、非真正な社会のただなかに点在する真正な社会に単独性同士のつながりとしての〈コモン=共〉をつくり出すという実践と重なるものがあり、「わが意を得たり」と思いながら読みました。
 ただ、細かいところの理屈で気になる点がいくつかありました。ひとつは、「社会」(コミュニケーション)/「世界」(システム)と、「贈与」/「交換」という2つの対比の関係です。これらの対比は「社会=コミュニケーション=贈与」と「世界=システム=交換」というように重なっているように書かれています。たとえば、「構築人類学にできることがあるとすれば、商品交換(市場)/贈与(社会)/再分配(国家)の境界を揺るがし、越境を促すこと」[176頁]というように、あたかも「社会」が「贈与」の関係によってつくられているかのように表現されています。
 けれども、これは誤解を招いてしまう表現でしょう。「社会」(真正な社会)は贈与の関係だけからできているわけでなく、そこには交換(市場交換)も再分配もあります(非真正な社会にも、アメリカの食糧援助のように贈与はあります)。ただ、それらは、非真正な社会における贈与や交換や再分配とあり方が異なっているのです。それがレヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」の重要さです。
 松村さんは、そのつど交換/贈与のモードを選択することで、共感のスイッチをONにしたりOFFにしたりして、「社会」(真正な社会)はつくられていくと言っています[64頁]。そして、社会を構築しなおすことも、「関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませること」や「人間関係が過剰になれば、国や市場のサービスを介して関係をリセットする」ことで、「自分たちのあたりまえを支えてきた枠組みを、自分たちの手で揺さぶ」り、「市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける」ことによってできるのだと言います[178頁]。それが、「『わたし』の越境的な行為が、市場や国家を揺さぶり、スキマをつくりだす」[179頁]ということだとされています。
 これを文字通りに理解すると、松村さんのいう「越境的な行為」は、「社会」(真正な社会)と「世界」(国家や市場などの非真正な社会)との境界を越えて、「共感のスイッチをONにしたりOFFにしたり」することということになります。私も、真正な社会と非真正な社会とのあいだの往還運動は重要だと考えています。非真正な社会のシステムを活用しなければ解決できない問題があるからです。しかし、それは真正な社会と非真正な社会との境界を揺さぶったり解消したりするためではありません。むしろ、その往還運動によって、その水準の違いを明確にして(境界を維持して)、真正な社会を守るためです。
 逆に、「わたし」が真正な社会での人間関係が過剰だと感じたとき、国家や市場の提供するサービスを用いて共感のスイッチをOFFにしてその関係をリセットすることはときに必要であり救いにもなりますが、それによって、市場や国家が揺さぶられたりすることも、そのただなかにスキマがつくられたりすることもないでしょう。それは、国民国家や資本主義のシステムに従っているだけだからです。
 では、国家(国民国家)や市場(資本主義)を揺さぶり、そのただなかに「スキマ」をつくり出すとはどのようにことなのでしょうか。すでに述べたように(そして松村さんも述べているように)、それは、そのただなかに真正な社会としての「社会」をつくり出すということでした。そして、その「スキマ」としての真正な社会においてであれば、「関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませること」が可能であり、商品交換である労働を贈与とすることができるということなのです。
 非真正な社会のシステムは、これも松村さんが示唆しているように、商品交換と贈与とを、あるいは国家による再分配と贈与とを明確に区分しそれぞれを純化します(それはその関係を貨幣や法といったメディアが媒介し間接的なものにしていくからです)。けれども、真正な社会においてはその純化はうまくいきません。バザールのようなローカルな市場(いちば)や、あるいは現代社会でも、商店街のような「小商い」では、商品交換も完全に「共感」のスイッチをOFFにすることはできず、店の人との間に、純化された商品交換だけではなく共感のモードが入り込んできて、商品交換の上に贈与の関係が重なってしまいます。また、商品交換であるはずの労働の場でも、デヴィッド・グレーバーがいうように、人は多くの時間、同じ職場の同僚を手助けするという仕事をしています。つまり、贈与(あるいは正確にはシェアリング=分配)をしながら労働しているのです(ですから、システムとしての商品交換は、交換のモードというより資本主義のモードと言ったほうが正確でしょう)。
 このように、真正な社会であれば、商品交換に関係(=コモン)をつくる贈与や分配を割り込ませることが容易にできるのです。現代社会、とりわけ新自由主義社会では、資本主義や国民国家のシステムの支配が社会を貫徹しているように見えます。けれども、そのように非真正な社会のシステムに支配されている空間においても、「わたし」は他の人とのあいだでの贈与や分配をつねに行っている(あるいはつねに他の人から受け取っている)ことだと気づき、それがシステムのなかにあってもそれとは異なる原理による「スキマ」なのだということを意識すれば、「社会」(真正な社会)はつくり出せるし維持できるというわけです。
