「二重社会」の視点から内山節さんの著作を読む

 「二重社会」ないしは「社会の二層性」という視点から、内山節さんの著作を読み直してみたいと思います。これは、二重社会論・社会の二層性論を明確にするための作業でもあります。
 その前に、「二重社会」ないしは「社会の二層性」という視点について、ここで簡単にまとめておきましょう。二重社会は、レヴィ=ストロースのいう真正な社会と非真正な社会という、二つの社会の様相の基本的な区別からの帰結です。この区別は、レヴィ=ストロースのことばを使えば、「3万の人間は、500人と同じやり方では一つの社会を構成することはできない」という、いたって単純なものです。この単純さが重要です。たとえば、この単純な区別は、近代になって、貨幣や行政や議会やなどの媒介によるシステムがローカルな共同体の内部にまで入り込んでくるようになってからも維持されます*1
 レヴィ=ストロースは、シャルボニエとの対談で、議会という制度を例にして、つぎのようにいっています。

町議会や村議会の運営と、国会の運営との間には、程度の差だけではなく質的な差があることは周知の事実です。前者の場合、特に或るイデオロギー的内容に基づいて決議がなされるというわけではなく、ピエールとかジャックとかいう個人の考え、とりわけその具体的な人柄を知ることも、考えを決する基となります。その場合、人々は全体的に、大づかみに、人の行動を把握することができます。思想もたしかに問題にはなりますが、しかしそれらの思想は小さな共同体の一人一人の成員の身の上話や家庭事情や職業的活動によって解釈されうるものです。こんなことはみな、或る人数以上の人口の社会では不可能になります。私がどこかで「真正性の水準」と呼んだのはこのことを指しているのです。[シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』(みすず書房)55-56頁、訳語は一部変更した]

 このことは、議会のみならず、貨幣経済やメディアにも当てはまります。逆にいえば、真正な社会が、非真正な社会に包摂されて、そのシステムからそれらの媒体を取り込むときに、その媒体(貨幣や行政機構やメディア)を異なるものへと変えているということでもあります。
 この「真正性の水準」の区別の重要な帰結は、2つあります。ひとつは、レヴィ=ストロースも言っているように、真正な社会が非真正な社会(資本主義と国民国家によるシステム)に包摂された以降も、真正な社会という様相はその内部で保持されつづけるというものです。そして、もう一つが、その結果、人は真正な社会と非真正な社会という、二つの異なる社会を二重に生きるようになったというものです。この二つ目の帰結こそ、私が「二重社会」ないしは「社会の二層性」と呼んでいるものです。
 
 さて、前回のエントリーで取り上げた、内山節さんの「冷たい貨幣」を「温かいお金」に変えるというのも、非真正な社会のシステムに由来する「冷たい貨幣」を、真正な社会の生活の場において、〈顔〉のある関係によって、「温かい貨幣」へと変えるということでした。そのような実践は、内山さんは、ご自身が半分暮らしている群馬県上野村の山村の人びとから学んだものでした。
 内山さんは、『自然・労働・協同社会の理論』(人間選書農文協、1989年刊)のなかで、上野村の人びとによる「仕事」と「稼ぎ」の区別について触れています。村人のいう「仕事」とは、「村で暮らしていく以上必ずおこなわなければならない労働」で、農作業や山の木を育てる仕事、山道や丸太橋を直す仕事、家事、村の寄合に出る仕事などが入ります。これに対して、「稼ぎ」は、本来ならしなくてすませたいけれども収入のため、日銭稼ぎのために出ていく労働で、日当のための土木作業が典型的なものですが、会社勤めも「稼ぎ」に入ります。
 同じ作業でも、自分の持ち山に行って枝打ち下草刈りをするのは「仕事」ですが、森林組合などに雇われて行なう枝打ちや下草刈りは「稼ぎ」になります。また、上野村ではどこの家でもキノコ栽培をしていますが、キノコ栽培専業の家が近所の主婦をパートで雇いながら大々的に栽培している場合はキノコの「稼ぎ」をしていると表現されますが、他の家で行なっているキノコ栽培は年間2、30万円ほどの収入になりますが、これは「仕事」に属します。それはキノコの栽培が目的で、収入は結果にすぎないからです。内山さんは、「仕事」の場合は、それ自体はお金のために行なうものではなく、お金の論理をこえたものと捉えています*2
 このように、「仕事」と「稼ぎ」の区別は微妙なものですが、村人たちにとっては明確なものです。内山さんはこの区別について、『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社、2006年刊)でも触れています。そこでは、上野村のような山村はかなり古くから「稼ぎ」の村だったことが、「仕事」と「稼ぎ」を使い分けるようになった理由ではないかと述べられています。上野村は、平坦地が少なく、山に挟まれて日照時間も短く、稲作には適していませんでした。そして、焼畑による畑作で自給していたわけでもなく、江戸時代には養蚕と和紙、内山さんがはじめて訪れた35年ほど前は蒟蒻といったように、商品作物が中心で、主食の生産はほどほどにして、むしろ高く売れる商品作物の生産に力を注ぎ、食料を購入する道を選んでいたというのです。
 内山さんはそのような背景が「仕事」と「稼ぎ」の区別を生んだとして、つぎのように言っています。

