評価することと愛することは同じ場ではできない

11月12日のエントリーに対して、きょう、さちがさんから以下のような2回目のコメントをいただきました。それに対する応答をコメント欄に書こうとしたのですが、あまりに長くなったのと、コメントと関係のない脱線が多くなったのでエントリーにしちゃいました。

さちが (116.0.185.121)
小田さんも「まあ、こういう言い方自体が反感を招いて、逆効果になるのでしょうけれども」と書かれているように、反感を招いて、逆効果にならない言い方の工夫も必要だと思います。
工夫の仕方は簡単です。相手を見下した心構えを捨てればよいです。
さだましの歌ではないですが「お前の親と俺の親とどちらも同じだ大切にしろ 姑 小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい」

歴史修正主義という言葉の使い方も難しいですね。「歴史修正主義が論理的な議論のためのもの」として使いたい場合と、歴史修正主義が「コミンテルン陰謀史観」のようなものなので「悪い女に騙されたんだよー、と泣きごとを言っている」という風に使いたい場合では歴史修正主義に形容詞が必要ですね。歴史修正主義に反対すると言っても意味が不明になりますね。

「くだる」とか「程度が低い」とかの判断は判断の尺度がないと決めにくいですね。判断の尺度が一般的であれば皆に受け入れられますが、独自の判断の尺度の場合は皆に受け入れられることはありません。
この判断の尺度を作るのがとても難しいです。この頼りになる尺度を作ってくれた先人には感謝します。科学の世界では当たり前の尺度もそれ以外の世界ではなかなかいい尺度はありません。人間が科学を超えているからでしょうか。

私は小田さんが言論の自由の定義をうまく表現されたように、論理的にかつ痛快に自己表現されることを期待します。
田原総一朗氏の「田母神論文」問題の本質は“決起”の危険性(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081113/112209/)に指摘してあるような危惧もありますから。

さちがさん、ご返答ありがとうございます。通りすがりの人でなくて幸いでした。
 また、「相手を見下した心構えを捨てればよいです」というご忠告までしていただいて、ありがとうございます。さだまさしの歌詞を引用して何を言いたいのかはさっぱりわかりませんでしたが。まさか、田母神氏を姑さんのように「愛すればいい」とおっしゃっているわけではないですよね。顔も合わせることのない人を愛することなどできないでしょう。

 人をある尺度で(それが単に科学の尺度だけでなく他の複数の尺度でも)測ることと、人を愛することは両立しないことではないでしょうか。言論の自由が守られなければならない公共的な場(要するに知らない人たちとのコミュニケーションの場)では、なんらかの尺度で人やモノを評価することを迫られますが、その評価が単なる一つの尺度によるものすぎないことと、それと、顔を知っている人たちとのつながりの場で人を愛することとは、相反することだということ、それを念頭においておくことは大事でしょう。
すべての場が、人をなんらかの尺度で評価するような場(レヴィ=ストロースはそれを非真正の社会と呼んでいます)ではないこと、人の複雑性をそのまま理解できる場(真正な社会)がそれとは別にあること、そのような場でこそ人は人を愛せること。それを逆にいえば、なんらかの尺度で人やモノを評価することを迫られる非真正な場、公共的な空間で「みんなに愛されたい」と思って評価を下さないのも、その二つの区別を混同してしまっていることになるのでしょう。まあ、私も「みんなに愛されたい」と思わなくはないですが、知らない人たちみんなから愛されるっていうのは、「偶像(アイドル)」としてであって人としてではないですからね。
 そのことは、ネットのなかのブログを公共圏と思うか親密圏と思うかで分かれるのかもしれません。現実には見知らぬ不特定の人に公開しているブログは、定義からして公共圏でしかないのですが、現実の親密圏で愛されているという実感がわかずに、ネットをその代わりの親密圏と思うこともあるでしょうから、人やモノに断定的に評価を下すと「上から目線」批判というものも出てくるのかもしれません。

