言論の自由について

 論文執筆で忙しいさなかですが(いつのまにか次の締切が近づいてきました)、田母神前空幕長の更迭問題に絡んで、「言論の自由」についての言説が飛び交っているようです。この言葉の使い方が前から気になっていたので、ちょっと言論の自由について書いてみたいと思います。
 まず、マスコミや歴史学者が田母神前空幕長の「論文」と称するものの「内容」を、「事実に反する」とか「中学生以下」と批判しているのに対して、ものを自由にいう言論の自由はないのかと怒っている人がいます。今回の問題に限らず、ブログで書いたことを批判されると「言論の自由はないのか」と言ってしまう使い方は前から気になっていました。言論の自由は、その内容にかかわらず、意見を公表することを妨げることに対する「自由」の主張です。公表した後で批判されるのは当然引き受けなければなりません。ある言論の「内容」に対してはあくまでも言論で対するというのが「言論の自由」の意味で、自由に批判されることも言論の自由には当然含まれます*1。けちょんけちょんにけなされたからといって、「言論の自由はないのか!」というのは、言論の自由を否認していることになります。
 また、これは前にも言ったことですが、言論の自由に、その言論の「内容」は関係ありません。たしかにすでに批判されているように、田母神氏の「論文」は、歴史修正主義としてもできの悪い幼稚なものですが、内容がでたらめであったとしても、その公表を妨げてはならず、それに対しては言論で批判する以外にないというのが言論の自由の理念でしょう。
 なかには、政治活動を禁じられた国家公務員や自衛官に「言論の自由」はないという意見もありましたが、憲法学者の大勢は、国家公務員法の公務員に対する政治活動の禁止自体が違憲という意見があり、特定の政策に対する異論表明は、政治活動に当たらないとされています。また、自衛官に関しても、反戦自衛官として有名になった小西誠さんが1969年に、70安保を前にした治安出動訓練に対する反対意見のビラを自衛隊内で撒くとともに、治安出動訓練を拒否して逮捕された(!)ことに対して、1981年に「言論の自由の範囲内」として無罪が確定しています。つまり、国家公務員かどうか自衛官かどうかは、今回の問題でも関係ないと言わなくてはならないでしょう。
 今回の問題は、自衛隊のトップが誤った歴史修正主義についての見解を論文として公表して、それを理由に空幕長という役職を更迭されたというもので、この更迭が「言論の自由」に反するかどうか、更迭の理由が「言論の自由」よりも重大なものかどうかが問題になります。政府から更迭の理由と挙げられているのは、どうやら「文民統制(シビリアン・コントロール)」に反するというもののようです。たしかに、軍を代表して特定の政治的発言、たとえば憲法改正を主張することは文民統制に反することでしょう。新聞の報道によれば、防衛省の事情聴取に応じなかったということで、それってもっと文民統制からすれば問題じゃないのという気がします*2。しかし、政府もどこが文民統制に反したのか明確には説明責任を果たしていませんし、政府見解と異なる内容の論文を応募しただけで軍を代表して政治的意見を表明したといえるかどうか、つまり文民統制に反するといえるかどうかは、微妙でしょう。
 その辺の議論なしに蓋をして終わりというのでは、かえって文民統制とは何か、そして言論の自由とは何かをあいまいにしてしまいます。田母神氏は更迭に不満をもっていて「言論の自由はないのか」と言っているようですから、ぜひ地位保全を求めて提訴してほしいものです。そうしたら、司法の判断も出るでしょうし、議論も続くでしょう。
 それにしても、今回の問題で考えさせられたのは、あのくだらない「論文」に賛同の意見を表明する人が多かったことです。「民意が低い」といえばそれまでですが、歴史修正主義に反対する人たち(私もその一人ですが)の工夫も必要かなと思いました。歴史修正主義に反対すると「自虐史観」だ「反日」だと脊髄反応する人たちが何に不安を持っているのか、その不安を取り除くような(大きなお世話だというだろうけど)言論をしないと、いつまでたっても「民意が低い」で終わってしまいそうな気がします。陰謀史観と同じで、マスコミや日教組に強行に反対することで何の不安を解消したいのでしょうか。だいたいマスコミを「左翼」や「反日」と名付けたり、教員の影響力(工作員の影響力?)を過大に評価したりすることは、どこかで感じている自分の弱さを隠したいという欲望なのでしょうが、なぜ自分に弱さを感じてしまうのか、その辺を考えて批判しないと、言論には言論で対抗するといっても効果はないのでしょう。マスコミが(陰謀も工作員もなしに)体制べったりであるのは当たり前のことだし*3、教師の言うことなんてたいしたことではないと思うのが、ふつうの庶民の感覚だったと思うのですが、そのような感覚を失わせてしまう体制自体を批判していかないとだめだということでしょうか。まあ、こういう言い方自体が反感を招いて、逆効果になるのでしょうけれども。

*1:もちろん、これは理念であり、現実には、意見や反論を表明する場をどれだけ持てるのかに関する力の差、不平等があります。ですから「サバルタンは語れるか」という問いが出てくるのですが、それもまた、この理念に照らしてその状況を変えていくしかないことであって、この理念はまやかしだといって捨てるのは愚策でしょう。

*2:それだけで更迭の理由になると思いますが、それを理由にしているのではなさそうです。

*3:朝日新聞」や「岩波」が赤かったことはなく右の体制べったりのマスコミであると思っていたし、日本共産党はスターリニストとナショナリストだと批判していた身からすると、それらが「左翼」とか「反日」とされていること自体、笑ってしまうのですが。

税金を払わない人に金券を配ると合法的買収?

