若い世代のレヴィ=ストロース

 河出書房新社から『道の手帖 中島敦』が送られてきました。河出の編集者に知り合いはいないので「はて?」と思って開けると、松本潤一郎さんからの献本のようです。松本さんとも面識がないので、二度目の「はて?」。
 謎を解くべく掲載されていた松本さんの「トロピカル・ダンディ?――動物・近親性交・聲・文字・自死・食人儀礼」と題された論文を読みました。中島敦の「文学」をレヴィ=ストロースインセスト(近親性交)論から浮かび上がらせるというもので、文学論として評価する能力は私にはありませんが、レヴィ=ストロース論として面白く読めました。けれども、知り合いである出口顕さんや渡辺公三さんの論考は参照されていましたが、私の書いたものを参照したりしているわけではないので、そこで三度目の「はて?」となるところですが、つぎのようなことばを注で見つけたときに、勝手に、疑問を解消させました。それは、

ついでに述べておく。一般に流布した見解とは逆に、レヴィ-ストロースの思考は、かくして、きわめて不穏である。彼を、静的構造をいたるところに探して廻る「だけ」の「構造主義者」と考える連中はどうかしている。逆に彼は既存の分類(法)を壊乱する出来事(近親性交)をいたるところに見出してゆく。構造と出来事は対立しない。……
(「トロピカル・ダンディ?」72頁)

ということばです。これを読んで、松本さんはこの部分を読ませたかったので贈ってくれたのかなと解釈したくなったというわけです*1
 20年以上も前から、私もレヴィ=ストロースの「構造」を静態的とか均衡的と考える連中はどうかしていると思っていましたし、そうも書いてきました。レヴィ=ストロースのいう「交換」は均衡とは無縁のものです。ただ、同時代的には、浅田彰さんとかの影響もあって、レヴィ=ストロースの構造はそのように捉えられがちでした。ひどいことに、E・リーチやR・ジラールのほうを動態的で不均衡を視野に入れていると評価されていました。たんにそう評価する連中の頭の中に「交換は均衡をとるためのもの」という偏見があったせいなのですが。
 若い世代の研究者のなかに、松本さんのような、それとは違ったレヴィ=ストロースの捉えかたをする人が出てきたことはとても心強いことです。
 さて、松本さんにお礼をしなければならないところですが、連絡先がわからないことを口実にブログにお礼を書いておきます(読んでくれてはいないでしょうが)。礼状を河出書房新社気付で出せばいいだけの話なのですが、そういうことをするのがどうも苦手で(おとなとしてどうなのかと自分でも思いますが)。

*1:たぶん、そんなことを思って贈ってくれたわけではなく、レヴィ=ストロース論を書いたことのある人類学者に送ったというだけで、この私の妄想は違っているのでしょうけれども。

