『現代アメリカの陰謀論』を読む

 安部首相のあまりにも不可解なタイミングの退陣表明のあと、ウェブ上ではアメリカ・ブッシュ政権の陰謀とか某カルト宗教団体の陰謀など、「陰謀論」が飛び交っているようです。「陰謀論」は、マスコミではほとんど流れていないという点に特徴があります。逆に言えば、麻生クーデター説のように、マスコミに出ているものは「陰謀論」とは呼べないということです。マスコミにはけっして出ない「真相」があるという信念の背景には、外国やエリート集団や秘密結社や宗教集団や宇宙人などといった、影で社会を動かしている巨大な権力が、政府やマスコミをも動かして「真相」を隠しているのだから、むしろ政府の公式見解やマスコミに出てきたものはすべてまやかしだという信念があります。
 「陰謀論」の人気は、誰も全体を見通せなくなっている現代社会の複雑さを一気に単純にして縮減してくれることと、自分だけが「真相」を知っているという自尊心を与えてくれることにあるのでしょう。専門家の作り出す公式見解(「正統的な知識」)の権威が崩れて、マスコミの報道への信頼もなくなっている状況は、「陰謀論」の発生しやすい条件を作っていると同時に、「陰謀論」に対する欲求をも生んでいるといえます。専門家システムやメディアが縮減してくれない複雑さの不安を少なくとも解消してくれるように思えるからです。「陰謀」を暴いたところで、現代社会の複雑さは現実には何も変わらないし、「陰謀論」が社会全体を見通せない不安を解消してくれるといっても、「陰謀」による不安をあらたに作り出すわけで、マッチポンプのようなものなのですが。
 ウェブ上のユダヤ陰謀論や宇宙人陰謀論や「反日連合」陰謀論北朝鮮陰謀論のように、「正統的な知識」からすれば荒唐無稽な陰謀論も、非マスメディア系ジャーナリストが流す、もっともらしい「マスコミでは書けない『真相』」といった「陰謀論」(なかには事実に基づいて作られたものもあるのでしょうが、複雑さを縮減するために、「陰謀」という単純な物語を作るという点では同じです)も、同じ信念(巨大な権力が「真相」を隠している!)から来ていて、同じ欲求に応えるものであり、その効果も同じというわけです。そして、陰謀をしている影の巨大な権力(巨悪!)に果敢に挑むという英雄気分も味わえます。
 社会科学的には、「陰謀論」は、アンソニー・ギデンズのいう「脱埋め込み」(この訳語はなんとかなりませんかね、「離床」あたりが日本語としてはいいのですが)による不安がもたらしたものであり、同時に「脱埋め込み」の推進力である「専門家システム」への異議申し立てになっているという点が興味深いのですが、その異議申し立ての方向性(つまり「再埋め込み」をする場所)がなんでこうなるのっていう点もまた、考察すべき事柄になるでしょう。そのことを考えるのに、ここで紹介するバーカンの『現代アメリカの陰謀論』は役に立つ基本文献となるでしょう。

マイケル・バーカン『現代アメリカの陰謀論:黙示録・秘密結社・ユダヤ人・異星人』林和彦訳、三交社、2004年
Isbn:4879191574

 バーカンは、アメリカの陰謀論が、2000年前後の世紀転換期をはさんで変容していることを示唆しています。つまり、1990年代年以前では、陰謀論は、サブカルチャーという限定された領域のみで表明される「烙印を押された知識」として、正統的な知識(バーカンは主流社会の「総意的真実」と呼んでいます)とは区別されていたのに、1990年代になると、その境界線が揺らいでいき、映画の『陰謀のセオリー』(1997年)や『X-ファイル』(1998年)にみられるように、陰謀論が主流の大衆文化にも浸透していくとともに、陰謀論自体も、単一のイデオロギー――例えば、宗教的千年王国論や反ユダヤ主義など――の系譜から独立して、系譜の異なるものの「寄せ集め」である「即興的千年王国論」が勃興してきたといいます。すなわち、

[即興的千年王国論]は、正統派の束縛に反抗した宗教的な異端から発生したものでもなければ、一般に受容された政策に挑戦した逸脱者の産物でもない。むしろそれらは、いずれの影響が支配的なのか同定が困難なほど隔絶した要因を結び付けたのである。即興的千年王国論の実務家たちは、たんなる混交主義者に留まらず、彼らの意識にたまたま飛び込んできた信念や断片や破片を用いて、完全に新しい創造物を構築しているのである。[41頁]