 11月4日の毎日新聞夕刊の「牧太郎の大きな声で言えないが…」というコラムで、次のようなことが書かれていました。

 追及すべきは「税金を納めない人にも一律に定額給付する経済政策」である。税金を払わない人にまで金券を配る。大枚2兆円。選挙前の合法的買収行為じゃないのか。

ネタとしても、このネタを構成する理屈がわかりません。税金を払った人に配るのは「減税」だから合法的買収にはならないっていうことなのかな。まあ、「合法的買収行為」なんで行為はないと言ってしまえばそれまでですが、あえてそう言いたいのならば、選挙前の「減税」の公約だって同じことでしょう。選挙前に税金を払っている奴にお金を渡すと買収ではなくて、払っていない奴に渡すと買収に近いっていうのは、どこから来た考えなのでしょうね。たぶん理屈ではなく、「税金を払っていないなんてけしからん」、「どうせ働いていないんだろうから、そんな奴にまで金をやるな」という感情からの発言なのでしょう。大新聞の専門編集委員までがそのような感情をもっていることを考えると、ベーシック・インカムへの道は険しそうですね。
 減税ではなく税金を払っていない人にまで金券を配るというのは、経済政策としてはいちおう理屈が通ります。一時金だから(それに前のエントリーに書いたように、3年後の増税とセットとなっているから)たいてい貯蓄してしまう恐れがありますが*1、貯蓄に回す余裕のない人たちはその分をしっかり消費してくれるでしょうから。
 ただ、現在の案は世帯単位に配るようですが(高所得者は除外という話も出ていました)、どうせならついでに、生まれたての赤ちゃんを含めて個人単位で配れば少子化対策という名目も立つでしょう。もちろん、一時金ですから、いまからそれに合わせて子どもをつくるような人はいないでしょうが(そもそも間に合わない!)、恒常的な子育て支援と合わせて、何かにつけてお金を配る時には個人単位にして子どもにも配れば、子どもを持とうする人も少しは増えるでしょう。少子化担当大臣である小渕優子さんもそのように主張すれば、存在感が出ますよ。もちろん、なんで子どもにまで配るんだ、子どもがいない家庭を差別している、子どもを産まないライフスタイルの選択を阻害するという反対意見も出てくるでしょうが、もし少子化が深刻な問題であるとすれば(だから担当大臣がいるのでしょう)、そして子育てに費用と時間とその他いろいろがかかることを考えれば、子どもを育てるという社会的に有益な仕事をしている人にその費用の一部を支払うのは当然という理屈は成り立ちます。第一、選挙権のない子どもにも配れば、「合法的買収」と言われずにすみます!
 まあ、いずれにしろ、少ない一時金だから効果はほとんどないでしょうが、0歳から個人単位に配るということは、ベーシック・インカムへの地ならしにはなります。ベーシック・インカムならば、子ども一人いるだけで月10万円がその世帯に所得として入ってくるわけで、子ども1人増える費用(家賃とか食費とか教育費)を考えても、子どもを産んで育てる大きなインセンティヴにはなると思いますが。もちろん、子どもに支給されるのであって、親に支給されるのではないのですが、子供へのお年玉も親が管理するといって子どものために使うのは合法(?)ですから(パチンコに使っちゃダメですが)。
だから家族が大事、子どもを育てるのが大事という保守派にも受けるはずですが、この個人単位の支給には、子どもの権利という面で進歩派にも受ける点があります。もし、子どもに支給されたベーシック・インカムを親が自分のために使ったり虐待したりしたら、家出をするという手がありますからね。中学生くらいなら公園で「ホームレス中学生」にならなくてもルームメイトとシェアすれば暮せますし、小学生なら月10万の持参金に目がくらんだ親戚が引き取ってくれるかも(でも、そんな親戚イヤか)。どちらにしろ、労働者と同じく、ちゃんと育てないと出て行くぞという立場に子どももたてます(これだと、保守派には受けないでしょうけど)。
 このように、保守派にも進歩派にも受ける部分があるのがベーシック・インカムの特徴ですが、その特徴は裏返せば、保守派にも進歩派にも受けが悪い部分があるということで、賛成が薄く広くなっていく理由も、またなかなか厚く広がらない理由も、そのあたりにありそうです。ただ、ベーシック・インカムには、多様性を認めているようにみえながら実際にはそれら単一の基準で均してしまい、不採算の道を選択したのは自己責任だという現状の「自己決定」のイデオロギーを超えて、そのような単一の基準とは無縁の多様性を実現できる可能性があるということは言えます*2。そして、そのことはとても重要なことだと思うのですが。

*1:もちろん、期限付きのクーポン券で配るのでしょうけれども(昔の地域振興券と同じですね)、給与などの定常所得のほうからその分を貯蓄にまわすだけということになります。追記:朝刊を見ると期限付きクーポン券ではなく、現金で給付するようになりそうとか。夕方に起きて先に夕刊を読んだので失礼しました。クーポン券は印刷したりどこで使えるか決めたり、大変ですものね。でも、現金だとますます使ってもらえないかもしれませんね。

*2:10月25日の「ベーシック・インカムについて(補遺)」の記事http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20081025#1224968274を参照してください。

なぜ消費税の増税なのか

 麻生首相が30日、全世帯を対象とした総額2兆円規模の給付金支給などを柱とした追加経済対策を発表した際に、3年後の消費税率の引き上げを明言しました。消費を拡大するための政策を発表するときに、増税を明言するって、給付金支給の効果を無にするようなものなのじゃないのかな。ただでさえ、不況の際の一時的な給付金や減税は将来の増税を予想しやすいので消費に回らないと言われているのに、首相みずからだめを押すとは不思議です。もっとも、ご本人もまずいと思ったのか、31日になって、景気が回復すればという条件を強調したらしいけど、もう遅いって。河村官房長官は31日の記者会見で、「未来を考え、国民にきちっと説明をしたことは評価されるべきだ」と言ったようだけど、ただでさえ弱い景気対策を台無しにした責任のほうが重いでしょう。
 でも言いたいのは、なぜ消費税の増税なのかということです。消費税が逆累進的なもので、低所得者に重くなるのは常識ですが、格差是正が言われているときに、なぜ所得税の累進的課税と相続税による増税ではなく、消費税なのかがわかりません。消費税率を引き上げるときによく、税の「直間比率の是正」と言われるけど(また言われるのかもしれないけど、日本は直接税の比率は高くないみたいです)、これは富裕層への減税とセットで行われ、相続税の減税を含めると、この20年間ほどずっと続けられてきた富裕層を優遇するための政策であることは明白ですよね。そのときに持ち出されるのが、高額所得者がお金を稼ぐモチベーションが損なわれるというのと、富裕層が経済的活動を引っ張れば貧困層にまでおこぼれがいく(仕事が増える)という理屈だったと思います(他になにかまともな理由があったなら教えて下さい)。しかし、その両方ともこの20年間を見ていると、根拠がないような気がします。おこぼれはほとんど貧困層には行かず、富裕層は産業も雇用も生み出さないような金融活動にいそしんできたようです。
 相続税所得税累進課税を再び強化したほうが、富裕層も生きているうちに消費や社会に還元しようというインセンティヴになりますし、少数の富裕層を優遇するよりは多数の低所得者層(富裕層に比べれば低所得という意味ですが)に再分配すれば、消費拡大のうえで最も効果的でしょう。再分配を何のためにするのかといえば、「平等」だと人間の尊厳が守られるからではありません(お金の再分配だけでは守られません)。また、低所得者層が搾取されているから正当に戻すというのでもありません。労働者ではない人、働いていない人は搾取されているとは言い難いでしょう。困っている人に手を差し伸べるという人間性からでもありません(それは身近な人になら、つまり真正性の水準であれば、当然の行為ですが)。再分配しないと経済的にも社会が成り立たないからです(社会なんてない、社会なんていらないというのが、再分配を縮小するスローガンでした)。私としては経済的な理由以外の理由を重んじますが、そうではない人もいるでしょう。そういう人たちにとっても、恒久的な再分配こそ効果的な景気対策であり、富裕層が経済を引っ張って社会を活性化させるなんていう、金融危機にはじまる世界的不況によってすでに迷信となった富裕層優遇政策より、ずっとまともな経済政策であるという理由から、再分配の必要性を考えてほしいものです。
 ですから、最初の疑問に戻れば、なんでいま景気対策をしようとするときに消費税の増税なのでしょうか。経済学の門外漢にもわかりやすく誰か教えて下さい(最もわかりやすい答えは、自民党の支持者が富裕層だからというものですが、あやしいですね。麻生さんは富裕だろうけど、支持している人たちは、私のような富裕層には見えないけど)。

