加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を読む

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』日本放送出版協会NHKブックス)、2007年9月刊。
Isbn:9784140910948 C1312

 加藤秀一さんが以前、井上達夫さんの「胎児の生命権」を尊重せよという議論を批判した「女性の自己決定権の擁護」*1という論文を読んだときには、正直に言って、本書で展開しているような議論へとつながっていくとは想像していませんでした。加藤さんがその後も知的探究を続けて、新たな地平を切り拓いていっていることに、素直に敬意を表したいと思います。
本書で、加藤さんは、「生命」や「人格」といった抽象的な概念を主語にしてしまう生命倫理を批判して、倫理にとって大事なのは「生命」などではなく、呼びかけることで現れる〈誰か〉――関係性の中で現れる交換不可能で比較不可能な単独性をもった〈誰か〉――がいるという事実を守ることだと述べています。

……私がいいたいのは、私たちが人の生死をめぐって倫理を問う場面では、「生命」という観念は本質的な意義をもたないということだ。倫理の問いは「生命」の問いではない。それは〈誰かが生きている〉、〈誰かがいる〉という事実をめぐる問いでなければならない。
 たとえ生命があっても、それが私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉でないのなら、そもそも倫理の問いが立ち上がることさえないだろう。[43-44頁]

 倫理的配慮を受けるに値する〈誰かがいる〉という事実にとって、その呼びかけの対象たりうる〈誰か〉に「生命」や「人格」があるかどうかは問題にならないという、加藤さんの主張は、見かけ以上にラディカルなものです。加藤さんは、鉄腕アトムの例を出していますが、ここではもっとラディカルさが際立つ例を挙げてみましょう。アメリカの文化記号学者のジャック・ソロモンは、自分たち夫婦が、サンディエゴの動物園のギフトコーナーで買った犬のぬいぐるみのウーフィーを家族の一員としていると言っています*2。ソロモン夫妻にとって、ぬいぐるみ犬のウーフィーはまぎれもなく〈誰か〉として生きています。ウーフィーに話しかければ、ウーフィーはそれに応えるし、ウーフィーの話を「聞く」こともできるからです。おそらく、ウーフィーが誰かに切り刻まれることは、家族の一員に対するものと同等の苦悩となります。つまり、そのぬいぐるみ犬は、倫理的配慮を受けるに値する、代替不可能な(交換不可能で比較不可能な)〈誰か〉となるのです。この〈誰か〉は「単独者」ないしは「唯一無二の個」と言い換えてもいいでしょう。
 もちろん、ぬいぐるみ犬は生命倫理の対象とはなりません。そこには「生命」も「人格」もないからです。生命倫理の対象となるのは、植物状態脳死状態の人や、胎児や受精卵です。脳死体を利用した臓器移植や胎児の中絶という事態に際して、どこからそしてどこまでが倫理的配慮をすべき人なのか、という「線引き」が問題とされるわけです。加藤さんは、そのような「線引き」の議論の代表として、マイケル・トゥーリーやピーター・シンガーらのいわゆる「パーソン論」を挙げて批判しています。もともとパーソン論は、中絶や脳死状態からの臓器移植のための臓器摘出という具体的な問題を、実践的・プラグマティックに解決するための議論でした。パーソン論では、同じ生物学的なヒト(ホモサピエンス)のうち、「生存する権利」を持っている者を「パーソン」とし、「パーソンであること」を、持続的な自己意識や理性的判断能力や大脳新皮質の働きなどの有無によって規定していくというものです。パーソン論批判は、ふつう、パーソンであることと生存する権利とを結び付けることを批判してきました*3。けれども、加藤さんの批判は、ぬいぐるみ犬のウーフィーの例を考えても分かるように(もちろんこの例は加藤さんの例ではありませんが)、生存権や生命権という考え方、そしてその基底にある「生命」という観念そのものにも向けられていきます。つまり、倫理的配慮を受けるに値する〈誰か〉であることは、自己意識や理性や大脳新皮質といった比較可能な属性・能力はもちろん、生命という属性・能力の有無とも関係がないということになるのですから。「パーソンであること」も「生命があること」も、その基準をどのように決めようと比較可能で交換可能な属性です。比較可能で交換可能でなければそもそも「線引き」の基準たりえません。そのようにプラグマティックに決めた比較可能な「パーソンであること=生命権をもつこと」と、加藤さんのいう「倫理的配慮を受けるに値すること」は、パーソンでもなく生命もないぬいぐるみ犬のウーフィーが(同じぬいぐるみがたくさん作られているにもかかわらず)比較不可能で交換不可能な〈誰か〉である(生命はないけれども、したがって生命権も認められないけれども、〈誰か〉として生きている)という事実からも明らかなように、まったく別のことなのです。
 となると、パーソン論に代表される生命倫理と、加藤さんのいう「私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉」であることを基礎とする倫理とは、最初から議論がすれ違っているともいえます。生命倫理パーソン論が、「生存する権利をもつパーソン」を実践的に決めるための「線引き」をしようとするのに対して、加藤さんは、倫理的配慮を受けるに値する、呼びかけの対象たる〈誰か〉がいるという事実から倫理というものを考えようとしているのですから。加藤さんのいう倫理によっては、パーソン論が行なおうとしている、中絶や臓器移植のための脳死判定という実際的な問題における「線引き」などできないからです。もちろん、加藤さんは、実際に線引きをすること自体に反対しているわけではありません。また、生命倫理において「呼びかける関係」だけから考えることが、「他者から好まれた者だけが生きる価値が認められる」といった結論を招きかねないことに注意を払っています(65頁)。加藤さんは、次のように言います。

