『新型コロナ19氏の意見』の2人の人類学者のエッセイを読む

 再開以前はこのブログの読書ノートに人類学の本は取り上げないという方針でした。それは、専門的になりがちだからという理由と、人類学の文献については大学のゼミで取り上げたり授業のなかでコメントをしたりしていたからでした。けれども、今後は人類学の本も取り上げていこうと思います。

 今回は、執筆者の一人である猪瀬浩平さんから贈っていただいた以下のブックレットを紹介します。猪瀬さんありがとうございました。

農文協編『新型コロナ19氏の意見:われわれはどこにいて、どこへ向かうのか』(農文協ブックレット21)農山漁村文化協会
ISBN978-4-540-20137-0

 このブックレットには、4月上旬に書かれたり聞き取りされたりした19人の論考やエッセイが収められています。新型コロナウイルスについての専門家とも言えるウイルス学者や感染症学者も寄稿しているとともに、農文協らしさとも言うべき新自由主義的グローバリゼーション批判や都市文明批判、そして現在の日本社会批判を展開する論考も多くみられます。
 しかし、ここで紹介したいのは、2人の人類学者、磯野真穂さんと猪瀬浩平さんのエッセイです。その二つの論考が、他の文明論的な視点やグローバル化論、国家レベルの議論とは際立って異なっており、そのことが人類学的視点のユニークさを示しているように思うからです。
 最初に磯野真穂さんの「不要不急とは何か」という論考から紹介しましょう。磯野さんはまず、「不要不急の外出を控えましょう」という一色に染められた声に対する違和感を述べています。そこには個々人の事情によってそれぞれ異なるはずの「不要不急」が感染から健康を守るという単一の目的に吸収されてしまっています。そして、私たちは、「これくらいなら大丈夫だろう」という自分の身体感覚に従って行動しているのではなく、専門家の言葉と疫学者の導く予測に従っています。そのことを磯野さんは、メディアに流れる数字や統計予測や映像といったデジタルを媒介にした情報に身体が負けたと表現し、次のように言います。

身体のあれこれが数値化され、そして統計によって未来の予測が立てられ、それに従うよう求められる。この兆候は20世紀後半からあった。そしてとうとうその眼差しが世界を席巻した。統計と映像が、健康を掲げて身体を駆逐したのである。感染拡大予防の名のもとに個人情報が収集され、安全な道順がスマホで逐一提示される日も近いかもしれない。[52頁]

 この「数値vs身体」という対比は、すこし読み替えれば、デジタルの数値の「一般性」と個々の事情を抱え他の身体と間身体的につながっている身体の「単独性」との対比であり、精神科医木村敏さんのいう自然科学が客観的に認識する公共的な観点からみた現実としての「リアリティ」と「それに関与している人が自分自身のアクティヴな行動によって対処する以外ないような現実」としての「アクチュアリティ」の対比(木村敏『心の病理を考える』岩波新書)と言えるでしょう。
 そして、磯野さんは、「不要不急の先で私たちが守ろうとしているものは、人命第一という薄っぺらなモラルに包まれた科学と人間のインテリジェンスへの狂信に私は見えてしまう」[53頁]と述べています。それに対して、磯野さんが対置しようとしている希望は、思考停止を強いるわかりやすく明確な疫学的な正しさによる指示などではなく、曖昧な言葉でしか語ることのできないそれぞれの生きかた中で、自分たちでなんとか社会を維持していく自治のあり方のように思います。磯野さんはつぎのような言葉で終えています。

私たちにとって必要火急なのは人工呼吸器でも、集中治療室でもない。ウイルスの恐怖の前に吸い取られつつある、自ら考える力と他者への信頼こそが必要火急である。ありきたりの言葉であるが、このありきたりがこれほどまでにあっさりと失われることを私たちは今、目にしているのではないだろうか。[54頁]

 ところで、磯野さんは、BuzzFeed Newsに4月5日に掲載された「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」というインタビュー記事(これが本ブックレットの編集者の目に留まり、寄稿依頼が来たそうです)のなかで、つぎのように言っていました。

私が感染拡大の議論を聞いていて疑問に思うのは「命と経済」の対比です。でも私は、これは『命と経済』の話ではなく、『命と命』の問題だと思うのです。どういうことかというと、感染拡大を止めるという目的に添い、普段の生活を諦めている人たちの命も同じように危険に晒されているということです。
コロナにかかって亡くなりやすい人たちと、その人たちを守るためにこれまでの生活を諦めている人たちの命の両方が危うい状況になっている。その双方が「弱者」です。(中略)
そして、その生活が回らなくなれば当然かれらの命は真綿で首を絞められるように危険に晒されていくでしょう。