景気対策とは別に必要なこと

 報告書用の論文の原稿が一息ついたので(とは言っても書き終えたのではなく、締切を1か月伸ばしてもらっただけですが*1)、久々に2日連続のエントリーを。
 政府や政治家の景気対策や雇用対策はどうも変な方向に行きがちになってきました。政府のほうはといえば、定額給付金も額が小さい上に、どうしても3年後の消費税増税とセットにしないと気が済まないようです。定額給付金はいわゆる「埋蔵金」を充てるのですから、増税と一緒に言わなくてもいいはずなのですがね。増税と一緒にアナウンスすれば、ただでさえ額が小さくて少ない効果がゼロになるという理屈は誰でもわかるはずですが。麻生総理は増税の計画は責任ある政権与党の「矜持」だと言っているようですが、そんな自分たちのプライドよりも、不況対策のほうが大事だということも分からなくなっているようです。
 それに、どうしても政権与党の矜持とやらを示したいというならば、増税(しかも消費税の増税より、相続税や高額所得者の所得税増税でしょう)とセットにすべきは、将来の社会保障のグランドプランとでしょう。福祉目的税としての消費税増税と言っていても、肝心の福祉のグランドプランなしに言っても、みんな将来の不安に備えて貯蓄しようと思うだけですからね。
 重要なのは、緊急の不況対策と、長期的に社会をどうするのかというグランドプランの両方がそろってはじめて、将来への不安なしに安心して消費できるようになって、本当の経済対策になるということ、そしてその2つをごちゃまぜにしないで議論するということでしょう。
 不況対策としては、財政出動と金融政策の2つしかないわけで、それこそ政府と日銀はプライドを捨てて、バラマキと言われようと給付金でも公共事業でもリフレ政策でも打ち出す必要があります。今回のように深刻な不況の時はとりわけ財政政策が大事であるというのは、多くの経済学者がケインズ主義者に戻っていることからもわかります。ところが、日本ではまだ「構造改革」のときの間違った刷り込みがマス・メディアに生き残っているせいか、バラマキ批判だの財政の健全化はどうしたという意見が出てきてしまっています。たしかに、緊急の政策は対処療法にすぎませんが、患者を救うのに対処療法を否定する医者はいないでしょう。しかし、右翼・左翼の両方の革新派(改革派)に共通した誤りとして、自分たちのグランドプラン実現のチャンスを優先させてしまい、対処療法は一時的で根本的には効果がないだとか、欠陥ある制度を延命させるだけだからといって否定してしまう傾向があります。その結果、悲惨な人びとを救うための革命なのに、悲惨さが蔓延して革命が近づくのを願うという本末転倒と同じことが起きてしまいます*2
 他方、経済学者はよく景気対策こそ最も効果的な雇用対策だといいます。これは緊急の対策としてはその通りです。しかし、それもまた対処療法であり、それだけでは同じことの繰り返しになることを忘れているようです。たしかに景気が回復すれば雇用問題も解決するでしょうから、対処療法ではないように思えますが、うまく軽いバブルを発生させて景気が回復したとしても、またバブルが崩壊して不況になったときに、失業が増えるということの繰り返しでは根本的な解決とは言い難いでしょう。というのも、その循環が繰り返せば繰り返すほど、失業や賃金低下に対する人びとの記憶と不安は持続し、将来の不確実性に備えて消費を控えることになり、だんだん回復は難しくなりますし、なによりも一時的とはいえ失業するという経験は、労働倫理と自己責任論が強く残っている現段階では、その人の人生に負のスティグマを刻印してしまいます。失業保険でなんとか暮らして景気回復すれば元に戻るというわけにはいかないということです*3
 資本主義には欠陥があります。それはマルクス主義者だけではなく、主流の経済学者の多くも認めてきたことでしょう。欠陥のある乗り物にみんなで乗っているわけで、いわば現在の状況は、走っている最中にその欠陥からくる故障が発生したとき、まずその故障個所をなんとか応急修理をして、乗っているみんなが助かるようにしなければならないでしょう。かといって応急修理をしてなんとか無事操縦できるようになったからといって、応急修理だけでそのまま走り続けるというのも、同じように乱暴な意見です。
 緊急の景気対策とは別に、長期的なグランドプランとしては、ベーシック・インカムワークシェアリングという社会のあり方が経済的にも最も良いものでしょう。新資本主義(金融資本主義とか株主資本主義とか強欲資本主義とか呼ばれていますが)ないしはネオリベラリズム的政策の最も大きな経済的な欠陥は、「ノー・ロングターム」というモットーにあらわされているように、短期の利益と流動性だけを追求して、長期的な戦略(人本主義など)や将来の展望といったものを不可能にしてしまったことにあります。いま経済的に求められているのは人びとの将来への「安心」ですが、構造改革は流動化からくる「不安」と「不安定さ」だけを強くしてしまったというわけです。
 しかし、かといって流動性をすべてなくすこともできないでしょう。ベーシック・インカムの利点は、一方で流動性をすべてなくすことなく他方で恒常性や安定性を確保できることにあります*4ベーシック・インカムによる生活の「安心」があってはじめて、「賭け」に似た新しい事業もしやすくなりますし、逆に不採算となっている農林業や漁業を持続可能にもします。しかし、それは実現まである程度準備の時間がかかりますから、緊急の対処療法にはならないでしょう。ですから、まず対処療法を大胆におこなって、負のスティグマを負う人をできるだけ少なくすることが必要です。緊急の対策としてワークシェアリングをという人もいますが、グランドプランなしにワークシェアリングだけしても、みんなの賃金が減ることにより、消費も減るし、それによってますます労働時間が減るというスパイラルに陥り、多くの人が不確実な将来を抱えるということになってしまいます。ワークシェアリングベーシック・インカムと合わさってはじめて有効に機能するといってもいいと思います。
 そして、緊急の対処療法自体は、長期のグランドプランと整合性がある必要はありません。対処療法と根本的な療法が矛盾することはよくあります。大事なのはその2つは別のものだとしながら、対処療法をしているあいだに、次のグランドプランを検討することです。それこそ政治に求められていることなのですが、麻生政権はもちろん、民主党にも、そして改革主義者でしかない渡辺善美さんや中川秀直さんにも期待できないことで、そう考えると、暗くなってしまいます。ただ、ベーシック・インカムへの賛同者は(政治家にはまだほとんどいないようですが)確実に増えているようなのが唯一の希望でしょう。