 そして、そのような新しい陰謀論の特徴をよく表しているのが、1990年代に湧き起こったUFO陰謀論だとしています。UFO陰謀論とは、多様な千年王国論を統一した「新世界秩序」陰謀論と、UFO研究が結びついたものです。「新世界秩序」陰謀論は、国際連合フリーメイソン、イルミナリティ、ユダヤ人、カソリック共産党など、さまざまな「国際組織」に擬せられた国際的ネットワークが世界を(そしてアメリカ合衆国を)支配しているという陰謀論で、「新世界秩序」は、1990年以前から、宗教的・世俗的を問わず、陰謀論の共通の基盤となっていました。それが、同じく「烙印を押された知識」(つまり「トンデモ本」的知識として徴付けられているということ)ではあるが、主流の大衆文化にはより近く、はるかに多数の人びとに支持されていたUFO研究とつなぎ合わされていったというわけです。バーカンは、つぎのように書いています。

陰謀主義における政治[極右や白人至上主義、反ユダヤ主義を指す]は、UFO研究への拡張により、いまや多種多様に揃った大きなテーマの一区画のみを構成する要素となり、必ずしも最重要のものではなくなった。多数のなかのひとつの構成要素として、ほかの一見すると非党派的な特性から恩恵を被ることになった。ほかのものも烙印を押された知識であり嘲笑の種かもしれないが、修復不可能なほど忌まわしいとか政治的に疑わしいとは必ずしもみなされないのである。[209頁]

 バーカンも示唆しているように、「新世界秩序」陰謀論者がUFO研究を採り入れたのは、極右の反政府民兵組織の反ユダヤ主義者か、あるいは反キリストに興味を持つ終末論的なキリスト原理主義者に限られていた「新世界秩序」陰謀論者が、そのいかがわしいとされる政治的立場を中和・殺菌して、大衆に接近するためのいわば隠れ蓑として用いるためだったかもしれません。松浦寛さんの『ユダヤ陰謀説の正体』[ちくま新書、1999年]も、このような隠れ蓑説ないしは偽装説を採っています。けれども、この偽装説は、どこか批判対象の陰謀論に似ています。つまり、UFO陰謀論反ユダヤ主義者や極右のキリスト原理主義者の「陰謀」というわけですから。要するに、隠れ蓑説は、自分たちにはわけの分からない「UFO陰謀論」の繁殖を、誰かの「陰謀」として安心するという、陰謀論と同じ構図をもっているのです。陰謀論には右も左もないというわけですね。
 しかし、この隠れ蓑説は、初期のUFO陰謀論には当てはまるかもしれませんが、少なくとも、1990年代以降の、ウェッブサイト上で繁殖しつづけているUFO陰謀論には当てはまりません。というのも、たしかに、この接合は、陰謀論を政治的に「殺菌」し、SFと同等の非烙印ジャンルと結ばれることにより、主流の大衆文化に無害な娯楽として入ることを可能にしましたが、同時に、陰謀論における極右や反ユダヤ主義という政治的性格も埋没してしまい、ほとんど重要性を失っていったからです。つまり、それらの陰謀論はすでに政治的動員とは無縁のものになっているのです。
 バーカンは、UFO陰謀の増殖がちょうどインターネットが普及し始めたのと同時期に起こったこと、そしてそれによる性格の変容にも注目しています。つまり、何のチェックも入らないウェッブ上では、「烙印を押された知識」と正統的な知識との区別がなされていないために、その境界があいまいになっていくというわけです。そのような知的権威の喪失というウェッブ上のポストモダン的状況についての最も極端な立場をとるジョディ・ディーンの議論を、バーカンは紹介しています。ディーンは、異星人による誘拐や政治的陰謀のテーマを取り上げながら、それらについての論争が決着しないまま放置され、多元的な論争的真実が存在するだけで、もはや「総意的真実」はないと主張しています。このディーンと同じような議論は、木原善彦さんの『UFOとポストモダン』[平凡社新書、2006年]でもされています。
けれども、バーカンは、ディーンの極端な議論、すなわち、周縁=マージナルな知と主流の知を分ける境界が崩壊し、もはや烙印を押された知識の領域は存在しないという議論を退けています。たしかに、かつて烙印を押された知識のゲットーに追いやられていた思考が、いまや主流派のオーディエンスにも容易に届けられるようになったが、それはもはや「総意的真実」と「烙印を押された知識」との区別がもはやなくなったということではなく、境界がもっと浸透的になってきたというにすぎないと言います。つまり、たしかに浸透的にはなってきたけれども、その境界は頑としてあるというのです。
 バーカンのこの穏当な議論は、むしろ「陰謀論」の本質を突いていると思います。冒頭で述べたように、「陰謀論」は、専門家システムやメディアが縮減してくれない現代社会の複雑さによる不安を解消してくれるものであり、その前提には、影で社会を動かしている権力のネットワークが「真相」を隠しているのだから、専門家やメディアによる正統的知識や主流社会の「総意的真実」はすべてまやかしだという信念がありました。つまり、「陰謀論」が複雑さを縮減してくれるという機能を果たすためには、正統的知識や総意的真実と、烙印を押された知識としての陰謀論との境界が必要とされるのです。烙印や境界の存在こそ、陰謀論が、影の権力のネットワークの隠している「真相」だという信憑性をえる源泉になるわけですから。そして、ウェブ上や大衆文化においてその境界が浸透的になってきたことは、陰謀論の増殖の条件になっていますが、まったく境界がなくなってしまったら、陰謀論そのものが成立しなくなります。
 もっとも、木原善彦さんは、境界がなくなっていくことで21世紀には陰謀論が消滅するだろうと述べています。すなわち、

