祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日

 きょう11月28日は、クロード・レヴィ=ストロースの100歳の誕生日です。予定原稿でも作っておいて気の利いたことでも載せればよかったのでしょうけれども、行き当たりばったりで。
 主著の『神話論理』の最終巻(神話論理4)の第一分冊の『裸の人1』はようやく誕生日に間に合って刊行されたようですが、『裸の人2』は来年の4月ごろになるようです。これで『神話論理』4部作の翻訳が完結しますが、なかなか読む人は少ないでしょうね。もっと短く読みやすい神話論である『大山猫の物語』が翻訳されるといいのですが。原著の『裸の人』が出版されたのが1971年ですから、70年代に翻訳が出ればもっと読まれたでしょうが、もっとも「構造主義」ブームという形で消費されて忘れ去られてしまうよりは良かったのかもしれません。レヴィ=ストロースの思索は、「現代思想」として消費されてしまうものとは無縁の、消費されつくせないものを示しているのですから。若い頃はつい思想の流行を追ってしまいがちですが(私も若い頃があったのでよくわかりますが)、レヴィ=ストロースと出会ったおかげで、ぶれない座標というか足場を得ることができたのは幸運でした。
 レヴィ=ストロースが長年の研究を通じて伝えているのは、人類の誕生以来の思考の仕方は変わっておらず、それは、他者とのあいだの無意識の交通、つまり「思考の交換と変換」によるのだというシンプルなものでした。その不変の思考のやり方が「構造主義」と呼ばれるものです*1。そのような無意識の思考を、「言葉にできないもの」とか「形にならないもの」と神秘化せずに、形式化によって明らかにしたところに、レヴィ=ストロースの天才があったのですが。
 私の好きなレヴィ=ストロースの言葉は(本当に行き当たりばったりになってきましたが)、『神話論理1 生のものと火を通したもの』(みすず書房)の「序曲」にある次のような言葉です。

 神話分析の目的は、人間がいかに考えるかを示すことではない。そうではありえない。わたしが本書で扱う個別的事例においては、中央ブラジルの先住民たちが、自分たちを魅惑する神話物語を思いつくのみならず、わたしの分析の結果である関係の体系を実際に思いついているのかどうかは、少なくとも疑わしい。そしてそれらの神話を手段にして、わたし自身の俗語の、古風であったり比喩に富んだりする言い回しの妥当性を認めるとき、同じ指摘を必ず受けることになる。なぜなら、外側から、外国の神話の制約のもとで、過去を振り返っての意識化が、わたしの世界でおこなわれるからである。わたしは、ひとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。(『生のものと火にかけたもの』20頁)

 この言葉は、一見すると、神話を語っている中央ブラジルの先住民たちが気づいていない「思考」を、研究者であるレヴィ=ストロースが分析して示すという、先住民たちに主体を認めないオリエンタリズムと同等の傲慢さを示していると思われるかもしれません(実際、そう解釈する人もいます)。しかし、まったくそうではありません。未開社会の思考をあたかも歴史の高みから全体を眺めて把握できているかのように語るサルトルレヴィ=ストロースが批判したのは、そのような傲慢さを突いたのでした。神話的思考の意味は、語っている人々が頭の中に所有しているのではないと同時に、分析しているレヴィ=ストロース自身も所有してはいないのです。さらに、それは、神話の中にもありません。それは、「神話のあいだの交通」においてしかなく、誰も所有できないのです。
 これは、とても奇妙なことに思えるかもしれませんが、人類にとって、なにも奇異なことではありません。たとえば、ドラゴンズの荒木選手と井端選手が、二遊間に飛んだゴロを、荒木選手のグラブトスを受けた井端選手が一塁に投げて打者走者を刺すプレーを例にすれば(なんで野球の、それもドラゴンズの譬えなんだと思ったあなた、最後まで読みなさいね)、このプレーは高度な能力なしにはできません。しかし、この「能力」は、井端選手も荒木選手も「所有」できません。じつは、人間の思考も能力もその多くが(頭の中だろうとからだの中だろうと)、自己所有できないものなのです。それは特定の他者との交通のなかにしかないからです。
 レヴィ=ストロースは、そのことを「野生の思考」や「神話論理」を例にとって示して、そのような人類の普遍的思考という視点から、意味や能力は自分の頭やからだのなかにあるとする近代的な「主体」という捉え方を根本的に批判したのでした。しかも、少しも神秘主義ないし不可知論に陥ることなしに、いわば数学的にそれを示したわけです。この自己所有・自己決定という「主体」や、確固たる自己というアイデンティティの追求からくる「存在論的不安」が、現代になってますます大きくなってさまざまな問題を招いているとしたら、主体やアイデンティティ抜きに、しかも不変な人類の文化に根ざした思考という、レヴィ=ストロースが明らかにしたものは、いまのわたしたちへのかけがえのない贈り物ではないでしょうか。
 

*1:つまり、「構造主義」は人類の普遍的な思考法であるわけですから、「ポスト構造主義」といういいかたは、(現代思想の流行という以外には)意味不明なものとなります。