ベーシック・インカムについて(補遺)

 黄色い犬さん、コメントありがとう。予告編には期待していますというコメントをいくつかいただいたのに、本編にはコメントがなかったので期待外れだったのかなと思っていました。これで心おきなく仕事をしようと思っていたのですが、黄色い犬さんのコメントに、

「労働倫理」が強力な足かせ(?)になってるのは当然にしても、「独り占めにしたい気持ち」や「人を見下したい気持ち」というようなたぶん誰にでも少しはあるような感情が「労働倫理」というものを支えているような気がして、ベーシック・インカムへの道はなかなか険しいような。

とあったのが気になりました。やはり、走り書きでしかもあちこち話が飛んだりしていたので、肝心なことを伝わるように書けなかったみたいと思い、補遺を書いておきたいと思います(念のため、黄色い犬さんが読解できなかったということではなく、コメントによって何を書き落としたのかが明確になってありがたかったという話です)。
 黄色い犬さんが書いているように、「独り占めにしたい気持ち」や「人を見下したい気持ち」は、もちろん誰にでもどこかにありますし、「良きもの(goods、モノですね)を独り占めしたい」とか、「人より上に見られたい」という気持ちは、近代資本主義の成立以前から人は持っていたでしょう。当然、資本主義がそのような気持ちを強化したということは可能でしょうけれども、資本主義や市場社会を批判するときに、そのような気持ちは人間として恥ずかしいから捨てよとお説教しても始りません(マルクスやポランニーなどの批判者はもちろんそんなお説教は言っていません)。
 問題は、独り占めしたいと思う「良きもの」の所有と「人より上に見られたい」という序列のものさしが収斂していき、単一の基準となったということなのです。つまり、お金の所有が「良きもの」の所有となり、その数量が人の序列のほとんど唯一の基準となっていったということです。
 そういうと、いや現在でも人の序列の基準はたくさんあるというかもしれません。スポーツができるとか、容姿が良くてもてるとか、成績が良く学歴があるとか、笑いを多く取れるとか、絵が上手だとかいろいろな基準があると(なんか中学生のあいだの序列みたいですが)。しかし、資本主義社会では、それらの「能力」を使って稼ぐことが求められます。それらを市場で売ってお金にすることが「自己実現」であり、それらを市場の外に埋もれさせていることは「罪悪」になっているとすらいえます。「名誉」や「有名性(セレブ)」も付加価値を生むものとして金銭に換算可能ですし、お金に換えないことは愚かしいこととされます。つまり、複数の価値基準、複数の序列があるようにみえて、その序列と序列のあいだを序列化する至高の基準が市場価値というわけです。近代になって、身分制がくずれるとともに、市場が社会全体を覆ってはじめて、すべての領域を横断し平準化するような唯一の序列の基準が生まれたのです。そこでは、有給雇用されないもの、すなわち怠け者や失業者や不採算の(市場価値を生まない)活動に固執する者や不払い労働であるシャドウ・ワーク(家事労働が典型的です)をする者は、人間として価値のないものとされるわけです。
 ベーシック・インカムの導入は、すべての序列のあいだの壁を壊して単一の序列にしてしまう市場価値の支配から他の価値基準を救い出して、再び社会の各領域に埋め込むことを可能にしてくれます(あくまでも可能性ですが)。もちろん、個人の「能力」を活かして働き、市場でそれをお金に換えることで「自己実現」することを、ベーシック・インカムは否定していません。ただ、それとは別に、労働や市場価値とは無関係に、生きているだけで与えられる所得があるというだけです。それだけなのですが、価値が市場価値とそれとは無縁のものという二本立てになるということが重要というわけです。
 そして、ここが「ワークフェア」や、ベーシック・インカムと同じものとされることも多いのですが「負の所得税」との大きな違いというわけです。つまり、所得再分配社会保障という面だけを考えると、再分配されるお金はたいして変わらないでしょう*1。しかし、働く意思を基準としたり「ミーンズ・テスト」を必須としたりする「ワークフェア」や「負の所得税」は、市場での価値を人の唯一の序列とするイデオロギーを支え、怠惰や失業や貧困や不採算部門から動かないような人たちを「見下し」ながら分配するものとなり、その受給者にスティグマを与えるものとなるわけです。
 補遺はこの辺にしますが*2、実際に導入するとなると、現行の制度からのスムースな移行にはどうすればいいのか、財源は何がいいのか(私個人としては累進課税所得税相続税がいいと思っていますが)、景気対策にもなるといっても、景気の悪いときにどのように導入したらいいのか、まだまだテクニカルな問題は残っています。その辺は、私の能力を超えているので、専門家であるエコノミストの知恵を借りたいところです。もちろん、この構想には根本的にまずいところがあるという指摘も是非。いろいろな知恵を集めると実現可能性は高まるはずです。もっとも、私個人はベーシック・インカムを導入するとおそらく収入は減るのですが。

*1:ですから、市場原理主義者の竹内靖雄さんは、教祖とも言うべきミルトン・フリードマンの提唱した「負の所得税」を「社会主義的」だと批判しています。

*2:当初の予定からすれば、まだ経済学的な「インセンティヴ」概念についての話が残っていますが、それはベーシック・インカムの話とは切り離してそのうち書きましょう。

ベーシック・インカムについて(3)