もはや、私たちの持たない知を隠し持っているとイメージされる「他者の他者」は存在しません。エイリアンもいなければ、陰謀を企む連邦政府も世界政府も存在しません。確かにそのような国家的・国際的陰謀説も2001年の9・11事件以来、一部にはあるのですが、むしろ現在では、陰謀であれ何であれ、あらゆる全体化の試みから逃れる千年紀の虫[2000年問題のときの「ミレニアム・バグ」を指す――引用者注]や生態系を乱す内分泌攪乱物質[「環境ホルモン」等を指す――引用者注]のような存在の方が脅威を増しているように思われます。それはもはや優越的な知を有することのない、ただただ異質なむき出しの他者です。[『UFOとポストモダン』190頁]

と。そして、「異質なもの」は、もはやエイリアンのように明確な外部からやってくるのではなく、「エイリアンよりももっと複雑かつ根源的に私たちの存在そのものにかかわってくる他者という感覚、いわばシステムに入り込んだアンチシステム、私たちの秩序正しい生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような存在という感覚」になっていくと木原さんは言います。たしかに、生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような「異質な他者」は、陰謀の主体とはならないでしょう。それらの「他者」は、まさに誰もが見通せなくなった社会の複雑さを象徴した「他者」です。しかし、そのような「異質なむき出しの他者」という象徴が作り出す不安は、それらの背後にある権力ない悪のネットワークによる陰謀論を呼び出してしまうような不安ではないでしょうか。
 というのも、現代のネオリベラリズム社会には、「陰謀論」を喚起する条件があるからです。ネオリベラリズムにおいては自己選択・自己責任論が基調となっていますが、そのためには個々人がある程度、社会について俯瞰した情報が与えられている必要があります。ところが、現代社会では、そのような情報こそ不足しているものです。「異質なむき出しの他者」の情報によって一時的に対処――つまりその他者を排除するという対処――はできますが、人生を選択し、それを自分で引き受けることはできません。「陰謀論」は、そのような情報の欠如想像的に補填し、情報の欠如による自分の「負け」を、「自分が『負け組』なのは影のネットワークの『陰謀』のよるものだ」というように、(自己責任ではなく)自分で引き受けることを可能にするものといえるでしょう。
 つまり、陰謀論は、木原さんがいうように、「異質なむき出しの他者」という小さな物語に取って代わられて消えていくというようなことは起こらないだろうということです。それは、現実の社会においては、ポストモダン思想の体制化によって大きな物語を解体していくのと平行して、想像的には(ナショナリズムのように)大きな物語が必要とされているからです。当分、「異質なむき出しの他者」という小さな物語と、権力のネットワークによる「陰謀」という大きな物語が並存していくのでしょう。