 この「命と経済」ではなく「命と命」の問題だという言い方は、このブログの「人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(1)」で触れた「命を救うために経済を回せ」という経済至上主義者たちの言い方と重なるのが気になります。そこでも述べたように、「命vs命」の問題点は、COVID-19によって脅かされる命を守れという「命ファースト」の自粛の主張も、不況で脅かされる経済的弱者の命を守れという「経済を回せ」という主張も、命が一般化・数量化されており(公共空間やシステムにおいてはつねに命はそのように扱われます)、ただシステムの維持や強化のために利用されるものとなるということにあります。前者の命は「惨事便乗ファシズム」や「IT監視国家」へと利用され、後者の命は「惨事便乗資本主義」に利用されてしまいます。
 もちろん、磯野さんの言いたいことはそれらとは逆の主張のはずですが、「命と命」の問題だと置きかえるだけでは、そのようなシステムの強化に利用される恐れがあるということです。「命と命」をもう一回、「一般化・数量化された命vs単独性のある命」という対比までずらす必要があるでしょう。死者の単独性を守ること、その死者を弔うこと、それが大事になります。
 もうひとつの論考、猪瀬浩平さんの「『病気はまだ、継続中です』:分割/連帯を生み出すために」では、この「死者の単独性」や「生者の単独性」ということが明確に扱われています(単独性という語は使われていませんが)。
 猪瀬さんも、新型コロナウイルス感染について語ったり語られたりする言葉にたいして違和感を覚えていたと言います。そして、猪瀬さんはそれが固有名と結びついていない語りだからということに気づき、そこでは「私の身体も、私の経験も、今は私のものではないように感じている」[99頁]と述べ、「であるのだとしたら、今必要なのは、私の身体を、私の経験を如何に取り戻すのかということであり、他者の身体を、他者の経験を如何に生々しく感じることなのだ」[99頁]と言います。
猪瀬さんはここで意表を突く例をもってきます。愛知県で3月4日にPCR検査で陽性になった男性が県の自宅待機の指導を受けたにもかかわらず、その日の夜、近くの飲食店を訪れ、「ウイルスをばらまいてやる」と言い、従業員に感染させた出来事です。当然、メディアでは強い非難の声があがりました。男性は3月18日にもともと罹っていた重い持病で死亡します。猪瀬さんは、自宅待機の要請を受けても、飲食店に行ってしまう人の理由や事情を考えます。自分の周りの人たちのことを考えても、自宅待機を要請されて安全に自宅にいられる人ばかりではないのではないかと。そして、つぎのように言います。

自宅待機を守らずに外出した男性を批判し、断罪するのは容易だ。しかし、それだけでは、今、本当に何が失われているのかに目を背けることになる。匿名の「無責任な人間」ではなく、固有名を持った一人の存在として、彼を感知すること。それが、実はコロナウイルスが奪うことに対する抗いなのだと思う。[100頁]

 この「匿名の『無責任な人間』」と「固有名を持った一人の存在」の対比は、メディアにおいて固有性を剥奪され一般化された存在というリアリティの相と、真正なレベルにおいて単独性をもった存在というアクチュアリティの相の対比と言っていいでしょう。
 さらに、猪瀬さんは、死が「私だけの経験」という単独性をもつものであることを指摘したあと、「死が私だけの経験であるということは、しかし、『私だけの死』に向かっていくもの同士の連帯を生む」[101頁]と言います。そして、そのような「連帯」を、上野俊哉きだみのる論(『思想の不良たち』岩波書店)で使っている「分割partage」という用語(もともとはジャン=リュック・ナンシーが『無為の共同体』などで提唱した用語)で説明します。すなわち、死という経験は共有しようとしてもできないものであり、絶対に分かち合えないものです。しかし、他に何も共有するものがなくても、この分かち合えないものによってそれぞれが分割されつつ、そのような自分でしか受け取れない出来事を分かちもつことによって、かろうじて〈共同性〉は成り立っていると。
 この「分割=分かち合い」は、ネグリとハートが〈コモン=共〉は単独性同士のあいだにしか作られえないと述べたことに通じているでしょう。猪瀬さんは、4月にケアが必要となったお祖母さんの病院をお母さんと訪問する道すがら、車の中で「祖母がかつて私に話してくれた曽祖父の話」、すなわち曽祖父の妹さんがスペイン風邪で亡くなったという話をします。「それがパンデミックということを、私が身近に感じる唯一の話」だからです。また、お母さんはお祖母さんからその話は聞いていなかったといいます。継続中のパンデミックの中で、猪瀬さんはお母さんと半日一緒にいて様々な不安を語り合うことで、その存在をあらためて強く感じたと言います。つまり、親族という〈共同性〉もあらかじめ親族という共同体があるのではなく、「曽祖父と妹、祖母、母、私はそれぞれに分割されながら、しかし、自分でしかうけとれない出来事を分かちもつことによって、かろうじて親族という〈共同性〉は成り立つ」[102頁]というわけです。
 固有名によって示される単独性は、それを分かちもつというトランザクションによってそのつど、本源的な連帯としての〈コモン=共〉を生成していきます。それはメディアにおける匿名の存在が直ちに公共的なものになって(すなわち単独性を消去して)、個々人の事情を内包した〈コモン〉を阻害してしまうのと対照的です。
 猪瀬さんは、最後につぎのように述べています。

「感染者」や「コロナウイルスによる死者」という匿名の存在としてひとくくりにくくられるのではない、継続中の災厄に対峙するもの――そこには死者もいれば、これから生まれてくるものもいるだろう――が、それぞれの経験を分割するなかでうまれる、共同性であり、連帯である。[103頁]

 その作られ続ける共同性や連帯こそが、私の経験や私の身体を、私のものではないかのように奪ってしまう匿名の存在からなるリアリティの世界で、私の経験や私の身体を奪い返してアクチュアリティを取り戻すための基盤となるのだというわけです。

 さて、磯野真穂さんと猪瀬浩平さんの論考を紹介してきましたが、この二人の新進気鋭の人類学者の視点・眼差しは、手前味噌になりますが、私が近年主張しつづけている、人類学は客観的・公共的なリアリティではなく、単独的なアクチュアリティを扱うものだということを、見事に示してくれているようで、心強く感じています。そして、アクチュアリティや単独性が現れるのは、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会」においてのみだということも示していると思いますが、それこそが人類学の独自の視点なのです。先に触れた「命vs命」という議論は、どちらの命も非真正な社会、すなわち科学や法律やマスメディアという一般化された媒体によって結ばれた社会におけるものだという意味で、非真正性(まがいものらしさ)を帯びています。それらに対して、真正な社会における「単独性のある命」を対置することが人類学に求められていることであり、「コロナ禍」を人類学的に考えるうえで欠かせない視点だろうと思います。