 さて、さちがさんのコメントに戻りましょう。田母神氏の「論文」をさちがさんご自身がどのように評価しているのかを書いていらっしゃらないので、結局、どういうことをおっしゃりたいのかもわからないままなのですが、「独自の判断の尺度の場合は皆に受け入れられることはありません」と書かれているところを見ると、別の判断の尺度で評価なさっているのでしょう。
私が田母神氏の「論文」を「くだらない」「程度が低い」と判定したのは、ちょうど査読や学生の論文の評価のように、論文としての尺度で判断したわけです。そして、その尺度は「独自の判断の尺度」というより、皆に比較的受け入れられている尺度です。
 さちがさんも「科学の世界では当たり前の尺度もそれ以外の世界ではなかなかいい尺度はありません」と書いておられるように(おそらく自然科学を念頭においてのことでしょうが)、人文科学や社会科学でも「論文」というものを評価する尺度という意味では、だいたいみんなに受け入れられる尺度は存在しています。学生の論文や査読では評価はたいてい一致するものです*1
 もちろんそのような尺度による評価は「人に対する評価」ではありません。そして、いろいろな尺度があることの大切さは前のエントリーでも述べてあります。ただし、それは複数ある尺度のうちの一つの尺度での判断ができないということを意味するものではありません。また、そのような尺度による「程度の低いくだらない論文」という評価が「人を見下す」ことではないことは言うまでもありません。ただし、評価すること自体が「上から目線」であり「見下す」ことだというのであれば、それは「上から目線」には違いありません。
ただ、繰り返せば、それはその人全体としての評価ではなく、その意味では「人を見下して」いるわけではありません。論文がくだらないと言っているにすぎないのです。その人全体を論文の出来やボール投げや早食いといった一つの尺度で評価できるわけはありません。
 田原さんの記事を貼っていらっしゃるところを見ると、田母神氏の「論文」を評価なさっているわけではなくて、「くだらない」としか言わないのはその危険性を見過ごしているとおっしゃりたいのかもしれません(書かれていないのでそれもわかりませんが)。でもそれは、政治的な危険性という別の尺度で評価しているだけになります。その評価によって論文としての「くだらなさ」がなくなるわけではありません。ただたんに、「論文としてはくだらないけれども、しかし」と言って、その危険性を指摘なさればすむことです。

 また、さちがさんは、「『歴史修正主義が論理的な議論のためのもの』として使いたい場合と、歴史修正主義が『コミンテルン陰謀史観』のようなものなので『悪い女に騙されたんだよー、と泣きごとを言っている』という風に使いたい場合では歴史修正主義に形容詞が必要ですね」と書かれていますが、そんなことはありません。わたしが「歴史修正主義」と呼んでいるのは「論理的な議論のための歴史修正主義」ではなく、学問の尺度では認められないような「歴史修正主義」だけですから、別に区別する必要はないのです。「論理的な議論のための歴史修正主義(歴史の見直し)」って、学問としての歴史学のことですから、歴史学として議論すればいいわけです。私が言っているのは、もし、歴史修正主義者が「論理的な議論のための歴史修正主義」を目指すのであれば、田母神氏の「論文」を批判しないと一緒にされてしまいますよということですから、私がその区別の必要性を説いているのではありません(お読みになればわかるように、私は一緒にしています)。さちがさんが区別が必要だとお思いならば、それこそご自分で区別して、「コミンテルン陰謀史観」のようなものを「くだらない論文」だとおっしゃってはいかがですか。前のコメントの応答にも書いたように、《そのような批判が自虐史観批判者=歴史修正主義者から出てこないことが、歴史的事実の解明や論理的議論をしたいのではなく、他の欲望や不安によって主張しているとみなされる大きな原因なのですから》。

 けっきょく、さちがさんが明解におっしゃっていないので、何を言いたかったのか推測しながらになってしまい、ながながと書くはめになってしまいました。明確にしたかったことは2点で、ひとつは、論文としての評価は「皆に受け入れられることはない独自の評価の尺度」ではないこと、しかし、それは人への評価ではないし、他の評価の尺度を否定するものではないこと、もうひとつは、何らかの尺度による、ある限られた評価と、その人を愛することとは両立せず、別の場・空間でなされること、その「場・空間」の区別が大事だということ、人の複雑性全体を受け入れるのは後者の場で可能なことであって、そこでの人間理解や「愛」や「しがらみ」といったものを、前者の非真正な公共圏(ここでこそ「言論の自由」が重要になります)に持ち込むことはできず、「上から目線」という反発(さちがさんが反発しているという意味ではありませんよ、念のため)も、それを混同しているということ、その2点です。
 まあ、さちがさんも私の言っていることには評価を加えたうえで「上から目線」で忠告してくださっていますから、そこではそういう言い方がありだということがおわかりなのでしょう。だとしたら、田母神氏の「論文」への評価もきちんと論理的にお書きになることを期待します。

*1:一致しないときは、論文としての尺度以外の尺度をいろいろな事情で入れてしまっている場合がほとんどです