子どもに左翼になってほしいと願うこと

 2009年最初のエントリーは、心に残っている言葉を紹介したいと思います。発言者は、アメリカの哲学者リチャード・ローティです。どんどんナショナリストになりつつあるローティの書いていることには批判的になることが多いのですが、つぎの言葉は腑に落ちます。

 デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手をよごしてトイレを掃除してくれる人びとの十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人びとの百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、わたしたちの子供を育てるべきである。最初に産業化した国々が、まだしていない国々の百倍の富を有しているという事実について、子供たちが確実に憂慮するようにすべきである。子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちの運命との不平等を、神の意志だとか、経済効率のために必要な代価とかでなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ必要がある。子供たちは、一方で飢えている人がいるのに、他方で過食の人がいるという事態を確実になくすためには、世界がどのように変わればよいのかについて、できるだけ早い時期に考え始めるべきである。[リチャード・ローティ『リベラル・ユートピアという希望』岩波書店、2002年、263頁]

 要するに、ローティは、子どもたちが「左翼」になるように育てるべきだと言っているわけです。前にもこのブログに書いたように、伝統的な意味での「左翼」というのは再分配による平等を重視する立場であり、「右翼」というのは再分配を否定して不平等を容認する立場です*1。左翼と右翼の違いは、ローティの言葉と、以前紹介した経済学者スティーブン・ランズバーグの言葉と対比させると明確になります。それをもういちど引用しておけば、

 本気で信じるには、所得再配分はあまりにもおかしな話なのだ。
 なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私にはなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。
 もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。[スティーブン・ランズバーグ『フェアプレイの経済学』ダイヤモンド社、1998年、11頁)

 私には、子どもたちに、再分配は泥棒と同じだと考えるランズバーグのような右翼ではなく、ローティのように、左翼になってほしいと願うことはとてもまともなことのように思えます(それは私が「左翼」だからでもあるのですが)。話はそれますが、佐伯敬思さんの『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)を題名に惹かれてパラパラ立ち読みしたら、「保守」と「左翼」とを対比させながら、「親米保守」は改革を謳っているので真の「保守」ではないということが述べられていました。それはそうでしょうが、保守と対立するのは革新であり、左翼に対立するのは右翼です。そして、ナショナリズムは(日本では右翼とされますが)、その2つの対立軸とはまた別のものです。私の立場は、人類学をしているせいもあってか、「保守」で「左翼」で「反ナショナリスト」です。自分では、それが一番まっとうだと思っているのですが。ちなみにこの3つの対立軸を使えば、ローティは「革新・左翼・ナショナリスト」、佐伯さんは「保守・右翼・ナショナリスト」、ネオリベラリスト(佐伯さんのいう「親米保守」)は、「革新・右翼・ナショナリスト*2、佐伯さんのいう「サヨク」は「革新・左翼・反ナショナリスト」ということになるでしょうか。他に「保守・右翼・反ナショナリスト」としては、ネイションよりパトリを(でも自分のパトリ以外では不平等でかまわない)という愛郷主義者がいます。可能性としては、あと2つ、「保守・左翼・ナショナリスト」と「革新・右翼・反ナショナリスト」が考えられますが、現実にはあまりいないようです。
 閑話休題。もちろん、上のローティの言葉にいろいろ突っ込むことも可能です。実際にローティがトイレ掃除をしている人の十倍の報酬をもらっていて余裕があるからそんなことがいえるのだとかね(ローティがどれだけの報酬を得ているのかは知りませんが)。しかし、自分の子どもたちに、十分の一の報酬しかもらえない立場になることを願うことはふつうしないでしょう。けれども、たとえそのような恵まれた立場になっても(それは親の願いとして当然です)、そのような不平等に憂慮する子供たちが増えることは、不幸にも子供たちが恵まれない立場になったときにも、その不平等をなくしていくことにつながるわけですから、合理的ではあります。
 しかし、子供たちに左翼になってほしいと願うことをまともだと感じる人たちが減っていることも確かでしょう。バーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』(東洋経済新報社、2006年)は、コラムニストでもある著者が実際にいろいろな低賃金労働者となってアメリカのワーキング・プアの実態を描いた、いわば人類学的な手法によるルポルタージュですが、この本で印象的なのは、ホワイトカラーの中産階級の人々が同じオフィスなど身近で働く低賃金労働者に対して、ほとんどそこにいない人のように扱うというものでした。この無関心は、「十倍の報酬をもらっているということに耐えられない」という事態を回避するためのものというより、エーレンライクによれば、そもそも同じ人間として見ていないことからきているようでした。
 ところで、年末から正月にかけての「派遣村」に対するウェブ上での「反発」は、論評している人の多くが推測しているように、十倍も百倍も報酬がある人たちによるのではないのでしょう。そのような「余裕のある人々」が無関心となっている一方で、余裕のない人たちは、無関心ではいられず、「反発」という反応を示すことで、「あなたとは違うんです」ということを自分に言い聞かせなければならないのかもしれません。
 私は、無関心よりも反発のほうが反応しているだけましと思っていますが(その反応は、社会の「装置」さえ変われば、強い連帯に変わりうるものだからです)、いずれにしろ、いまのところ、ローティが言うような、「子どもたちを左翼に育てなければならない」という願いは他の多くの人のものになっていないようですが、それをまともだと思う人はこれから多くなるような気がします。多くの人が無関心でいられなくなったことはその第一歩であるはずですから。

*1:ローティは、同時に、マイノリティの文化的な権利を主張する「文化左翼」に対しては、マジョリティの中にいまだにある経済的不平等や存在論的不安から目を背けてしまい、ネオリベラリズムに利することになっていると批判しているのですが。その意味ではローティは伝統的な左翼だといえるでしょう。

*2:この「革新・右翼・ナショナリスト」はナチズムの立場でもあります。ネオリベラリズムとナチズムの主張内容が同じということではありませんが、この3つの対立軸で整理すると親和性がみられるということです。