*1:みんな忙しく半分の人が書いていない状況らしい。ありがたいのは困った時のこういう団結(?)ですね。

*2:植民地研究でも、初期抵抗が鎮圧された後、抑圧的状況をなんとか生き抜くための植民地政府との交渉や日常的抵抗などについて、そこに主体性を見ることなしに、植民地支配を延命する利敵行為だとか反動的とか評価された時期が長く続きました。

*3:1回の失業で野宿者になる場合少なくないのも、社会から刻印されるそのようなスティグマが本人のなかに残るからでしょう。ですから、経済学的には公共事業での一時的な雇用も失業保険も同じことだと言っても、その本人にとっては同じではなく、社会学的にも違ってきます。

*4:それを一言でいえば、社会の二重性を保つことのできる制度だということです。社会の二重性という視点は、レヴィ=ストロースによる非真正な社会と真正な社会という議論の他に、ハーバーマスによるシステムと生活世界の二重性などの議論がありますが、ハーバーマスの議論では結局システムによる生活世界の植民地化を阻止して二重性を維持するすべはないことになってしまいます。前回のエントリーで、私は「保守・左翼・反ナショナリスト」だと言いましたが、そのような一見不可能にみえる立場が可能なのも、この社会の二重性という視点によっています。つまり、ベーシック・インカムの導入を、というシステムの改革を謳うことがどうして「保守」なんだといえば、その改革にもかかわらず生活世界の恒常性と安心は確保できるからです。

子どもに左翼になってほしいと願うこと

 2009年最初のエントリーは、心に残っている言葉を紹介したいと思います。発言者は、アメリカの哲学者リチャード・ローティです。どんどんナショナリストになりつつあるローティの書いていることには批判的になることが多いのですが、つぎの言葉は腑に落ちます。

 デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手をよごしてトイレを掃除してくれる人びとの十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人びとの百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、わたしたちの子供を育てるべきである。最初に産業化した国々が、まだしていない国々の百倍の富を有しているという事実について、子供たちが確実に憂慮するようにすべきである。子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちの運命との不平等を、神の意志だとか、経済効率のために必要な代価とかでなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ必要がある。子供たちは、一方で飢えている人がいるのに、他方で過食の人がいるという事態を確実になくすためには、世界がどのように変わればよいのかについて、できるだけ早い時期に考え始めるべきである。[リチャード・ローティ『リベラル・ユートピアという希望』岩波書店、2002年、263頁]

 要するに、ローティは、子どもたちが「左翼」になるように育てるべきだと言っているわけです。前にもこのブログに書いたように、伝統的な意味での「左翼」というのは再分配による平等を重視する立場であり、「右翼」というのは再分配を否定して不平等を容認する立場です*1。左翼と右翼の違いは、ローティの言葉と、以前紹介した経済学者スティーブン・ランズバーグの言葉と対比させると明確になります。それをもういちど引用しておけば、

 本気で信じるには、所得再配分はあまりにもおかしな話なのだ。
 なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私にはなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。
 もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。[スティーブン・ランズバーグ『フェアプレイの経済学』ダイヤモンド社、1998年、11頁)