 さて、連載3回目です。
 前回の最後に、ベーシック・インカムによって労働意欲がなくなり、モラル・ハザードを招くという右派やエコノミストの危惧を挙げました。それと関連して、ベーシック・インカムに反対する人たちの理由として最も多いのが、「働く気もなくぶらぶらしているやつに税金から金を出すなんて」というものでしょう。つまり、フリーライダー批判です。
 けれども、ベーシック・インカムの思想は、労働による所得以外にも所得があることが社会にとってプラスになるということであって、労働による所得を否定していません。否定していないどころか、むしろ「労働による所得」を全面的に純化しているともいえます。つまり、扶養家族がいるかどうかなどという基準はなくなるし、労働に純粋に応じた給与が支払われるようになり、有能に働けば働いた分だけ所得が増えるのですから、月10万円のベーシック・インカムとは別に労働による所得を目指す人が減るとは考えにくいでしょう。もちろん、ベーシック・インカム分だけの労働を減らそうという人は出てくるでしょうが、それは、現在の「働きすぎ」で有給労働以外の活動に時間が取れないという現状を改善するものであり、労働意欲がなくなるのとはまったく違います。
 20世紀半ばごろ、ケインズを始めとして経済学者たちは、経済成長によって労働時間は短くなり、週3日働けば暮らしていけるような、そしてその他の時間で自由な活動ができるような豊かな社会がもうすぐやってくると予測していましたし、経済学はそのような豊かな社会を実現させるための学問だとしていました。その後の経済学はどうもそうではなくなったようですが、ベーシック・インカムは往年の経済学者の夢を実現させる基盤を与えてくれます。そのような基盤ができ、実際に人々が有給労働以外の活動や、なかなか採算が取れない活動をするようになれば、「有給労働もせずにぶらぶらしているフリーライダー」という見方(偏見)も変わってくるでしょう。たとえば、いまは、不採算部門の典型である林業に後継者がいなくて、森林ボランティアという形でしか新規参入者もいない、里山の森林を守り育てる林業を仕事として行う人も出てくるかもしれません。また、本当にぶらぶら遊んでいるとしか見えない人たちの中から、新しいスポーツやゲームや芸術を考案する人だって出てくるでしょう。さらに、若手の研究者(OD)は、現在は、研究職につくまでは「高学歴ワーキングプア」となって、とくに研究助成金の少ない人文・社会学系では研究する時間もないという本末転倒の状況になっていますが、最も研究のできる若い時期に研究に打ち込む時間ができるでしょう。
 つまり、「有給労働に就かずにぶらぶらしている人」の中から、現在は不採算であるけれども、長い目でみれば社会に役に立つクリエイティヴな活動をする人が出てくるのです。もちろん「ただのぶらぶら」で終わる人も多いでしょうが、そのような人たちがクリエイティヴな活動の裾野を広げているわけで、そのような「無為の人」による裾野なしには、なにも生まれてきません。逆にいえば、ベーシック・インカムをそのようなフリーライダーに供与することは、経済的にも文化的にもプラスの効果があるのです。つまり、フリーライダー批判は、「ノー・ロングターム」というイデオロギーから出てきているわけで、そのイデオロギーを崩していくこと自体がベーシック・インカムの効果なのです*1
 ベーシック・インカムは、たしかに所得再分配という側面がありますが、それだけではなく、このように、景気への効果や、長い目で見れば必要な活動だけれども市場では不採算となる活動を促進するという効果があります*2
 しかし、右派やエコノミストのなかでも、市場原理主義とも呼ばれる右派リバタリアンからは、所得再分配じたいがけしからん、という意見が出されています。その根底には「必要悪としての政府=税金」という考え方と、神の創造した秩序である市場に委ねるべきという信仰があります*3。たとえば、ミルトン・フリードマンの信奉者で右派リバタリアンの経済学者スティーブン・ランズバーグは、『フェアプレイの経済学』(ダイヤモンド社、1998年)のなかで、つぎのように言っています。

 本気で信じるには、所得再配分はあまりにもおかしな話なのだ。/なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私にはなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。/もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。(『フェアプレイの経済学』11頁)

 このようなずさんな譬え話によって、税を取ることは泥棒であり、所得再分配は「盗み」だということが「経済学的思考」だと他の経済学者は考えていないことを祈りたいと思います*4。この譬え話は、直感的にもおかしいと思うはずですが、難しくいえば、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」の区別の混同があります。「公園で遊ぶ子どもたち」という社会で、政府も税金も必要がないのは、「譲りあいが大切」とか「利己的な行動は恥ずかしいという感覚」といった習俗や、あるいは「交渉をする、仲間はずれにする」といった対面的なコミュニケーションで問題を解消するのに十分だからです。歴史的にも人類学的にもそんな水準で「政府」を作った例などありません。けれども、ある人数以上の人口の社会では習俗(モラルは習俗という意味です)や対面的なコミュニケーションによる解決が不可能になります。ですから、政府や契約や文書といった媒介(メディア)による間接的なコミュニケーションによる解決が必要となるのです*5
 当然、ランズバーグのような経済学者たちは、自分の子どもに教えているように、お金(おもちゃ)を独り占めすることは恥ずかしいことで譲りあいが大切だと思って、社会に自分のお金を配っているのでしょうし、たくさんお金を持っている人のところに行ってみんなで使うようにと、おだてたり、交渉したりしているのでしょうけれども、ふつうの人は対面的な関係を超えてそのようなことはしません。まあ、かれらが上のようなずさんな譬え話をするのは、自分で譲りあう気があるのではなく、自分の能力と努力ないしは自分の親の能力と努力で手に入れたものを独り占めにするのは悪いことではないという「自分勝手」のイデオロギーによるものなのでしょう。けれども、本当の成功者は、自分の成功は運と人間関係、つまり社会のおかげであり、多額の税金を支払ったり慈善団体を作ったりして社会に還元するのは当然だとよく言いますが、それは偽善的なポーズというより本音でしょう*6
 もちろん、今回の金融危機での公的資金の投入という、自己選択・自己責任論に反する政策をみるまでもなく、ランズバーグのような市場原理主義は経済学としても経済政策としてもすでに終焉したイデオロギーとなっているのでしょうし、主流の新古典派経済学は、そもそも市場は失敗するものであり、そのような限界をもつ市場への政府の介入は必要だとしてきました。ですから、いまさら非主流に堕ちた市場原理主義者のことばを引用して批判しなくてもと思われるかもしれません。けれども、フリーライダー批判や労働意欲の減退への懸念というのは、からなずしも市場原理主義者ではないエコノミストから出ています。つまり、主流派経済学と市場原理主義イデオロギーをいくつか共有しているのです(経済学に詳しい人には当たり前なのかも知れませんが、門外漢の私には、論争しているわりには、みんな意外と近いなあと感じるわけです)。それに、市場原理主義ネオリベラリズムはもう終わったということが、むしろ、今回の公的資金による金融機関救済を正当化してしまう恐れもあります。自分たちがいままで多額の金を稼いでいたときは賢くリスク・テイクしていた自分たちの能力と努力の賜物だとしていたのに、そのリスク・テイクが愚かであったことが露呈して損失したときには公的資金で救済するというのは理屈には合いません。
 ただ、金融資本主義というバスには、金融機関の関係者以外の人びとも乗ってしまっていたわけで、走っているバスが故障したときに、その故障は明らかに運転と整備をしていた金融機関の自己責任だといっても、他の乗客も犠牲になる可能性がある以上、バスをみんなのお金で応急修理をする必要があるというのはわかります。ただ、それはあくまで他の人々(世界中の人々)がいわば人質になっていたからです。そして、そのことをちゃんと指摘せず、またその故障するバスをこの先も使うのかという議論もせずに、公的資金で資本注入までしなければだめだとしか言わなかったエコノミストが多すぎたように思います。そういったエコノミストは、二度と福祉やベーシック・インカムに対してフリーライダーを生むとか、モラル・ハザードが起こるという批判をする資格はなくなったということを忘れないでほしいものです。今回の金融機関救済への公的資金の投入よりも大きなフリーライダーモラル・ハザードはないでしょうから。
 あれ、ベーシック・インカムについてもっと書くことがあったような気がしますが、市場原理主義金融危機の話をしすぎて、もうこんな長さになってしまいました。この調子だと、延々とこのベーシック・インカムについての連載が続きそうなので、いったんここで終りとします。いま思いだしましたが、「もっと書くことがあった」というのは、フーコーのいう近代の「監禁」の時代での「労働倫理」(「働かないやつはクズだ!」)の誕生とそれに対する人々の反応についてという大事なことでした。それが大事なのは、いま当たり前となっている「労働倫理」が倫理としては奇妙なものであり、それを奇妙なものだと感じていた時代の倫理を再想起することで、ベーシック・インカム社会を想像する一助としようと思ったのでした。ただ、これまた長くなりそうで、そろそろ他の仕事もしなければならない時期に来たので、3回の連載でいちおう終わりにします。