したがって私たちは、胎児が〈誰か〉であるともないともいえない〈両義的存在者〉であるというアンチノミーを肯定したうえで、関係者(妊婦・胎児・精子を提供した男性なとど)の利害をできるかぎり妥当なやり方で調整するというプラグマティックな態度をとるべきである。その際、唯一ではなくとも最大の考慮を払われるべきなのは、 妊娠という出来事の当事者であり、胎児に最も近しい者である女性(妊婦)自身の権利である……。(75-76頁)

つまり、加藤さんもプラグマティックな線引きを認めているわけです。けれども、その線引きが、呼びかけうる関係性の中で現れる交換不可能で比較不可能な単独性をもった〈誰か〉がそこにいるという個別的事実から切り離された、客観的で普遍的な属性や能力によって一義的になされることを批判しているわけです*4。つまり、呼びかけの対象たりうる〈誰か〉がいるという事実に基礎を置く「倫理」を無視した生命倫理の線引きの議論は危ういし、持続的な関係性のなかで生まれる、交換不可能で比較不可能な〈唯一無二の個〉を、「生命」や「人格」といった交換可能で置き換え可能なものにしてしまう議論であるという点が、パーソン論批判の最大のポイントだといえるでしょう。加藤さんも、結論部にあたる第4章で、アーレントの議論を紹介しながら、次のように言っています。

そのように平板な「生命」を共通の本質として与えられた人間たちは、同時にその共通の尺度によって序列化され、「価値」づけられる存在となる。置き換え不能な単独者たる〈個〉ではなく、比較可能な項目に成り下がるのである。(203頁)

 呼びかけることで現れる交換不可能で比較不可能な単独性をもった〈誰か〉がいるという事実から始まる「倫理」は、真正性の水準における〈顔〉のある関係から生活実践を捕らえようとする人類学に近いといえます。それは、生命倫理の議論による法制度などの非真正性の水準を否定するわけではありませんが、それらの非真正性の水準における法制度やシステムが真正性の水準に基礎を置かないことの危うさを批判するものとなります。加藤さんの「倫理学」は、ご本人も言っているように、まだ粗描の段階でしょうが、「倫理としての人類学」を目指そうと本気で(?)思っている私には役に立つ議論でした。
最後に、疑問点を述べておけば、加藤さんは、「胎児とユダヤ人との間の差異は自明ではない」として、胎児の大量虐殺を非難する井上達夫さんの議論への返答として、

