「報復の代行」としての死刑?、そして感情――報復権は死刑の根拠たりうるか(3)

 Skyhookさん、悲しみの聖母さん、コメントありがとう。
Skyhookさんのおっしゃるとおり、駒村さんは、「死刑は、国家が、報復権を本人になりかわり、適正かつ安全に代行する制度であるといえよう」「『報復の代行』という説明以外に、国家による暴力の独占を正当化できる十分な説明があるかといえば、完璧な説明を自明のものとして私たちが持ち合わせているわけでもない」と書いていますから、skyhookさんが書かれているように、「『報復の代行』としての死刑を正当化」する主張と捉えられても仕方ない」というあいまいな面が残っています。ですから、前回のエントリーにおいて、駒村さんの論旨を丁寧に説明していなかったので、ここで説明して、どこが破綻しているか説明する必要があるでしょうね。
その論旨は、こうです。

 自然権としての報復権という捉えかたには異論があるだろうが、報復権を国家が取り上げて暴力の独占し、その代わりに「報復を代行する」と約束しているという以外に死刑を正当化する説明が見当たらない。?だとしたら、被害者遺族が「報復権」を返してくれという要求を退ける[すなわち、国家による死刑を続ける]のであれば、報復権回復の要求をする被害者遺族の報復感情を慰撫する必要がある(報復権の要求がいまだに繰り返されるのは、現行の給付金制度などの犯罪被害者救済制度では慰撫できていないということを意味する)。?被害者遺族による報復権の要求は、近代刑法の「目的刑論」に対する疑念・不信の表明であり、「応報刑論」の復権の要求であるから、それを退けるには、犯罪者の矯正の技法などを開発して、ちゃんと目的刑として機能しているようにしなくてはならない。結論:現に国家による死刑がなされていることを前提に考えるなら、細部の制度改革だけではなく、犠牲者と死刑囚の二つの「死」の鎮魂となるような「修復の文化」を育む必要があり、そのような修復の文化こそが報復権の主張を沈静化させるだろう。

