再び女子割礼/女性器切除FGMについて

 前々回のエントリーで、私が調査している西ケニアのクリア社会の女子割礼のことを取り上げました。人道的介入を訴えるFGM(女性器切除)廃絶論者と文化相対主義に立つ人類学者の断絶を少しでも埋めて対話がなりたつようにという意図もあって書いたのですが、FGM(女性器切除)廃絶論者からのコメントもトラックバックもいまのところありませんね。

 これはひとえにこのブログの力不足のせいでしょう。Googleで「女子割礼」を検索しても上位200までに入っていないのですから、関心のある人に読んでもらうのは困難というものです*1。学生のレポートにも使えると思うのですが(単位がとれるかどうかは保証の限りではありません)。
 日頃からゴールデンタイム番組のような万人向けではない「深夜放送」的なニッチを目指しているなどと、読みにくいブログになっていることへの言い訳にしているから、いざ広く読まれることを狙ったものを書いても、当然読まれない結果になるというものです。
 悔し紛れにというわけではありませんが、再び「女子割礼/女性器切除」を取り上げて、少しでも読まれるようにしようという魂胆です。

 さて、前々回のエントリーに対して、別のところで質問が寄せられました。そちらには応答しておいたのですが、同じような疑問をもたれた方がいるかも知れませんから、こちらにも書いておきます。その質問とは、「でも(クリアで)女子割礼をやめるようになったのって、広い意味での西洋化ではないの?」というものです。
 それに対する答えは、それはその通りだというものです。ただし、それだけだと、アフリカ社会のあらゆる急激な変化は「西洋の衝撃」で始まり、それまでは不変だった、あるいはひと世代ではわからないような緩やかな変化しかなかったという誤解を招くおそれがありますので、付け加えておけば、たしかに、こういった変化は、契機が外部との交流にあります(「ひとのふり見てわがふりなおせ」ってやつ)。そもそも、レヴィ=ストロースの神話研究が明らかにしているように、あらゆる文化は他の文化との変換によってつくられています。そして、その変化は、西洋化や近代化で早くなったといえます。クリア社会での女子割礼の変化もそのようなことは言えます。しかし、外部との交流による変化は、西洋化とは別に以前からアフリカ社会内部にもありましたし、女子割礼以外で、西洋化以前に変化した儀礼もあります。

 大事なのは、クリアの老人が「女子割礼がなくなっていくのは、昔は重要な儀礼だった他の儀礼がいまはだれも行なわなくなったのと同じことさ」と言っていたように、広い意味での西洋化によって変化が促されたとしても、西洋化以前のその変化と西洋化後の女子割礼の変化が連続しているように捉えられているという点です。
前々回のエントリーで言いたかったことは、そのような連続的な変化であれば、たとえ客観的にいえば「西洋化」「近代化」による変化であっても、自分たちの生活の変化(これももちろん「西洋化」の影響と言ってかまいません)の便宜にあわせた臨機応変の選択によって変わったというという点であり、そのような変化なら、無意味な客体化も、矜持や自負の喪失も起きないし、実際の変化は、人道的介入する場合よりそちらのほうが早いということです。
 したがって、ここで対比されているのは、「西洋化以前の閉じられた内部での変化」(西洋化以前も外部との交流による変化が多かったわけで、これは幻想です)と「西洋化による変化」ではなく、「西洋化を含めた外部からの要素を範列的に臨機応変に選んだことによる変化」と「人道的介入による、最初から正解がある前提での固定的な変化」です。介入する側が最初から「人道」「人権」という普遍的(と思いこんでいる)な正しさを固持している場合には、そこにあるのは、現地の人との対話や共同作業を標榜しているばあいでも、それは対話ではなく、最初から問答無用(正解がすでにあるのですから)の啓蒙にすぎません。

 「外部からの要素を範列的に臨機応変に選んだことによる変化」には、女子割礼の「医療化」という変化も含まれます。クリアのような田舎でも、クリニックで看護師が施術したり、伝統的な割礼師が行う場合でも、使い捨ての安全カミソリやアルコール消毒、止血剤を使うなどの「医療化」が見られました。HIV感染を防ぐためという理由で医療化が急速に進んでいるのですが、娘たちが割礼によってそのあと病気で苦しむことを望むものは誰もいないわけで、医療化は自分たちの生活のために選択されていると言ってもいいでしょう。
 けれども、多くのFGM廃絶運動やWHOは、この「医療化」に反対しています。確かに、医師が女性器切除の手術を行うような医療化の場合、病気でもないのにメスを入れることに「医療倫理」の面から問題とされるでしょう。しかし、FGM廃絶論者が反対する理由は、医療化やクリトリスの包皮をきるといった「穏やかな女子割礼」という変化が、かえって女子割礼を温存してしまうということにあります。
 ある意味で、FGM廃絶論者にとって、女子割礼の医療化や「穏やかな施術」への変化は悩ましい問題です。FGM廃絶の理由の一つが、「非衛生的に行われ、感染症など女性の身体に重大な支障を与える」というものでしたが、これが「医療化」によって取り除かれてしまいます。そのことは、施術を受ける女性たちにとって、もちろん好ましいことですが、廃絶を訴える運動としてはアピールする根拠の一つが失われるという点が悩ましいわけです。そうなると、もうひとつのFGM廃絶の主な理由である、「女性から性的快感を奪う性差別的なものである」*2ということを訴える一方で、女子割礼の廃絶を遅らせるだけの「医療化」に反対するということになります*3

