「異質性」や「多様性」って何だろう?

 昔に読んだエッセイか何かで(誰がどこに書いたものなのか完全に忘れましたが)、「日本の街角で群集を見ると、みんな同じ黒い髪をしているので不気味に感じる。外国ではいろんな髪の色をした人たちが街を歩いているのに」といった趣旨のことが書いてありました(うろ覚えなので、これとはずいぶん違った言葉遣いだったかもしれません)。まあ、自分の知っている外国を引き合いに出して、「日本の常識は世界の非常識」と驚かせようとしている類のもので、日本社会は同質的で抑圧的だといったことが言いたい文章だったのでしょう。この外国って、ニューヨークあたりなのでしょう。でもこれだとアフリカやアジアやイタリアやギリシアを含めた地中海世界の社会とか、世界のほとんどの社会はみんな同質的な社会になってしまいますね*1。これを書いた人も、いまでは日本の街角もいろんな色に染めた髪の人が歩いていて、不気味に感じなくなったのは良かったと思いますが。
 「多様性を抑圧することなく、異質な価値観をもった他者と共存しうる社会が必要だ」といったような、「多様性」とか「異質性」とか「他者」について書いている文章を読んでいると、このエッセイのことを思い出すことがあります。そして、書いている人がいったいどんな「多様性」や「異質性」や「他者」を想定しているのだろうかと思うのです。もしかしたら「髪の色」のように違う人種や違う文化をもつ「他者」を想定しているのかもしれませんが、そうだと人種や文化が違えば異質な価値観をもつという文化的本質主義になってしまいます。あるいは、音楽の趣味やブランドの趣味が違うといったことを、価値観の異質な他者と言っているのかも知れませんが*2、しかし、その場合は、そのような他者と共存しうる社会が必要だとは言わないでしょうね。すでに共存しているわけですから。
 あるいは、社会や公共圏は価値観の異質な他者との「対話」からなるべきだという人も多いことを考えると、ここでの「共存」とは、差異や異質性を顕わにするような「対話」を行うことを含んでいるのかもしれません。異質な他者との「対話」が新しい公共的な価値を創りだすというわけです。しかし、「異質な価値観」という差異を顕わにするような「対話」は、ふつうは避けるものでしょう。音楽の趣味や政党の支持が異なっていれば、その話題をできるだけ避けるのが「大人」というものです。議論などをせずに隣にいることができるような親密圏や共同体や日常性とはそのような配慮でなりたちます。つまり、差異や異質性を前面に出して討論することによってなりたつような「公共性」のほうが、社会の中では特殊な状況、特殊な空間なのです。
もちろん、「異質性」や「差異」を隠したり抑圧したりすることが良いと言っているわけではありません。異質性や差異を顕在化させるような討論においてむしろその異質性や差異が固定されてしまうことはよく経験することです。そのような討論によって新しい価値が創られることもほとんどないといっていいでしょう*3。それに対して、互いに言質をとったりすることのない、互いに配慮しあう親密圏においてこそ、人は別の考えかた、ふだんの自分の考えや他の人と異なる考えをできるのではないでしょうか。つまり、新しい価値観や状況に応じた創造的思想は、他の人が言質をとることがないという「信頼」があって生まれたり表明したりできるものなのです。そして、そのような「信頼」は、「差異」からなる討論や公共圏でつくられるものではなく、黙って隣にいることができるような「配慮」からなる親密圏や共同体で培われるのです。
このように考えると、親密圏や共同体において、言挙げなどせずに黙って隣にいることというのは、よく言われるように互いに同質的だからそのようにできるということなのではなく、その間柄において日々創られていく異質性に耐えて、それを育むための「配慮」としてなされるのだと言ったほうがいいでしょう。そのことは、そのような「信頼」を培うための配慮がない公共圏や空間では、自分が異質な価値に出会って変ることができるようなこともなく、自己の選択に固執して言質を互いにとりあうような対話しかできないということを意味します。つまり、まともに機能する公共圏を創出するためには、共同体や親密圏と対立し、そこから離れたものとして捉えるのではなく、共同体や親密圏の支えなしには機能しないものとして捉える必要があるということなのでしょう。

*1:アメリカの常識は世界の非常識」であることが最も多いような気がしますが。

*2:市場社会での商品の選択の際の「好み」の違いを「異質な価値観」と呼ぶこと自体を否定する人もいるでしょうが、しかし、現代社会の価値の多様性とは(政治的選択も含めて)おしなべて市場に用意された商品を選択するときの好みの違いとなっています。それに、音楽やファッションの趣味の違いは、それこそ「話したくもない他者」として現れるのではないでしょうか。

*3:しかも、異質な他者との「対話」と言いながら、「原理主義者とは対話できない」などと、勝手に相手を絶対的に「他者化」して排除することもあります。それに対して、〈顔〉のある関係や親密圏でなら「原理主義者」とも対話はいくらでもできます(そこでは話の合うことを話すという「配慮」がありますし、そこではずっと「原理主義者」でいるわけでもないからです)。