*1:したがって、ベーシック・インカム導入前に、そのイデオロギー批判をどうやって人びとに広めていくかというのが難問になるわけですが。

*2:もちろん、ベーシック・インカムとは別にそのような活動に公的な援助が必要ですが、そのような援助は選抜のための審査や実績へのオーディット審査が伴い、そのようなカテゴリー別の援助だけでは、裾野を広くするにはあまり役に立ちません。

*3:市場原理主義右派リバタリアニズムがそのままでネオリベラリズムとイコールというわけではありません。ネオリベラリズムとは、自己実現の称揚と自己選択・自己責任からなる「個人化」による流動性を最大限に使って、資本蓄積にとって障害となるような社会からの規制を取り除き、経済的不平等を拡大再生産して階級権力を再確立するための市場原理主義と、それによって生ずるプレカリテ(不安定さ)を最大限に利用して、不安定さを国家や宗教や家族という偽の恒常性の価値を高めることで代償させるという体制をさします。

*4:経済学者の蔵研也さんは『リバタリアン宣言』(朝日新書)のなかで、ランズバーグのこの議論にたいして「なるほど、たしかにその通りです」と書いていますが。

*5:そもそも、歴史的にみて、たくさんお金をもっている人からお金を取り上げるために政府が作られたというより、たくさんお金をもっている人たちがそれを守り、またもっとたくさん持てるような環境を整備するために政府が作られたといったほうが当たっているのですが。

*6:そのような「ノーブル・オブリッジ」がまだ生きている例としては、個人資産世界第一位のビル・ゲイツや第二位のウォーレン・バフェットがともに、ブッシュ政権による高額所得者への所得税の減税や相続税の引き下げに反対して、われわれはもっと税を払うべきだと言っている例があります(もっとも彼らの想像を絶する資産を考えると、90%取られて10%になったって使い切れないお金ですから、拍手する気もおきないという感じになりますが)。累進課税相続税は「成功者への罰」だと主張していたのは、その課税によって、自分たちより下だと思いたい連中との差がなくなってしまうような人たちで、そのわずかな「差」にしか自分の誇りの拠り所がない人たちなのかもしれません。

ベーシック・インカムについて(2)