 このように、駒村さんの主旨はそれなりに明確です。Skyhookさんのおっしゃるように、「第二、第三の論点も[第一の]この立場を前提にしている」のですが、その第一の論点は、宮崎さんがいうように、「『報復の代行』としての死刑を正当化」するものではなく、国家による死刑制度は「自然権としての報復権を人々から取り上げて報復を国家が代行するもの」という正当化の説明以上の根拠がない以上、被害者遺族が「ちゃんと代行しないなら報復権を回復してくれ」という要求を退けることができないという論旨です。そして、それは結論というより、結論にいたる前提であり、駒村さんの論旨は、「現にある国家による死刑」という前提と、「死刑が『報復の代行』とするしか、国家が処罰権という暴力を独占する正当性はない」という前提の二つの前提から、被害者遺族の報復権回復要求を退けなければ国家による死刑は続けられない、では報復権の要求を退けるにはどうしたらよいかというものです、つまり、「『報復の代行』としての死刑の正当化」が結論ではなく、それは当然異論があるものだろうけど、それ以上の説明がないかぎり、そこから出てくる被害者遺族の報復権回復要求をどうするんだという論旨なのです。
 私が言いたかったのは、それを「『報復の代行』としての死刑の正当化」という新しい論旨として紹介するのはいかがなものかという、宮崎さんへの疑念です。
さて、駒村さんの論旨を以上のように整理すると、「自然状態」から現状(国家による死刑)を正当化するとともに、その「自然状態」における「自然権」と、自然状態から脱するための「契約」とに照らして、現状における「約束不履行」を批判するという、教科書どおりの「社会契約説」にのっとっているようにみえるかもしれません。では、どこが破綻しているのかそれを説明しないといけませんが、前回のエントリーでは不十分のままだったかもしれませんね。
 まず、国家による暴力の独占を「報復の代行」の約束によって正当化したものという論理は、社会契約説に完全に反しています。国家による暴力の独占は、前回説明したように、「自己保存」の自由という「自然権」と人間の理性からくる「平和の命令」という「自然法」によるものです(正確には、その「自然法」のみの不十分さによるもの)。自己保存のための他者殺害という自然権は、同じく自己保存という自然権に反するゆえに、自然法によって、殺害権が放棄されます。それが理性の戒律としての「第一の自然法」です。けれどもそれだけでは平和や安全が脆弱なままで完全には実現しないので、暴力を独占する「国家」という共通権力が「契約=約束」によって設立される必要があるという論理です。ここには、たとえば「自己保存による殺害」という暴力権を、国家が代行してあげるからという約束で取り上げるなんて論理はなりたちません。ましてや「報復権」は自然権にそもそも反していますし、たとえ、報復権自然権として認めたとしても、それを「代行する」約束によってはじめて暴力の独占が正当化されるなどという論理はなりたたないのです。駒村さんは、「でも現にある死刑を正当化する説明がそれ以外にないじゃないか」といっているわけですが、そこからの論理的帰結は、「死刑を正当化する説明はない」というものでしょう。けれども、死刑存廃の議論を括弧に入れて、現にある死刑という前提から出発する駒村さんは、死刑制度を続けるにはどう正当化すればいいかという論拠をむりやり「自然権としての報復権」に求めているわけです(しかも、その論理は、私のような素人からみても、自然権自然法の区別もできていません)。
 さらに、近代刑法の原則が「応報刑論」を否定した「目的刑論」である以上、その内実を高めないと正当化されないという第三の論点からすれば、死刑は「応報刑論」を否定したはずの近代刑法にあって「例外」的なもの、応報刑を残したものです。駒村さんが応報刑論に戻れと言っているのでないかぎり、ここでも「死刑」は正当化されない「異常」なもので、加害者と無関係な死刑執行人が行う(双方にとって)「非人間的」(駒村さんの言葉です)なものとならざるをえません。そして、被害者遺族の「報復感情」を慰撫するための「死刑」という正当化も、駒村さんは、死刑によっても慰撫しきれないといっていて、「修復の文化」こそ必要だという結論になります。もちろん、この「修復の文化」には「現にある死刑制度」が含まれていますし、死刑によって被害者遺族の「報復感情」を慰撫しきれないといっても、死刑なしには慰撫はもっと困難だということでしょうから、死刑廃止論にはなっていませんが、全体としては、これって死刑廃止論じゃないのという感じになっています。そこまで言わなくても、少なくとも、宮崎さんが期待している「死刑存続の正当化」の論拠としてはまったく使えないものであることは確かでしょう。
 さて、悲しみの聖母さんがこだわっておられる「子供や配偶者や親きょうだいを殺された被害者遺族の感情問題解決」ですが、駒村さんの議論では、被害者遺族の感情の解決は、制度の問題ではなく、「文化」の問題となります。制度論としては、上の駒村さんの論旨の紹介で明らかなように、「被害者遺族の『報復権の要求』を退けて死刑制度を維持するにはどうすればいいか」という議論で、全体の論旨は、けっきょく「被害者遺族の感情」が慰撫されていないから、「報復権の要求」が繰り返されるのであり、その「報復権の要求」は制度の正当性を危うくするのだから、なんとかその元にある「報復感情」を慰撫しなければならないというものです。被害者遺族の感情の解決は法的制度では無理だというのはその通りだと思います。私の違和感は、駒村さんの制度論についてであり、その部分ではありません。悲しみの聖母さんが、前のコメントで、「駒村氏の議論の前提となっている『被害者感情』とは質の違う、異社会の『感情』の発生と処理の個別的事例を参照されている点に違和感をおぼえた」と書かれていましたが、駒村さんの議論も、本村さんという被害者遺族の固有の(代替不可能な)感情を前提としたものではないでしょう。それを「報復権の要求の元にある『報復感情』」というふうに一般化し、その固有性を無視して議論しているものです。そして、それに対する私の議論において、ヌエルの事例を出したのは、異なる制度では異なる(一般化された)感情がある、だから、私たちの社会で一般化された(一般化はけっきょくは特殊性の度合いにすぎません)「被害者遺族感情」に基づいて、自然状態という普遍性の議論はできないということを言うためです。ですから、(駒村さんの議論やそれを紹介した宮崎さんの議論が、けっきょくは「被害者遺族一人ひとりの固有な感情の解決を論じたものではないのですから)、私の議論でもそれを圧肩わけではありません。けれども、悲しみの聖母さんは、被害者遺族一人ひとりの固有の(代替不可能な)感情についてこだわっておられるようです。そこで、一般化された感情による制度の議論という駒村さんの議論への批判からは離れますが、それについても触れるとしたら、以下のようになるでしょうか。
 駒村さんの議論はひとまずは制度論ですから、一般化されるのは当然かもしれませんが、そうなると制度が「感情」を作るのであって、「感情」が制度を作るのではないという議論に行き着くしかありません。私の立場は、たとえば「家族の愛情」は「近代家族」という制度が作ったもので、もともとそのような親密な愛情が家族にあったわけではないというフェミニズムの議論はどこかまずいところがあるというものです(半分は賛成しますが)。というのも、そこに「制度に作られた感情」が「作られたものである以上、変えられるものであり、制度の根拠にならない」という含意があるからです。「制度によって作られた感情」であっても、もちろんその「感情」はほんものです。そして、そのような議論で抜け落ちるものは、同じ制度で同じように作られているようにみえる「感情」には、制度の中で生きる一人ひとりの唯一性・固有性からくるかけがえのなさがあるということでしょう。そして、その唯一性・固有性からくるかけがえのなさこそ、普遍的な感情へとつながるものであるということです。それに対して、一般化された感情は、作られた同じような感情として片付けられ、そこには制度を超えたかけがえのなさも普遍性につながるものもありません。自然状態というフィクションに意味があるとしたら、その普遍性を問題にするところにあるでしょう(ただし、それを行っているのはホッブスではなく、「人類学の創始者」であるルソーですが)。「人類学の知見」というものがあるとしたら、それはこんなに違っているのもあるよーということを示す実証的知識などではまったくなくて、まったく異なる制度を生きる人びとにも想像が及ぶ人間の普遍性を探究するためのものです。そのような普遍性の探究は、一般化ではなく、代替不可能な個の感情への、一般化不可能性を含んだ共感のもとになるものであり、それなしには、被害者遺族一人ひとりの固有の(代替不可能な)感情を解決しやすくなる環境としての文化も作り上げることはできないでしょう。