 私の立場は、「伝統だから(あるいは人々がやっていることだから)存続せよ」と主張することも(前にも書きましたように、伝統だから存続させよと主張する人類学者はほとんどいないでしょう)、「人権侵害だから(あるいは野蛮だから)廃絶せよ」と主張することも、ともに生活の場を超えた視点からの「客体化」によるものだから、やめて、そこで生活している人々の、生活の場での「範列的操作」*4による選択を重視するというものです。たとえば、クリアに見られるような生活の場での「医療化」は、生活の都合による「範列的選択」の結果ですから、むしろ支援したほうが、同じく「範列的選択」による廃絶を促すことになります。
 エジプトの都市部などで、医師による女子割礼の医療化が進んでいますが、そこでは医師が「これは伝統だから続けるべきであり、清潔で安全なやり方で行うことを広めるべきだ」と、女子割礼の医療化を正当化しています。このような主張は、生活の場を超越した視点からの「客体化」による主張です。そこでは、割礼すること自体が目的化してしまっています。
 けれども、そのような客体化を招いたのは、FGM廃絶論の側の「客体化」であることに留意する必要があります。客体化が客体化を招き、かえって女子割礼が存続してしまうのだから、その両方の「客体化」を生活の場の「範列的操作」へと戻すこと、それが「客体化」による対立を乗りこえる唯一の道だというのが、前々回のエントリーの提案でした。
 このような「客体化」から「範列的操作」という転換は、同じく生活の場を無視した超越的な視点からの、双方の「客体化」が招いている宗教紛争を乗りこえるためにも有効であると思っていますが、それはまた次回にでも論じたいと思います。

*1:ちなみに、「アフリカ 女子割礼」で検索すると20位以内、Googleブログ検索だと「女子割礼」の検索でトップ10に入っています。Googleに入らないのはCIAの陰謀に違いありません。追記:と書いた翌日の10月11日には、Googleでの「女子割礼」の検索で、前々回のエントリーがトップ10入りしていました。検索エンジンってどうなっているのやら。やはり、CIAが「ばれたか」ということで妨害をやめたとしか考えられません。また、不思議なことに、「アフリカ 女子割礼」のほうは圏外に落ちてしまいました。

*2:この理由も、クリトリスの包皮を切るだけの「穏やかな施術」によって軽減されていますし、またそれが「性器中心主義」的な主張(C派もそれに対する反動であるV派も、また男性の性的快感がペニスだけという主張も含まれます)であるという点で問題をはらんでいますが、ここでは「医療化」についてだけ取り上げます。

*3:他に、「苦痛を与えること自体が虐待」という理由もあるでしょうが、これも「医療化」と「穏やかな施術」に変化していることで、男子割礼なみになっていることを考えると、女子割礼だけを廃絶する理由としては弱くなっています。もちろん、「穏やかな施術」とはいえ、かなり「痛い」わけで、クリアで女子割礼がなくなっていっている大きな理由が「痛いからいやだ」というまっとうな理由です。ただ、それは、外部から「介入」する根拠としては弱くなくなります。成人式などの通過儀礼には、割礼以外にもさまざまな「身体加工」や「試練」はつきもので、それらはたいてい「痛い」ものだからです。追記:もっといえば、「無痛文明」の現代にあって忘れられがちな、「これらの苦痛がなんのために必要だったのか」という問いを考えなくてはならないでしょう。そして、割礼が割礼自体を目的としていたのではなく(たとえば「伝統」として全体化することも、「性的快感を減少させる」ことも「割礼」自体を切り離してしまっています)、あくまで隠喩的な「死=社会からの追放」を経験する儀礼であったことも。

*4:松田素二さんの用語で、相互に矛盾さえするイディオムの雑多なストックの中から、生活の便宜に応じて臨機応変に選択するような、定式化・固定化されないような生活知による無意識の操作を指しています。