 世界金融危機にはじまる不況によって、何かシステムを変えなくてはという流れができつつあるようにも思いますが、はたしてどういうシステムにするのか、またどういう人たちがそれを考えるのか。それを思うと、結局はなかなか変わらないのかなという気もします。少なくともエコノミストたちにシステム自体の転換を考えることを期待はできないでしょう。主流の経済学は、システム内の問題を考えることに特化したものであり、システム自体の大転換を考えることは苦手というか、むしろそれを考えないことを自らの立場としてきた学問だからです。「金融資本主義」やネオリベラリズムを支えてきた「経済自由主義」からの脱却を唱えても、経済成長しつづけるというシステム自体への信仰を捨てない限り、エコノミストたちの思考は、もう一度なにか別のバブルを起こして景気回復をしなくてはというところに落ち着かざるをえないのでは。もちろん、そのバブルを安定的なものに抑えつつというでしょうけれども、同じことの繰り返しには違いありません。
 とはいっても、「金融資本主義」への反動から、「汗水流して勤勉に働く『ものづくり』」への回帰を謳う人が多いのも困りものです。せっかくの大転換のチャンスを「労働倫理」の復権に利用しようとするものですし、職人的な「ものづくり」と、下請けと非正規雇用の労働者の搾取によって成り立っているトヨタの「ものづくり」を一緒のもののように論じている点からして救いがたい議論ですから。
 そこで、前回の続きのベーシック・インカムの話につなげるなら、主流の経済学を信奉するエコノミストたちにも賛同者が広がるような議論と、システム自体の転換にもつながる議論の両方が必要となるのでしょう。
 前回、ベーシック・インカムの利点を並べましたが、もちろん利点しかないわけではなく、欠点というか、危惧すべき点も多くあります。そもそも利点として挙げたもののなかには、立場によっては欠点となるものもあります。今回は、ベーシック・インカムに対する反対意見や危惧する意見を取り上げ、その上で、にもかかわらずベーシック・インカムには、システム自体を少しずつ変えていく意義があるということについて書いてみたいと思います*1
 まず、左派の立場から*2危惧すべき点(これは経営者側へと立場を替えれば利点となるわけですが)を挙げると、ベーシック・インカムは、雇用のフレキシビリティを促進し、短期の低賃金労働者の使い捨てをより容易にするということがあります。
 カール・ポランニーは『大転換』のなかで、市場経済で売るための商品を生産するためには、特に土地・労働・貨幣という基本的で重要な生産要素の供給が保障されなければならず、したがって、市場経済(資本主義社会)が成立するには、この三つが商品として市場に組み込まれることが不可欠であるが、労働、土地、貨幣が本来商品ではないことも明らかであり、これらは擬制的商品、つまりフィクションのおかげで商品のように市場に組み込まれているのだといいます。そして、土地・労働・貨幣などの擬制的商品を完全に市場の自己調整メカニズムに委ねることは、自然環境や生身の人間である以上できないと述べていました。「労働力」という擬制的商品についていえば、「たまたまこの特殊な商品の担い手となっている人間個々人に影響を及ぼさずに無理強いできないし、見境なく使ったり、また使わないままにしておくことさえできない」のであり、それが「文化的諸制度という保護の被い」によって「悪魔の碾き臼」たる市場から保護されることがなかったら、「どのような社会も、そのようなむき出しの擬制システムの影響には一時たりとも耐えることはできないであろう」と述べていました。
 つまり、ポランニーは、市場社会には、労働力を市場に組み入れて労働市場を作り出す必要があり、しかも市場メカニズムが働くためには規制があってはならないのだけれども、もともとフィクションとしての商品である労働力の場合は、その実体(生身の人間であるという)から、市場を規制して保護されなければならないという矛盾があることを指摘しているわけです。ネオリベラリズムの「規制緩和」とは、それを実体としての生身の人間というほうを切り捨てて、フィクションとしての商品というほうを全面化しようとすることにほかならないのですが、それにはやはり限度があり、現実の生身の人間から抵抗を受けざるをえないわけです(少子化はその抵抗のひとつであるかもしれません)。
 ところが、ベーシック・インカムは、労働力の全面的な商品化を可能にします。企業など雇用主は、生身の人間という実体をもつ労働力の再生産ができなくなるということを恐れることなしに、「見境なく使ったり、また使わないままにしておく」ことができるようになるわけです。その結果、最低賃金保障も必要なくなり、どうしても必要な人材には正規雇用と高賃金を用意するでしょうが、あとはいつでも契約を打ち切れる低賃金の非正規雇用労働者を好きに使えるというわけです。かくしてベーシック・インカム導入によって経済的格差はますます広がるという予測も出てきます。
 それに対して、アレックス・カリニコスやアンドルー・グリンらのベーシック・インカムに賛同するマルクス主義者たち*3は、そのような危惧はなく、むしろ労働者側に有利になるとしています。つまり、労働者は、「生きていくための労働」から解放され、被雇用から撤退するという選択肢を得るために、資本との交渉において有利な立場にたてるというわけです。つまり、この予測では、たとえ非正規雇用が増えるなど労働のフレキシビリティが増大しても、逆にそのフレキシビリティを武器に、労働の供給を減らすという前提で賃金交渉ができるために、時給はむしろ高くなるということができます。この予測では、非正規雇用でも正規雇用でも労働時間を減らしながら、そしてワークシェアリングによって失業者も減らしながら、それほど収入を減らずにすむ(あるいはベーシック・インカム分を足せば収入を増やすか同じに維持できる)ことが可能だということになります。
 これはどちらの予測が正しいかというより、資本側の望む雇用のフレキシビリティを実現しながら、失業者もワーキングプアも減らせると考えたほうがよいでしょう(そのほうが賛同者も広がりますしね)。
 新資本主義ないしネオリベラリズム社会の最も重要な欠陥は、過剰な流動性・フレキシビリティと過剰な個人化(あらゆることが自己選択の対象となり、その結果が自己責任となること)によって、長期の安定した予測ができなくなっていること(「ノー・ロングターム」)にあります。人々が消費を控えて不況になるのも、この「ノー・ロングターム」によるものですし、金融危機を招いた金融資本主義も「ノー・ロングターム」を金科玉条にしていたせいだといえるでしょう。そして、それが人びとの不安と不安定の原因でもあり、その不安や不安定をセキュリティの強化や排他的なナショナリズムによって代償しようとしているともいえます。
 ベーシック・インカムの導入の最大のメリットは、たんに貧困対策というより、それが長期の安定した予測の基盤を与えてくれることにあるといってもいいでしょう。たしかに、ベーシック・インカムによって収入が大幅に増えることはなく、子供が1人くらいの標準世帯ではたいして変わらないということになるでしょう*4。しかし、たとえ収入が変わらなくても、失業の不安とスティグマや社会から排除される不安をなくし、長期の安定した予測ができるということだけでも、非常に大きな景気対策になりますし、そのことはたんに経済的な景気対策だけではなく、人びとの思考を規定する社会の大きな転換を伴うことになるでしょう*5
 さて、ベーシック・インカムに対する右派やエコノミストからの危惧として最も大きいのは、それが人びとの労働意欲をなくしてしまい、モラル・ハザードが起こるというものでしょう。これは、ベーシック・インカムによる「生きていくため(食べるため)の労働からの解放」が労働そのものの放棄を招くという見方だといいかえられます。この見方自体が近代の「労働倫理」の産物であり、経済学的な「インセンティブ」の捉え方の狭さ(イデオロギー性)を示しているといえますが、このエントリーも気がついたらずいぶん長くなってしまいましたので、この続きはまた次回ということで。

*1:前回あげた利点について、6の「少子化対策」以下の説明をしていませんでしたが、「少子化対策」や7の「年金問題の解消」については説明はいらないでしょう。それ以外については、以下の議論が説明になっていると思います。ですから、いちいち説明することはやめますので悪しからず。

*2:前にも書いたように「左派」「左翼」というのは再分配による平等を重視する立場です。

*3:カリニコス『アンチ資本主義宣言』(こぶし書房、2004年)、グリン『狂奔する資本主義』(ダイヤモンド社、2007年)を参照のこと。他にベーシック・インカムに賛同するマルクス主義者の有名人としては、アントニオ・ネグリがいます。

*4:子供が2〜3人いれば収入は増えます。だから少子化対策にもなるわけですが。

*5:この転換の内容と意義についてはまた後で触れたいと思います。

ベーシック・インカムについて(1)

