宗教紛争と「客体化された宗教」

 いま大学院の授業で、関根康正さんの『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社、2006年)を講読しています。この本のなかで、関根さんは、インドの今日の宗教紛争を招いているヒンドゥーナショナリズムイスラーム主義双方の「コミュナリズム(宗教対立主義)」の台頭に対して、セキュラリズム(世俗主義)を擁護しようという論調があるけれども、コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできないと言っています。
 すなわち、特定宗教を普遍的価値として主張するコミュナリズムと、すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズムの対立は、見せかけのものであり、両者は、「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(41頁)と言います。
 つまり、セキュラリズム(世俗主義)もコミュナリズム(宗教対立主義)も、宗教を「客体化」しているところで成り立つというわけです。「イデオロギーとしての宗教」と「信仰としての宗教」を分けたアシス・ナンディの議論を紹介している箇所で、関根さんは、「現代のヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)は……[生活の場から切り離された]『イデオロギーとしての宗教』を操作する世俗近代主義者であるとし、彼らは一義的に標準化され切り売り可能なイデオロギー商品「パッケージ化されたヒンドゥー教」(「パッケージ化されたイスラーム教」に対抗するように)を扱う商人のようなものであるというのがナンディの見方である」(46頁)と述べていますが、この「イデオロギーとしての宗教」が、「客体化された宗教」であることは見やすいと思います。
 それと区別された「信仰としての宗教」を、関根さんは、「生活宗教」とも呼んでいますが、それは「独善的で一枚岩なものではなく、その実践において複数性をもつ」と言っています。つまり、「客体化」される以前の、生活の場における実践を指しており、ヒンドゥー教徒でも、他の宗教の要素を範列的に選んだりする柔軟性をもっているものです。

 この視点からは、今日の宗教紛争が起こっている状況は、次のように描けるでしょう。まず、宗教というものを、私的領域に押し込めることのできるものとして「客体化」するセキュラリスト(リベラリスト)がいます。彼らにとって、特定宗教を絶対視する者は遅れた愚か者です。つぎに、宗教というものをセキュラリズムに対抗的に「客体化」して、一義的に標準化された操作可能なイデオロギー商品とするコミュナリスト(ヒンドゥーナショナリストイスラーム主義者)がいます。
 つまり、超越的立場からのセキュラリストの「客体化」が、コミュナリストによる対抗的な「客体化」を生んでいるわけです。これは、前回のエントリーで述べた、FGM(女性器切除)廃絶論者の「女子割礼の客体化」が、「伝統」としての女子割礼の存続を主張する側の「客体化」を招くという図式とまったく同じ構図です。

 さて、ここまでは、近代のシステムの側にいる者たちの話であり、宗教を客体化する者たちのことです。言いかえれば、〈顔〉のある関係からなる生活の場から離れ、標準化され一般化された論理とメディアによる非真正な社会で起こっていることです。そこにおいて、セキュラリズムとコミュナリズムとが「客体化された宗教」の対立を生みだすのですが、それが暴力的な宗教紛争となるのは、コミュナリストに扇動された「大衆」が現れるからです。インドで宗教紛争が激化するのは、経済自由化による市場原理の徹底とそれによる経済成長にもかかわらず、それによって相対的に低下していく中間層以下が、不安定さと存在論的不安の状態に置かれていくのと軌を一にしています。いわばネオリベラリズム的体制によって不安定化した「大衆」が、RSSやVHP、BJPなどのヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)によって扇動され、そのなかから、主に失業している若者たちを中心に、ムスリムに対して暴力的攻撃を行う者たちが出現しているというわけです。
 関根さんは、この構図を、差別の構図を説明するのに用いていた「二者関係」と「三者関係」という用語を使って説明しています。二者関係とは直接対面的な関係で、そこにも差別や暴力は必然的に生じます。けれども、自己が他者に向き合って振るう暴力や差別という「二者関係の暴力・差別」では、その都度の言い返し・やり返しや交渉といった直接的なやり取りに開かれているし、他の二者関係にもつながっている開放性があります。それに対して、「差別者・扇動者」「共犯者・扇動される者」「被差別者・排他的暴力を振るわれる者」という三者関係になると、この関係は固定化されます。「差別者・扇動者」が、サイードのいうオリエンタリズムにおけるオリエンタリストのように超越的立場にたって、全体を意味づけるからです*1
 宗教紛争や差別に対抗するには、この三者関係を崩す必要があります。人間の生に暴力がビルトインされている以上、暴力反対と唱えても効果がありませんし、そもそもデモクラシーを守るために暴力反対と叫ぶセキュラリストの足場が「超越的立場」にあるのですから、それはこの三者関係を強化するだけです。では、どうすればいいのか。三者関係を二者関係に戻すというのが、関根さんの答えのようですが(間違っていれば、関根さん、ごめんなさい)、近代思考やマス・メディアや法といった一般化されたメディアに介されて成立した三者関係をまったく無くすのは至難の業でしょう。国民国家だけではなく市民社会三者関係の構図そのものとして成立しているわけです。
 ただ、三者関係を完全に解体するのではなく、部分的にしかし不断に、三者関係を二者関係に戻すことはできます。三者関係のなかの「扇動される者・大衆」は、一般化された媒体に介された非真正な社会では「大衆」として現れますが*2、真正な社会(生活の場)では、二者関係をつないでいる人びとです。ひとは非真正な社会のみを生きることはできないゆえに、真正な社会と非真正な社会を二重に生きているというのが、私が唱えている「二重社会論」ですが、三者関係のなかの「扇動される者」も、真正な社会という足場をもっています。
 前のエントリー(9月26日の「西ケニアの「女子割礼」について」)で、「女子割礼はクリアの伝統だ」と、女子割礼を客体化していたクリアの「中間層」の男性が、自分の娘の話になると、客体化を中断して、生活の場の二者関係に戻っていくという例を出しました。関根さんのいう三者関係は、非真正な社会における「客体化」によって成立します。それを真正な社会における二者関係によって不断に中断させていくことが、三者関係を崩すことになっていくわけです。関根さんも、生活の場の「生活宗教」に、三者関係を崩す可能性をみていますが、それは「生活宗教」が真正な社会での生活実践であり、おそらく、関根さんのいう「三者関係を二者関係に戻す」ということにつながるからでしょう。つまり、それは、三者関係を解体するということではなく、三者関係と二者関係の間の「往復」を取り戻すということだと理解していいのだと思います。

 宗教紛争を「何百年、何千年もの歴史があるから解決困難なもの」とか(これはコミュナリストの「客体化された宗教」の言説をなぞってしまっています)、「遅れた愚かな狂信者による暴力であり、世俗化をすすめなければならない」とか「経済的・政治的状況に原因があり、経済成長と政教分離が必要だ」とか(これらもセキュラリストの「客体化された宗教」の言説をなぞっただけです)いった言説がまだ蔓延していますが、それらは宗教紛争を読み解くどころか、それを生みだす構図を強化するだけだということを、そして、それが「女子割礼」をめぐる議論(つまり「オリエンタリズム」の議論)とも重なっていることをすこしでも理解していただければ、このエントリーの目的は果たせたということになります。関根さんの議論は、「宗教」の本質としての「暴力」(「二者関係の暴力」「エロス」)という点にまで踏み込んでいますが、ここでは十分に触れることはできませんでした。それに対する私のコメントはまたいつか。

*1:セキュラリストも同じ「超越的立場」に位置していることを忘れてはならないでしょう。

*2:「大衆」の正確な定義は、「非真正な社会に生きる人びと」です。