ユダヤ人の殺害に手を下したナチス党員でさえも、ユダヤ人を単なる物件とみなしたわけではない。そうであれば大量虐殺など考えはしなかったろう。むしろユダヤ人を〈誰か〉すなわち人称的存在者と認めたからこそ、そしてそれにもかかわらずかれらを自分たちと同じ「人間」(人種という意味での)とは認めなかったからこそ、ナチス党員たちはかれらに憎悪と暴力を向けることができたのである。(66-7頁)

と述べています。しかし、ナチス党員がユダヤ人を置換不可能な単独者としての〈誰か〉と認めたからこそ、それは殺人であり、胎児はそのよう〈誰か〉として認めていないから殺人ではないという議論は、呼びかけることで現れる交換不可能で比較不可能な単独性をもった〈誰か〉がいるという事実から始まる「倫理」からは間違った議論となるでしょう。殺人か殺人でないかという「線引き」は、〈誰か〉がいるという事実に基礎をおく倫理とは別の水準にある別のことであり、生命倫理における線引きと同じ非真正性の(法制度の)水準にあるものです。アイヒマンのようなナチス党員は、ユダヤ人を〈誰か〉と認めていなかったからこそ、置き換え可能で交換可能な「人種」という属性によってかれらの生存を否定できたのでしょう。つまり、〈顔〉のある〈誰か〉として認めなかったから殺人が可能となったというべきでしょう。だからこそ、〈誰か〉がいるという事実に基礎をおく倫理は、そのような人種主義的な憎悪と暴力に抗するものとなるのです。
 ついでに言えば、加藤さんは、出生前検査を受けるか否か、その結果を受けて中絶するか否かという判断は、「民族的背景や社会階層」の違いによって大きく異なるという人類学者のラップの議論を紹介しながら、「自己決定権」といった基本概念のもつ意味も文化によって一義的ではないと指摘し、

「自己決定権」は一方では当事者の意志の尊重という肯定性を発揮するが、別の人々にとっては不安のなかに打ち捨てられることでしかないかもしれない。望ましい決定のあり方は、当事者の担う文化によって根本的に異なるのである。(25頁)

と述べています。この文化への注目は、加藤さんのいう倫理にとっても重要となるでしょう。固定された「文化」とは異なる、生活実践を支える持続的なストックとしての文化こそが、呼応関係を持続的なものにするのであり、そのような文化の持続こそが「他者から好まれた者だけが倫理的配慮を受ける」という「関係主義」の危うさを救うのだということを指摘しておきたいと思います。

*1:江原由美子編『生殖技術とジェンダー勁草書房

*2:アメリカの素顔』丸善ライブラリー、1992年

*3:結び付けられるのはもちろん、どこから生存権(生命権)をもつ人(パーソン)なのか、どの程度まで生存権(生命権)を認めるのかを決めるための理論だからであり、それによって、たとえば胎児はパーソンではないので、人工妊娠中絶が正当化されるのですが

*4:加藤さんはここで「利害の調整」や「権利」という言葉を使っていますが、胎児よりも妊婦の「利害」や「権利」を尊重すべきだというより、妊婦にとっても胎児はよほど大きくならないと呼びかけうる対象とはならず、倫理的配慮をするに値する〈誰か〉になっていないことが多いからだと言った方が議論はすっきりするように思います。また、脳死状態の人を胎児と同列に扱えないのも、その人がそれまでの持続的な関係性によって〈誰か〉となっており、たとえラザロ現象など起きなくても、まだ呼びかけに応えうる〈誰か〉でありつづけているからだといえます。