 私には、子どもたちに、再分配は泥棒と同じだと考えるランズバーグのような右翼ではなく、ローティのように、左翼になってほしいと願うことはとてもまともなことのように思えます(それは私が「左翼」だからでもあるのですが)。話はそれますが、佐伯敬思さんの『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)を題名に惹かれてパラパラ立ち読みしたら、「保守」と「左翼」とを対比させながら、「親米保守」は改革を謳っているので真の「保守」ではないということが述べられていました。それはそうでしょうが、保守と対立するのは革新であり、左翼に対立するのは右翼です。そして、ナショナリズムは(日本では右翼とされますが)、その2つの対立軸とはまた別のものです。私の立場は、人類学をしているせいもあってか、「保守」で「左翼」で「反ナショナリスト」です。自分では、それが一番まっとうだと思っているのですが。ちなみにこの3つの対立軸を使えば、ローティは「革新・左翼・ナショナリスト」、佐伯さんは「保守・右翼・ナショナリスト」、ネオリベラリスト(佐伯さんのいう「親米保守」)は、「革新・右翼・ナショナリスト*2、佐伯さんのいう「サヨク」は「革新・左翼・反ナショナリスト」ということになるでしょうか。他に「保守・右翼・反ナショナリスト」としては、ネイションよりパトリを(でも自分のパトリ以外では不平等でかまわない)という愛郷主義者がいます。可能性としては、あと2つ、「保守・左翼・ナショナリスト」と「革新・右翼・反ナショナリスト」が考えられますが、現実にはあまりいないようです。
 閑話休題。もちろん、上のローティの言葉にいろいろ突っ込むことも可能です。実際にローティがトイレ掃除をしている人の十倍の報酬をもらっていて余裕があるからそんなことがいえるのだとかね(ローティがどれだけの報酬を得ているのかは知りませんが)。しかし、自分の子どもたちに、十分の一の報酬しかもらえない立場になることを願うことはふつうしないでしょう。けれども、たとえそのような恵まれた立場になっても(それは親の願いとして当然です)、そのような不平等に憂慮する子供たちが増えることは、不幸にも子供たちが恵まれない立場になったときにも、その不平等をなくしていくことにつながるわけですから、合理的ではあります。
 しかし、子供たちに左翼になってほしいと願うことをまともだと感じる人たちが減っていることも確かでしょう。バーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』(東洋経済新報社、2006年)は、コラムニストでもある著者が実際にいろいろな低賃金労働者となってアメリカのワーキング・プアの実態を描いた、いわば人類学的な手法によるルポルタージュですが、この本で印象的なのは、ホワイトカラーの中産階級の人々が同じオフィスなど身近で働く低賃金労働者に対して、ほとんどそこにいない人のように扱うというものでした。この無関心は、「十倍の報酬をもらっているということに耐えられない」という事態を回避するためのものというより、エーレンライクによれば、そもそも同じ人間として見ていないことからきているようでした。
 ところで、年末から正月にかけての「派遣村」に対するウェブ上での「反発」は、論評している人の多くが推測しているように、十倍も百倍も報酬がある人たちによるのではないのでしょう。そのような「余裕のある人々」が無関心となっている一方で、余裕のない人たちは、無関心ではいられず、「反発」という反応を示すことで、「あなたとは違うんです」ということを自分に言い聞かせなければならないのかもしれません。
 私は、無関心よりも反発のほうが反応しているだけましと思っていますが(その反応は、社会の「装置」さえ変われば、強い連帯に変わりうるものだからです)、いずれにしろ、いまのところ、ローティが言うような、「子どもたちを左翼に育てなければならない」という願いは他の多くの人のものになっていないようですが、それをまともだと思う人はこれから多くなるような気がします。多くの人が無関心でいられなくなったことはその第一歩であるはずですから。

*1:ローティは、同時に、マイノリティの文化的な権利を主張する「文化左翼」に対しては、マジョリティの中にいまだにある経済的不平等や存在論的不安から目を背けてしまい、ネオリベラリズムに利することになっていると批判しているのですが。その意味ではローティは伝統的な左翼だといえるでしょう。

*2:この「革新・右翼・ナショナリスト」はナチズムの立場でもあります。ネオリベラリズムとナチズムの主張内容が同じということではありませんが、この3つの対立軸で整理すると親和性がみられるということです。

2008年「今年の5冊」

 年の瀬もいよいよ押し詰まりましたが、12月末締切りの原稿がまだ2つ溜まってしまっています。毎年のように「年末締切」の原稿があり、年々増えていきます。これはひとえに「オーディット・カルチャー」のせいです。学振(科研費)や共同利用機関や大学の共同研究プロジェクト等の成果報告書を年度内に出すために年内締切りとなるわけです。補助金をもらっている以上、成果報告論集を出すのは当然ということになっていますが、本当の意味での研究成果はそう簡単に出るわけはなく、時間が必要なのですが、細切れの成果報告書を書く時間のために消化・熟成する時間がなくなってしまうということになりかねません。と、愚痴を言っていても仕方ないので、本題に。
 さて、年末になったので、非恒例の「今年の5冊」を発表します*1。今年出版された本で私が読んだものの中から、印象に残った本を5冊選んでみました。
今年も本の購入金額は300万円くらいになっているだろうし(これも個人研究費の図書費以外の私費購入分は計算していませんが)、そのうち今年出た新刊が3分の1ほどだとしても、500冊くらいにはなっているでしょう。500冊からの5冊というと、けっこう信頼性が高いと思われると困るので急いで付け加えると、そのうち読んでいるものはたぶん200冊ほどで、最後まで読んだのはその半分くらいかな(もちろん数えたりしていませんからそんな感じってことです。だんだん信頼性がなくなってきましたが)。
 また、対象となる範囲ですが、このブログの読書ノートでも、自分の専門である文化人類学の本や学術的な専門書、そして洋書は、評が専門的になりすぎるという理由で外していますので、この「今年の5冊」からも外しました。何を読んだかという記録もつけていないので、忘れて落ちてしまっているのもあると思います。そうなると何冊のなかから選んでいるんだって話になりますが、まあ10冊のうちの5冊ってことはないと思います。
なお、「今年の5冊」が恒例になる保証はまったくありません。