 ようやく前門の虎も後門の狼もいなくなって一息ついたところです*1。その間にchinalocaさんからも催促をいただき(chinalocaさん、お久しぶり)、ベーシック・インカムについて書くことへのハードルがかなり高くなってきましたね*2。ちゃんと議論しようとすると長くなりそうなので、最初から連載にしようと思います。今回はその第1回目です。
 さて、基本的なおさらいから。ベーシック・インカム基本所得)は、「すべての個人へ無条件で給付される所得」を意味し、赤ちゃんから死ぬまで、生きているだけで一定の生存保障の所得を政府が分配するというものです。ベーシック・インカムについての文献は以下のものがあります。

トニー・フィッツパトリック『自由と保障――ベーシック・インカム論争』勁草書房
Isbn:4-326-60185-X
ベーシック・インカムを考える上での基本文献。私の記事もこの本に多くを負っている。
小沢修司『福祉社会と社会保障改革――ベーシック・インカム構想の新地平』高菅出版
Isbn:978-4-901793-04-9
→終章での日本での実現可能性を具体的に試算しているほか、ベーシック・インカムを「所得と労働との切り離し」と捉える観点から、欧米の議論を検討している。
ゲッツ・W・ヴェルナー『ベーシック・インカム現代書館
Isbn:978-4-7684-6963-7
→大手のドラッグストア・チェーンの経営者である著者が主張しているところがこの本のみそで、ヨーロッパでの議論の広がりをみせてくれる。

 さて、ベーシック・インカム論争で面白いところは、マルクス主義者にも主流経済学派にも右派リバタリアン(経済自由主義者ネオリベラリスト)にも、またフェミニストにも保守主義者にも、賛同者がいることだと書きました。もちろん、それぞれに根強い反対者がいて、党派的にまとまらないことが、ベーシック・インカム実現の障害になっているのですが、しかし、この弱みは強みにもなります。主義や党派を超えて賛同者を多数派にすることができるということでもあるからです。ベーシック・インカム論争(日本ではまだ始まったばかりですが)の問題点は、賛同者がそれぞれの主義・党派から主張していることにあります。もちろん、それは理論的整合性などの点で大事なのですが、それだけだと賛同者の裾野は広がりません。
 この連載記事では、まず、賛同するのに二の足を踏んでいるいろいろな立場の人たちに、ベーシック・インカムの利点を示して、賛同へのネックとなっている考え方を一つ一つ取り除いていこうと思います。それと同時に、ベーシック・インカムの思想的な意義を述べたいと思います。実は、この二つは両立しがたいところもありますが、同じことの裏表でもあります。というのも、最大のネックは前にも書いたように、近代に創りだされた(たかだか200年間の)「労働倫理」(「働かざる者食うべからず!」)にあるからであり、ベーシック・インカムの思想的な意義は、この労働倫理の放棄と、経済の社会への再埋め込みにあります。つまり、労働倫理の賞味期限が切れていることを示すことができれば、最大のネックが外れるというわけです。
 しかし、思想的な意義については次回以降に述べることにして、今回は、まず、具体的なさまざまな利点の提示とその他の細かなネックの取り除きをしておきましょう。ただし、それを述べる前に、どのようなベーシック・インカムを想定するかを明らかにしておく必要があります。たとえば、月額3万円の基本所得と月額12万円の基本所得ではまったく違った制度になってしまうからです。ここでは、小沢修司さんの試算である「所得税率50%で1人月額8万円」というベーシック・インカム*3をもとに、もう少し生存最低保障ということを考慮して、「所得税率50%で1人月額10万円」というベーシック・インカムを想定しておきましょう。
 小沢さんの試算は、一律税率50%でも、子供1人世帯の収入はほとんど変わらず、2人以上の子供がいる世帯は収入が増え、減るのは子供のいない世帯ということを示すためのものでした。もちろん、一律税率ではなく、累進課税のほうがいいと私は思っていますが、少なくとも1人月額10万円にすると、子供のいないシングルでも減収になる人が減り、合理的なものとなります。これだと、ベーシック・インカムの総額は28.8兆円増えますが、これは相続税の課税を強化することでまかなえます*4
 ここで想定されている50%という税率は、1999年に改正される前の限界課税率と同じです。1989年と1999年に行われた高所得者への減税は、景気対策という名目なので、ベーシック・インカムの景気への効果を考えれば、高所得者への増税はそれほど大きなものという感じではなくなるでしょう。さらに、現在検討されているような景気対策としてはあまり効果の期待できない定額減税や1999年以降行っていた定率減税、さらに少子化対策の子育て手当など、一時的な財政支出の必要がなくなり、財政上は長期的に見れば安定します。
 では、このようなベーシック・インカムを導入した場合の具体的な利点を思いつくまま並べてみましょう。
 1.景気対策
 2.貧困対策
 3.失業の不安の解消
 4.福祉のスティグマ(負の烙印)の解消
 5.失業と貧困の罠の解消
 6.少子化対策
 7.年金問題の解消
 8.雇用のフレキシブル化の促進
 9.ワークシェアリングの促進と労働時間の短縮(働きすぎの解消)
 10.学術・芸術等のクリエイティヴな活動の活性化
 11.シャドウ・ワーク(未払い労働、家事労働や自己投資など)問題の解消
 12.家族と地域共同体の復権
 13.子どもの権利と個人の権利の保護
 14.過疎化対策と農林水産業の復興
 なんか利点だらけですが、よく見ると互いに両立しないようなものもあります(自分で挙げていてなんですけど)。それは、ベーシック・インカムがこれらすべての万能薬などではなく、個別の問題解決の基盤を提供するということを意味しており、それぞれの問題を解決するにはベーシック・インカムと個別の政策を組み合わせる必要があるということです。その部分で何を優先させるかはまさに政治の問題ですが、逆にいえば、ベーシック・インカムが広い層、さまざまな立場の人々に受け入れられる可能性があるということでもあります*5
 それぞれの利点を簡単に説明しておきましょう。1番目に景気対策を挙げておきましたが、もちろん、ベーシック・インカムの最大の利点は貧困対策で、左派の賛同者は新しい再分配のやり方として提唱しています。ただ、それだけを前面に出すと広範な賛同がえられないことと、現在の金融危機に端を発する不況を考えれば、まず、あまり強調されていないけれども、ベーシック・インカムが有効で持続的な景気対策になるということを示しておくのが得策だろうと思い、最初にあげたわけです。現在の主流の経済学者たちは、不況のときの景気対策には、公共投資や減税などの財政政策ではなく、金利を下げる金融緩和政策しかないと主張しています(「リフレ派」というやつですね)。公共投資による一時的な好況や減税などでは、人々が、それによる可処分所得の増加を一時的なものだと予想するために、消費が増えず、景気対策としては効果的ではないとされます。それが正しいとすれば*6 、財政政策で効果のあるのは、恒常的に広くお金を支給することです。死ぬまで1人当たり月額10万円という最低保障があれば(そして相続税の課税を強化すれば)、自分の将来のためや子供に美田を遺すために預金をするのではなく、自分に必要なケアやサービスのために消費するようになるでしょう。
 つぎに「貧困対策」、「失業の不安の解消」、「福祉のスティグマ(負の烙印)の解消」、「失業と貧困の罠の解消」といった利点についてですが、これが生活保護などの現行の社会保障ワークフェア政策(自立支援政策)と根本的に違い、「無条件に給付する」というベーシック・インカムのもつ最大の利点です。近代の「労働倫理」は、働かないこと(怠惰と失業)、施しを受けることについての道徳的スティグマを烙印することで、すべての人々が働いて自立することが自己実現なのだというイデオロギーを広めました。
そのため、福祉社会においても、生活保護などの社会保障を受け取ることが恥ずかしいことだという観念があり、それを受け取る人々をミーンズ・テスト(資力調査)でカテゴリー分けして負の烙印をおして排除していく傾向があります。このため、日本では生活保護を受けとる資格のある人のうち2割程度しか支給を受けていないといいます。また、以前、エアコンを購入したら生活保護がうち切られたという事例もありました。ミーンズ・テストは、カテゴリー分けと負の烙印による社会的排除の方法の一つになっているのです。それに対して、ベーシック・インカムはすべての個人に無条件に同額の支給をするわけですから、カテゴリー分けのためのミーンズ・テストや、働く意思を確かめるテストは不要となり、道徳的スティグマをもつカテゴリーが解体されます*7。これには、ミーンズ・テストのための書類審査や計算等のコストがなくなり、そのために税金を費やす必要もなくなる(社会保険庁などは不要になる)という利点も付随しています。
 つぎに、失業と貧困の罠の解消ですが、これらの罠は失業や貧困に対する「ミーンズ・テスト」つきの社会保障の給付を受けている者が、就労によって収入が増えると税金や社会保険料の支払いが増え、給付が減らされるために、失業や貧困の状態にとどまることを合理的に選択するというものです。しかし、ベーシック・インカムでは、収入が増えても支給は減らされたり打ち切られたりしないために、これらの罠は解消できるというわけです。
 おや、気がつけば、ここまででもずいぶん長くなってしまいました。その他の利点と、ベーシック・インカムの予想される問題点については、次回にしたいと思います。