 つまり、「社会」をどのように構築しているのかという問いを考察するうえでも、真正な社会と非真正な社会の違い、「社会」と「世界」の違いは重要になってきます(繰り返せば、それがレヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」の重要さです)。
そう考えると、本書が提唱している「構築人類学」という名称が適切なりだろうかという疑問もわいてきます。というのも、その提唱が、「社会」は構築しなおせるという主張にはなっていても、「世界」は構築しなおせるという主張にはなっていないように思うからです。あるいは、「世界」やシステムのなかに「スキマ」をつぎつぎとつくることが、システムを揺さぶることはできても、直ちにシステムをつくり直すことにはつながらないからです。すでに述べたように、誰もシステムの全体を見通す立場にはいない以上、設計主義的にシステムを「がらっと」根本的につくり直そうとすることはかえって、システムの強化につながります。構築主義の問題点は、批判のみに終わってしまうことではなく、その設計主義的な姿勢にあったはずです。もちろん、構築人類学の趣旨はそれとは違って、「世界」が直ちに変えることができなくても、「世界」のなかに「スキマ」をつぎつぎとつくり出すことで、「社会」を構築し維持していくことのほうが重要だということでしょう。だとしたら、構築主義の欠陥を思わせるような名称ではないほうが良いような気がします。
 もうすでに長すぎる読書ノートになってしまいましたが、最後に、本書の題名にもなっている「うしろめたさ」について。松村さんのいう「うしろめたさ」は、フィールドのエチオピアで体感する「世界」の非対称性、圧倒的な格差に対して、「自分が彼らよりも不当に豊かだ」ということから生じています。そして、エチオピアでポケットに小銭があれば誰かに渡しているというのですが、「それは、『貧しい人のために』とか『助けたい』という気持ちからではない」と、松村さんは言います。それは、たとえば物乞いの老婆に手を出されたとき、圧倒的な格差への「うしろめたさ」からくる「渡さずにはいられなくなる」という感情に素直に従っているだけだと。そして、「この違いはとても大きい。善意の前者は相手を貶め、自責の後者は相手を畏れる」[40頁]と述べています。慈善のように「貧しい人のために」「惨めな人たちを助けたい」というのは、その人自体を見ていません。「悲惨な貧者」「無力な被災者」というカテゴリーに押し込めて、彼らを無力化してしまいます。それに対して、「うしろめたさ」の感情は、その人の顔を見ることでわき上がるものです。
 「交換のモード」(資本主義のモード)は、そのような共感/感情を抑え込んでしまいますが、「人との格差に対してわきあがる『うしろめたさ』という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる」と言い、「そこにある種の倫理性が宿る」[174頁]と、松村さんは言います。社会/文化人類学の目指すべきは、非対称的な世界に対称性を回復させることだと私も主張してきました。その意味で、松村さんのいう「うしろめたさ」の倫理性という提起には賛同するものです。
 ただ、ここで考えてみたいのは、「人類学のうしろめたさ」ということです。それは、「世界」の非対称性からくる圧倒的な格差をフィールドで感じながらも、フィールドワークという営みは、彼らと顔の見える関係をつくることで、そこに対称的な関係、すなわち二者関係をつくっていきます。松村さんも、「そうやって物乞いの人たちと顔見知りになると、笑顔であいさつを交わすだけで、なにも求められなくなる。彼らも『いつももらうのは申し訳ない』と思うのかもしれない」と述べています。世界の非対称性からくる圧倒的な格差はそのままに、そこに対称的な関係、いろいろ有形無形のモノをもらったり(そこで暮らしていくこと自体が、生活の仕方を教えてもらい、いろいろなモノを受け取ることではじめて可能となります)ささやかにあげたりといった関係がつくられます。
 フィールドでのそのような関係を対称的な関係というと、他の学問分野からすれば格差は依然としてあるわけですから、「そこに対称性などないのに、それを対称的だというのは欺瞞だ」と非難されるかもしれませんが、フィールドでの二者関係・対称性こそ、人類学の武器であるのも確かです。人類学者は、そのような対称的関係を「スキマ」としてつくっていくわけです。そこでは、対称的な関係と「うしろめたさ」は両立していますが、「うしろめたさ」に素直に従う行為はだんだん影を潜めていってしまいます。それは、フィールドの人たちが、圧倒的な格差のある外部からきた異質な者を、自分たちの「社会」(真正な社会)のなかに取り込んで飼いならしていく過程でもあります。つまり、そのフィールドの関係は、「スキマ」としての社会の構築のひとつだと言えます。
 「社会」の構築という課題に応えた本書において残された、「世界」の構築しなおしという課題をどのように考えるのか、それは、人類学者が、依然として厳に存在する圧倒的な格差からくる「うしろめたさ」を感じつつ、その格差を「贈与」や「分配」によって乗り越えて、フィールドで対称的な関係をつくり、そこにある種の基盤としての「コモン」をつくり出す営みをすることだけでいいのか、それとも、「うしろめたさ」という自責の感情をその対称性のなかに解消させることなく、世界の格差をどのように解消できるように構築しなおすのかを考えるのか、という問いは残ります。その答えは、「スキマ」としての社会をつくることは重要だけれども、それと同時にシステムの改革も必要であり、その二つは別のことだけれども二者択一ではなく、同時に(別々に)考えられるものだということになるのでしょう。そして、そのシステムの改革にどのように参画するのかは、一人ひとりの人類学者の課題なのかもしれません。