2008年の「今年の5冊」

1.ジグムント・バウマン『新しい貧困――労働、消費主義、ニュープア伊藤茂訳、青土社
2.ジョック・ヤング『後期近代の眩暈――排除から過剰包摂へ』木下ちがや/中村好孝/丸山真央訳、青土社
3.富山太佳夫『英文学への挑戦』岩波書店
4.内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文藝春秋
5.ジル・ドスタレール『ケインズの闘い――哲学・政治・経済学・芸術』鍋島直樹/小峯敦監訳、藤沢書店

 先に書いたように原稿書きに追われていてひとつひとつの本の解説をする時間がないので、全体の選評を書いておきます。全体としては、2007年と比べて、2008年は自分にとってなにかこれといった本がなかったなあという感じです。2007年には、加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』や樫村愛子ネオリベラリズム精神分析』などの印象に残る力作があったし、実は今年読んだ本の中で最も印象に残っている2冊は、宇野重規トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社)と小野善康『不況のメカニズム』(中央公論新社)でしたが、両方とも2007年の刊行です。
 これは、今年刊行の本の出来が悪かったということではなく、いまの自分の関心とぴったりくる本が少なかったということです。今年の5冊に入ったなかで、1の『新しい貧困』と2の『後期近代の眩暈』、4の『ひとりでは生きられないのも芸のうち』は、来年度の講義のテーマを「仕事と労働」にする予定で、それを考えるのに役立ったので印象に残っているというわけです。
 あと、リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人』(大月書店)も入れたかったのですが、あまりに同じ傾向の本が並ぶので落としました。Z・バウマンの本は今年4冊も翻訳が出ました*2。1・2・4とこれらの本は、いずれも新資本主義のイデオロギー批判といえるものです。
 3の『英文学への挑戦』はエッセイと論文を集めたもので、好きなところから読めるし、どこを読んでも刺激的です。私にとっては、著者のいまだあくなき知的好奇心が一番刺激的でした。5の『ケインズの闘い』は経済学者の書いた本です。経済学書では、竹森俊平『資本主義は嫌いですか』(日本経済新聞出版社)も面白かったのですが、資本主義は嫌いなのでこちらを選びました。金融危機後、欧米の経済学者たちがこぞってケインズへの回帰を謳う現在、結果としてタイムリーな出版となりました。
 

*1:過去に2回だけ雑誌と書評紙に「今年の3冊」というアンケートを頼まれたことあるけど、最近は頼まれないなあ。

*2:あとの3冊は、『コミュニティ』(筑摩書房)、『リキッド・ライフ』(大月書店)、『個人化社会』(青弓社)です

祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日

 きょう11月28日は、クロード・レヴィ=ストロースの100歳の誕生日です。予定原稿でも作っておいて気の利いたことでも載せればよかったのでしょうけれども、行き当たりばったりで。
 主著の『神話論理』の最終巻(神話論理4)の第一分冊の『裸の人1』はようやく誕生日に間に合って刊行されたようですが、『裸の人2』は来年の4月ごろになるようです。これで『神話論理』4部作の翻訳が完結しますが、なかなか読む人は少ないでしょうね。もっと短く読みやすい神話論である『大山猫の物語』が翻訳されるといいのですが。原著の『裸の人』が出版されたのが1971年ですから、70年代に翻訳が出ればもっと読まれたでしょうが、もっとも「構造主義」ブームという形で消費されて忘れ去られてしまうよりは良かったのかもしれません。レヴィ=ストロースの思索は、「現代思想」として消費されてしまうものとは無縁の、消費されつくせないものを示しているのですから。若い頃はつい思想の流行を追ってしまいがちですが(私も若い頃があったのでよくわかりますが)、レヴィ=ストロースと出会ったおかげで、ぶれない座標というか足場を得ることができたのは幸運でした。
 レヴィ=ストロースが長年の研究を通じて伝えているのは、人類の誕生以来の思考の仕方は変わっておらず、それは、他者とのあいだの無意識の交通、つまり「思考の交換と変換」によるのだというシンプルなものでした。その不変の思考のやり方が「構造主義」と呼ばれるものです*1。そのような無意識の思考を、「言葉にできないもの」とか「形にならないもの」と神秘化せずに、形式化によって明らかにしたところに、レヴィ=ストロースの天才があったのですが。
 私の好きなレヴィ=ストロースの言葉は(本当に行き当たりばったりになってきましたが)、『神話論理1 生のものと火を通したもの』(みすず書房)の「序曲」にある次のような言葉です。