*1:正確にいうと、さきに後門の狼をなんとか締め出したあと、すでに前門から入ってきていた3頭の虎に前庭で追いかけ回されたあげく、2頭はなんとか出て行ってくれたけど、残りの1頭については、ぎりぎり玄関から家の中に逃げ込んで、いなくなるのを待っている状態ってところ。後門の狼は、雑誌『思想』(12月号)のレヴィ=ストロース生誕100年記念特集の原稿です。11月には発売されますので、檻に入った狼をみてやってください。

*2:いま思ったのだけれど、なんで「ハードルが上がる」って言い方をするのだろう。陸上競技のハードルは上がらんだろうが(上がったら怖い)。障害物という意味のhurdleからきているのかもしれないけど、それももともとは藁で編んだ垣根みたいなものだから、上がりはしないと思うんだけど。高跳びのバーならイメージぴったりなのにね。なんでこんな言い方ができたのか誰か教えて。

*3:小沢さんの試算は、1人月額8万円で年間に必要なベーシック・インカムの総額が115兆2000億円(96万円×1億2000万人)、現行の個人所得税は所得控除のために給与総額222.8兆円のうちの97兆円にしか課税されていないが、基礎控除配偶者控除・扶養控除老年者控除などの所得控除もベーシック・インカムによって不必要となるので、給与総額222.8兆円すべてに課税でき、一律50%の所得税として111.4兆円で、ほぼまかなえるというもの。さらに、現行の社会保障費総額75兆円のうち、労災・保健医療等の除く現金支給約43兆6000億円はベーシック・インカムに替えることができるので、残りは4割程度ですむことになります。

*4:森永卓郎さんは「相続税の課税強化を考えてもいいと思う。相続税が高くなったら、どうせ税金で取られるなら生きているうちに使おう、という金持ちの高齢者も増えるはずです。相続税最高税率は、小泉政権以前は70%だったのに、金持ち優遇政策を取った小泉政権が50%に下げてしまった。少なくても70%に戻すべきです」「試算すると毎年、約90兆円が遺産として残されている。このうち10兆円を基礎控除として、残り80兆円に50%を課税すると40兆円の税収になるはず。ところが、実際の相続税収は1.5兆円しかない。さまざまな節税の手口が駆使されているためです。遺産が1億円以下の庶民や、代々商売をしている自営業者に相続税を課す必要はないが、大金持ちには厳しく課税すべきです」と言っています。相続税の減税や控除を正当化してきたのは、「事業の継承」や「タックス・ヘブンの他国に資産家が流出する」という理由ですが、自営業者の事業継承に控除をすれば、それらの理由はあまり根拠とならないでしょう。また、森永さんの相続税の課税強化は、「遺産が1億円以下の庶民」を対象外にしていますが(これだと90%は庶民になります)、庶民の相続税控除の根拠は「子どもへの愛情」と自分の死後の不安というものでしょうが、これは遺された0歳児でも年収120万円あるのですから、ベーシック・インカムでかなりの部分の不安は解消されますから、庶民への相続税課税の強化も行うことができます。リバタリアン森村進さんは、リバタリアンには珍しく、相続税一律100%を主張しています。けれども、「機会の平等」が保証されてはじめて「結果の不平等」が正当化されるというリバタリアニズムの論理的整合性からすれば、森村さんの主張のほうが正当でしょう。これについては、また次回に述べたいと思います。

*5:フィッツパトリックがヴァン・トリアーの言葉を引いているように、「本当に実現する可能性が生じたときから、……大同団結が失われ、ベーシック・インカムの提唱者間の相違が、敵対者との相違くらい大きくなってしまうかもしれない」という恐れはもちろんありますが。

*6:つまり麻生内閣のやろうとしていることが間違っているとすれば

*7:これが、フリードマンらが提唱した「ミーンズ・テスト」つきの「負の所得税」とベーシック・インカムとの大きな違いです。