 このように「稼ぎ」が軸にならざるをえない村であったことが、逆に「仕事」を大事にしようという気風を生みださせたのであろう。「稼ぎ」は一軒一軒、一人ひとりのもの、つまり個人主義的なものである。しかも「稼ぎ」を効率よく実現させようとすれば、自然に敵対する行為も生じかねない。共同的な精神が失われれば、共同体が分解してしまう。おそらく、このような現実を経験していくうちに、生活を守るためには「稼ぎ」も大事だが「仕事」はもっと大事だという気風をつくりだしたのだろうと思う。/村という永遠の世界と結ばれているのが「仕事」であり、そのときどきによって変わっていくのが「稼ぎ」である。(中略)
 とすると、今日の一般的な労働の世界では、「仕事」と「稼ぎ」の違いが不明確になった理由もよくわかる。「仕事」を成立させていた、永遠の世界と結ばれていた人間の営みが私たちの目にみえなくなった。永遠の世界自体が感じられないものになったことが、その背景にはある。市場経済とはたえず新しさを競う経済、その意味では永遠性を喪失した経済である。[『戦争という仕事』260頁]

 市場経済と接合したとき、「仕事」と「稼ぎ」の区別がつくられたのではないかという推測は重要です。つまり、非真正な社会に包摂され、市場経済が不可欠なものとして生活に組み入れられたとき、「仕事」と「稼ぎ」との微妙な使い分けによって、真正な社会と非真正な社会との区別を引きなおしたということだからです。つまり、真正な社会の水準での労働としての「仕事」と、非真正な社会の水準での「稼ぎ」の微妙な区別によって、真正性の水準を維持しているわけです。

 さらに、内山さんは、『「創造的である」ということ 上 農の営みから』(農文協、2006年刊)のなかで、生活の場(すなわち真正な社会)における商品化について、社会学者の渡植彦太郎さんの「半商品」という概念を用いて、それが非真正な社会での資本主義システムでの商品化と異なったものに変えられていることを説明しています。「半商品」とは、「市場では商品として通用し、流通しているけれど、それを作る過程や生産者と消費者との関係では、必ずしも商品の合理性が貫かれていない、そんな商品のこと」[『農の営みから』119頁]です。たとえば、明治時代までは町にたくさんいた職人たちは、消費者の依頼を受けて労働生産物をつくり、それを依頼主に売るのですが、職人たちは経済の合理性だけでものをつくっているわけではなく、時間をかけてまでも自分の納得のいくものをつくる。そのためにときには日当計算からすれば採算が取れないこともあります。消費者もただ商品を買うのではなく、そういう職人がつくるものだから手に入れたいと思う。つまり、商品でありながら、生産者も消費者も商品の論理だけで動いていないという関係がなりたっています。そこには「半商品」の世界があると、内山さんはいいます。
 そして、現代でも消費者は、商品を買いながら、関係的世界をつくりだしている半商品を買う気持ちを捨て切ってはいないと、内山さんは言います。たとえば、農民と直接付き合いながら産直のようなかたちで農民から直接農作物を買うときには、スーパーで買う場合と比べて、消費者は価格にそれほどこだわらないというのです*3。そこには、〈顔〉のある関係からくる、市場原理ではとらえられない使用価値が発生しているからです。
 
 内山さんの『「里」という思想』(新潮社、2005年)は、上野村の村人たちから「ローカルな世界」を維持することの重要性、いいかえれば真正な社会を保持することの意義を学びながら、空間的普遍性に対して時間的普遍性を対置させるという思想を展開している点で、真正性の水準や二重社会ということを考える上でも重要な著作です。ローカリティに依拠することへの批判として、それが普遍性をもたないゆえに、普遍的なグローバリゼーションに対抗することはできないと主張されてきたからです。内山さんはつぎのように言っています。

 近代的世界は、〈ローカルであること〉を解体しながら、普遍的な世界をつくりだした。普遍的な空間をつくろうとしたのである。市場経済はたえず普遍的な市場空間をつくりだそうとしつづける。社会を普遍的な市民社会という空間に変えつづける。国民国家という空間を普遍化し、こうして、人々を普遍の世界に飲みこんでいく。
 近代的世界は、空間的普遍性を追い求め、時間的普遍性を否定したのである。時間が変化や進歩と結びついた概念になり、いつの時代においても価値をもちつづける普遍性が否定された。この後者の普遍性を、私は、時間的普遍性と呼んでいる。[『「里」という思想』18-19頁]