 神話分析の目的は、人間がいかに考えるかを示すことではない。そうではありえない。わたしが本書で扱う個別的事例においては、中央ブラジルの先住民たちが、自分たちを魅惑する神話物語を思いつくのみならず、わたしの分析の結果である関係の体系を実際に思いついているのかどうかは、少なくとも疑わしい。そしてそれらの神話を手段にして、わたし自身の俗語の、古風であったり比喩に富んだりする言い回しの妥当性を認めるとき、同じ指摘を必ず受けることになる。なぜなら、外側から、外国の神話の制約のもとで、過去を振り返っての意識化が、わたしの世界でおこなわれるからである。わたしは、ひとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。(『生のものと火にかけたもの』20頁)

 この言葉は、一見すると、神話を語っている中央ブラジルの先住民たちが気づいていない「思考」を、研究者であるレヴィ=ストロースが分析して示すという、先住民たちに主体を認めないオリエンタリズムと同等の傲慢さを示していると思われるかもしれません(実際、そう解釈する人もいます)。しかし、まったくそうではありません。未開社会の思考をあたかも歴史の高みから全体を眺めて把握できているかのように語るサルトルレヴィ=ストロースが批判したのは、そのような傲慢さを突いたのでした。神話的思考の意味は、語っている人々が頭の中に所有しているのではないと同時に、分析しているレヴィ=ストロース自身も所有してはいないのです。さらに、それは、神話の中にもありません。それは、「神話のあいだの交通」においてしかなく、誰も所有できないのです。
 これは、とても奇妙なことに思えるかもしれませんが、人類にとって、なにも奇異なことではありません。たとえば、ドラゴンズの荒木選手と井端選手が、二遊間に飛んだゴロを、荒木選手のグラブトスを受けた井端選手が一塁に投げて打者走者を刺すプレーを例にすれば(なんで野球の、それもドラゴンズの譬えなんだと思ったあなた、最後まで読みなさいね)、このプレーは高度な能力なしにはできません。しかし、この「能力」は、井端選手も荒木選手も「所有」できません。じつは、人間の思考も能力もその多くが(頭の中だろうとからだの中だろうと)、自己所有できないものなのです。それは特定の他者との交通のなかにしかないからです。
 レヴィ=ストロースは、そのことを「野生の思考」や「神話論理」を例にとって示して、そのような人類の普遍的思考という視点から、意味や能力は自分の頭やからだのなかにあるとする近代的な「主体」という捉え方を根本的に批判したのでした。しかも、少しも神秘主義ないし不可知論に陥ることなしに、いわば数学的にそれを示したわけです。この自己所有・自己決定という「主体」や、確固たる自己というアイデンティティの追求からくる「存在論的不安」が、現代になってますます大きくなってさまざまな問題を招いているとしたら、主体やアイデンティティ抜きに、しかも不変な人類の文化に根ざした思考という、レヴィ=ストロースが明らかにしたものは、いまのわたしたちへのかけがえのない贈り物ではないでしょうか。
 

*1:つまり、「構造主義」は人類の普遍的な思考法であるわけですから、「ポスト構造主義」といういいかたは、(現代思想の流行という以外には)意味不明なものとなります。

ホームページ更新のお知らせ

 「小田亮の研究ホームページ」の「講義・講演・口頭発表原稿」のページに、「共同体と代替不可能性について」(http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/page040.html)をアップしました。
 今年の6月下旬から7月上旬にかけて、3つの研究会で発表したものを1つにまとめたものです。そのためにちょっとつながりが悪いのですが、11月25日に刊行される『思想』のレヴィ=ストロース特集に寄せた論文(「真正性の水準について」)と併せて読んでいただけたら、このところの研究テーマである「真正性の水準という視点からの『共同体』概念の再構築」についての目下のところの最新版が示されているはずです。
 読むのは大変でしょうが、読んだコメント・感想・批判など、こちらのプログに書き込んでくだされば、幸いです。バージョンアップして論文にするときに役立てようという虫のいいことを考えていますので。

