若い世代のレヴィ=ストロース

 河出書房新社から『道の手帖 中島敦』が送られてきました。河出の編集者に知り合いはいないので「はて?」と思って開けると、松本潤一郎さんからの献本のようです。松本さんとも面識がないので、二度目の「はて?」。
 謎を解くべく掲載されていた松本さんの「トロピカル・ダンディ?――動物・近親性交・聲・文字・自死・食人儀礼」と題された論文を読みました。中島敦の「文学」をレヴィ=ストロースインセスト(近親性交)論から浮かび上がらせるというもので、文学論として評価する能力は私にはありませんが、レヴィ=ストロース論として面白く読めました。けれども、知り合いである出口顕さんや渡辺公三さんの論考は参照されていましたが、私の書いたものを参照したりしているわけではないので、そこで三度目の「はて?」となるところですが、つぎのようなことばを注で見つけたときに、勝手に、疑問を解消させました。それは、

ついでに述べておく。一般に流布した見解とは逆に、レヴィ-ストロースの思考は、かくして、きわめて不穏である。彼を、静的構造をいたるところに探して廻る「だけ」の「構造主義者」と考える連中はどうかしている。逆に彼は既存の分類(法)を壊乱する出来事(近親性交)をいたるところに見出してゆく。構造と出来事は対立しない。……
(「トロピカル・ダンディ?」72頁)

ということばです。これを読んで、松本さんはこの部分を読ませたかったので贈ってくれたのかなと解釈したくなったというわけです*1
 20年以上も前から、私もレヴィ=ストロースの「構造」を静態的とか均衡的と考える連中はどうかしていると思っていましたし、そうも書いてきました。レヴィ=ストロースのいう「交換」は均衡とは無縁のものです。ただ、同時代的には、浅田彰さんとかの影響もあって、レヴィ=ストロースの構造はそのように捉えられがちでした。ひどいことに、E・リーチやR・ジラールのほうを動態的で不均衡を視野に入れていると評価されていました。たんにそう評価する連中の頭の中に「交換は均衡をとるためのもの」という偏見があったせいなのですが。
 若い世代の研究者のなかに、松本さんのような、それとは違ったレヴィ=ストロースの捉えかたをする人が出てきたことはとても心強いことです。
 さて、松本さんにお礼をしなければならないところですが、連絡先がわからないことを口実にブログにお礼を書いておきます(読んでくれてはいないでしょうが)。礼状を河出書房新社気付で出せばいいだけの話なのですが、そういうことをするのがどうも苦手で(おとなとしてどうなのかと自分でも思いますが)。

*1:たぶん、そんなことを思って贈ってくれたわけではなく、レヴィ=ストロース論を書いたことのある人類学者に送ったというだけで、この私の妄想は違っているのでしょうけれども。