 これを参照すると、前の『戦争という仕事』からの引用で「永遠の世界」と呼ばれていたものは、時間的普遍性のことだということがわかります。それは、真正な社会であるローカルな生活の場においてのみ実感される、「人の営み」の普遍性です。
 この本のなかで、上野村の村人たちの言葉遣いで印象深いのが、「公共」という言葉の使い方です。内山さんは、「東京で『公共』といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指して」いるが、村では「公共」とは、「みんなの世界のことであり、『公共の仕事』とは、『みんなでする仕事』のことであった」といっています。つまり、みんなで道を修理することや、山火事の消火や祭りの準備をすることなどが「公共の仕事」です。そして、内山さんは、つぎのように言っています。

 そして村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動をすることによって責任を負える世界のことであった。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。/つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられていた。そして私には、その方が、社会の自然なとらえ方のように思われた。[『「里」という思想』50頁]

 この文章などは、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会」の特徴をよく示しているように思います。自分たちでなんとかできる範囲の世界を、それより広い大規模な社会(非真正な社会)のなかで保持していくことの重要性も示唆しているでしょう。
 また、内山さんは、二重社会ないしは社会の二層性といった表現は使ってはいませんが、似たようなことを示唆しています。たとえば、つぎのように言っています。

 いまでは歴史学が明らかにしているように、近代以前の人々は、けっして村や地域のことしか知らずに暮らしていたわけではなく、けっこう広い世界と交流しながら日々を過ごしていた。(中略)/そのとき、自分の暮らすローカルな世界での行動と、その外の人々と付き合うときの行動は、はっきりと使い分けられていたのではないだろうか。自然や、そして村人たちと共有されているローカルな世界では、論理的には説明できない考え方や習慣も展開した。しかし、外の世界の人々と付き合うときには、一定の論理性、合理性が貫かれていた。たとえば藩や幕府にあてた村人の書いた古文書では、きわめて論理的に自分たちの主張が書かれているし、商品作物の取り引きなども合理的におこなわれている。(中略)/すなわち、論理性と非論理性をあわせて多層的に受け入れていく精神は、論理性と非論理性の折り合いをつけながら展開する、ローカルな世界を共有している人々の間で成立するものであって、すべての場面で適用されるべきものではないのである。だから、この世界を共有していない人々と交流するときは、むしろ、合理的、論理的な方法が用いられた。/この関係は、今日の私たちの日常でも受け継がれている。たとえば一番小さなローカルな世界である家族や、友人との世界では、私たちは論理的な付き合い方だけをしているわけではない。私の暮らす群馬県上野村のように、村とは自然とここに住む人間の共有された世界だ、という感覚が残っているところでも同様である。このように、小さな世界を共有している人々の間では、今日なお、論理性と非論理性が、多層的に共存している[『「里」という思想』166-167頁]

 このような使い分け・区別は、これまでは「身内/よそ者」という、内部/外部の図式で解釈されることが多かったけれども、真正な社会/非真正な社会という、社会の二層性を二重に生きるための方策として解釈すべきでしょう。なぜなら、この区別は外部の世界との交流を拒むためのものではなく、むしろ広い外部世界との交流を前提としたものだからです。そして、外部のシステムがローカルな生活の場にまで侵入してきた近代以降は、この区別を保持するために、「仕事」と「稼ぎ」の区別のように、繊細で微妙な区別をする工夫が必要となったわけです。その工夫を面倒なこととして放棄してしまうと、内山さんが指摘しているように、共有されたローカルな世界ではない、論理的で合理的に決めていかなければならない場面(非真正な社会)でも、非論理的な決定が持ち込まれたり、あるいは逆に、一人の敗者も出さないように(いいかえれば排除されたと思う者を出さないように)、「正しさ」とは無関係の根回しや了解を取り付けるべき場面で、論理的な(空間的普遍性にもとづく)「正しさ」を主張してしまったりするわけです。
 その辺りは、前に書いたレヴィナスの「正義」と「倫理」の区別とも関連していますが、もう長くなりましたので、この辺で。

*1:この点が、ハーバーマスの「生活世界とシステム」という社会の二層性の視点との違いです。

*2:この「仕事」と「稼ぎ」の区別については、『自然と人間の哲学』(岩波書店、1988年刊)など、他の著作でも触れられています。

*3:フェア・トレード」の場合にはもっとそれが顕著にあらわれているといえるでしょう