評価することと愛することは同じ場ではできない

11月12日のエントリーに対して、きょう、さちがさんから以下のような2回目のコメントをいただきました。それに対する応答をコメント欄に書こうとしたのですが、あまりに長くなったのと、コメントと関係のない脱線が多くなったのでエントリーにしちゃいました。

さちが (116.0.185.121)
小田さんも「まあ、こういう言い方自体が反感を招いて、逆効果になるのでしょうけれども」と書かれているように、反感を招いて、逆効果にならない言い方の工夫も必要だと思います。
工夫の仕方は簡単です。相手を見下した心構えを捨てればよいです。
さだましの歌ではないですが「お前の親と俺の親とどちらも同じだ大切にしろ 姑 小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい」

歴史修正主義という言葉の使い方も難しいですね。「歴史修正主義が論理的な議論のためのもの」として使いたい場合と、歴史修正主義が「コミンテルン陰謀史観」のようなものなので「悪い女に騙されたんだよー、と泣きごとを言っている」という風に使いたい場合では歴史修正主義に形容詞が必要ですね。歴史修正主義に反対すると言っても意味が不明になりますね。

「くだる」とか「程度が低い」とかの判断は判断の尺度がないと決めにくいですね。判断の尺度が一般的であれば皆に受け入れられますが、独自の判断の尺度の場合は皆に受け入れられることはありません。
この判断の尺度を作るのがとても難しいです。この頼りになる尺度を作ってくれた先人には感謝します。科学の世界では当たり前の尺度もそれ以外の世界ではなかなかいい尺度はありません。人間が科学を超えているからでしょうか。

私は小田さんが言論の自由の定義をうまく表現されたように、論理的にかつ痛快に自己表現されることを期待します。
田原総一朗氏の「田母神論文」問題の本質は“決起”の危険性(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081113/112209/)に指摘してあるような危惧もありますから。

さちがさん、ご返答ありがとうございます。通りすがりの人でなくて幸いでした。
 また、「相手を見下した心構えを捨てればよいです」というご忠告までしていただいて、ありがとうございます。さだまさしの歌詞を引用して何を言いたいのかはさっぱりわかりませんでしたが。まさか、田母神氏を姑さんのように「愛すればいい」とおっしゃっているわけではないですよね。顔も合わせることのない人を愛することなどできないでしょう。

 人をある尺度で(それが単に科学の尺度だけでなく他の複数の尺度でも)測ることと、人を愛することは両立しないことではないでしょうか。言論の自由が守られなければならない公共的な場(要するに知らない人たちとのコミュニケーションの場)では、なんらかの尺度で人やモノを評価することを迫られますが、その評価が単なる一つの尺度によるものすぎないことと、それと、顔を知っている人たちとのつながりの場で人を愛することとは、相反することだということ、それを念頭においておくことは大事でしょう。
すべての場が、人をなんらかの尺度で評価するような場(レヴィ=ストロースはそれを非真正の社会と呼んでいます)ではないこと、人の複雑性をそのまま理解できる場(真正な社会)がそれとは別にあること、そのような場でこそ人は人を愛せること。それを逆にいえば、なんらかの尺度で人やモノを評価することを迫られる非真正な場、公共的な空間で「みんなに愛されたい」と思って評価を下さないのも、その二つの区別を混同してしまっていることになるのでしょう。まあ、私も「みんなに愛されたい」と思わなくはないですが、知らない人たちみんなから愛されるっていうのは、「偶像(アイドル)」としてであって人としてではないですからね。
 そのことは、ネットのなかのブログを公共圏と思うか親密圏と思うかで分かれるのかもしれません。現実には見知らぬ不特定の人に公開しているブログは、定義からして公共圏でしかないのですが、現実の親密圏で愛されているという実感がわかずに、ネットをその代わりの親密圏と思うこともあるでしょうから、人やモノに断定的に評価を下すと「上から目線」批判というものも出てくるのかもしれません。

 さて、さちがさんのコメントに戻りましょう。田母神氏の「論文」をさちがさんご自身がどのように評価しているのかを書いていらっしゃらないので、結局、どういうことをおっしゃりたいのかもわからないままなのですが、「独自の判断の尺度の場合は皆に受け入れられることはありません」と書かれているところを見ると、別の判断の尺度で評価なさっているのでしょう。
私が田母神氏の「論文」を「くだらない」「程度が低い」と判定したのは、ちょうど査読や学生の論文の評価のように、論文としての尺度で判断したわけです。そして、その尺度は「独自の判断の尺度」というより、皆に比較的受け入れられている尺度です。
 さちがさんも「科学の世界では当たり前の尺度もそれ以外の世界ではなかなかいい尺度はありません」と書いておられるように(おそらく自然科学を念頭においてのことでしょうが)、人文科学や社会科学でも「論文」というものを評価する尺度という意味では、だいたいみんなに受け入れられる尺度は存在しています。学生の論文や査読では評価はたいてい一致するものです*1
 もちろんそのような尺度による評価は「人に対する評価」ではありません。そして、いろいろな尺度があることの大切さは前のエントリーでも述べてあります。ただし、それは複数ある尺度のうちの一つの尺度での判断ができないということを意味するものではありません。また、そのような尺度による「程度の低いくだらない論文」という評価が「人を見下す」ことではないことは言うまでもありません。ただし、評価すること自体が「上から目線」であり「見下す」ことだというのであれば、それは「上から目線」には違いありません。
ただ、繰り返せば、それはその人全体としての評価ではなく、その意味では「人を見下して」いるわけではありません。論文がくだらないと言っているにすぎないのです。その人全体を論文の出来やボール投げや早食いといった一つの尺度で評価できるわけはありません。
 田原さんの記事を貼っていらっしゃるところを見ると、田母神氏の「論文」を評価なさっているわけではなくて、「くだらない」としか言わないのはその危険性を見過ごしているとおっしゃりたいのかもしれません(書かれていないのでそれもわかりませんが)。でもそれは、政治的な危険性という別の尺度で評価しているだけになります。その評価によって論文としての「くだらなさ」がなくなるわけではありません。ただたんに、「論文としてはくだらないけれども、しかし」と言って、その危険性を指摘なさればすむことです。

 また、さちがさんは、「『歴史修正主義が論理的な議論のためのもの』として使いたい場合と、歴史修正主義が『コミンテルン陰謀史観』のようなものなので『悪い女に騙されたんだよー、と泣きごとを言っている』という風に使いたい場合では歴史修正主義に形容詞が必要ですね」と書かれていますが、そんなことはありません。わたしが「歴史修正主義」と呼んでいるのは「論理的な議論のための歴史修正主義」ではなく、学問の尺度では認められないような「歴史修正主義」だけですから、別に区別する必要はないのです。「論理的な議論のための歴史修正主義(歴史の見直し)」って、学問としての歴史学のことですから、歴史学として議論すればいいわけです。私が言っているのは、もし、歴史修正主義者が「論理的な議論のための歴史修正主義」を目指すのであれば、田母神氏の「論文」を批判しないと一緒にされてしまいますよということですから、私がその区別の必要性を説いているのではありません(お読みになればわかるように、私は一緒にしています)。さちがさんが区別が必要だとお思いならば、それこそご自分で区別して、「コミンテルン陰謀史観」のようなものを「くだらない論文」だとおっしゃってはいかがですか。前のコメントの応答にも書いたように、《そのような批判が自虐史観批判者=歴史修正主義者から出てこないことが、歴史的事実の解明や論理的議論をしたいのではなく、他の欲望や不安によって主張しているとみなされる大きな原因なのですから》。

 けっきょく、さちがさんが明解におっしゃっていないので、何を言いたかったのか推測しながらになってしまい、ながながと書くはめになってしまいました。明確にしたかったことは2点で、ひとつは、論文としての評価は「皆に受け入れられることはない独自の評価の尺度」ではないこと、しかし、それは人への評価ではないし、他の評価の尺度を否定するものではないこと、もうひとつは、何らかの尺度による、ある限られた評価と、その人を愛することとは両立せず、別の場・空間でなされること、その「場・空間」の区別が大事だということ、人の複雑性全体を受け入れるのは後者の場で可能なことであって、そこでの人間理解や「愛」や「しがらみ」といったものを、前者の非真正な公共圏(ここでこそ「言論の自由」が重要になります)に持ち込むことはできず、「上から目線」という反発(さちがさんが反発しているという意味ではありませんよ、念のため)も、それを混同しているということ、その2点です。
 まあ、さちがさんも私の言っていることには評価を加えたうえで「上から目線」で忠告してくださっていますから、そこではそういう言い方がありだということがおわかりなのでしょう。だとしたら、田母神氏の「論文」への評価もきちんと論理的にお書きになることを期待します。

*1:一致しないときは、論文としての尺度以外の尺度をいろいろな事情で入れてしまっている場合がほとんどです