「新しい日常」と具体的な他者への配慮としての倫理

 また、COVID-19の話です。タイトルは別にしましたが。

 さて、東京都など首都圏4都県と北海道に出されていた緊急事態宣言も解除されることになりました。気持ちや行動をどのように変えればいいのか(しかも段階的に!)、よく分からないというのが正直なところではないでしょうか。そこには戸惑いとともに、気持ちのざわつきもあります。
 小説家の村田沙耶香さんが南ドイツ新聞に寄稿しているという「パンデミックな日々、日本にて」という連載コラム(文春オンライン)の6回目のコラムに、自粛解除・緩和にともなう戸惑いについて、次のように書いています。

 少し前まで、自分はウィルスを持っているかもしれないと考えて行動することが 「正しい」という感覚が東京では一般的だった、と思う。(中略)私自身も、「今、自分はウィルスをばらまいているかもしれない」と思いながら暮らしていた。大切な人には会わないことが愛情だと思い、家族の顔も当然見ていない。
そんな生活に、突然「緩和」という言葉が飛び込んできて、戸惑っている。私が一番怖いのは、両親や大切な人に自分が感染させて、失ってしまうことなので、「自分は今、ウィルスを持っていない」と急に信じるのは、なかなか難しい。

 たしかに、「自分が感染者である」かもしれないことを前提とした他者への配慮が求められていたように思いますし、メディアでもそのような行動が推奨されていました。村田さんが言っているような、両親や大切な人という具体的な他者への配慮は、正しい意味での「倫理」と呼びうるものです。マスクをするという行為は、そのような倫理に基づいています(それはうつされることの予防ではなくうつすことへの予防なのですから)。つまり、多くの人たちは指示されたから自粛していたのではなく、自分がウィルスに感染しているかもしれないと考えて、大切な人を守るには自分たちでどうすればいいのかを判断していたから、自粛できていたのでしょう。
 もちろん、すべての人がそのような倫理を身につけていたわけではありません。医療従事者や宅配をしてくれる人たちにコロナをもってくるなと暴言を吐いたり差別したりする人がいると報じられていました。また、盛り場などに集まっている若者たちの中には、メディアの取材に対して、「一人暮らしで、感染しても誰にも迷惑をかけないから」と答える人もいました。そのような人たちは、自分がウィルスを持っているかもしれないとは考えていないわけです。他県のナンバーの車を攻撃する人たちも、そういった倫理とは無縁なのでしょう。けれども、そのような人たちが間違っているとされるのは、多くの人たちが、自分が感染者であるかもしれないと考えて行動していたからだと言えます。
 もっとも、そのような「他者への配慮」としての倫理からくる行動規範だけではなく、他者から感染しないための実利的な行動規範も喧伝されていました。その典型が、手洗いや消毒の徹底です。とりわけ、医者などの医療従事者がメディアで、私たちはこのように感染を防いでいますという形で、広めていたように思います。医療従事者やスーパーの店員、宅配便の配達人など、他人との接触を削減できないエッセンシャル・ワーカーたちに必要な心構えが、「自分が感染しない」ということであり、ウィルスを持っているかもしれない他者から感染を防ぐためにこまめに手洗いをして、外出から帰ったときに玄関で服も脱ぎ捨てて洗濯機にという行為が必要となります。フェイスガード(あるいはN95などの医療マスク)や防護服が必要なのもこのようなエッセンシャル・ワーカーたちです。
 この二つの行動規範のあいだの齟齬や矛盾は、外出自粛ができている間は表立たないと言えるかもしれません。人に会わないことと自分が感染者であるかもしれないという考えとはすんなり適合するからです。しかし、買い物などに外出して少しでも人と接触すると、二つの行動規範の間に亀裂が生まれます。自分はウィルスを持っているかもしれないからマスクをしてなるべく他の人にうつさないように大声も出さないという行動をとる一方で、他人の持っているウィルスに自分が感染しないように手を消毒するというように。そして、外出自粛が解除されたときに、この二つの間の切り替えをどうすればよいのかという問題が生じます。最初に述べた気持ちの「ざわつき」はこのような亀裂・矛盾というか、どっちつかずの状態からくるように思います。
 村田さんはまだ40代前半ですから、自分が感染者であるかもしれないと考えて、両親など親しい人にうつさないようにという気持ちが先にくるのでしょう(メディアで「自分が感染者であるかもしれないことを前提にして行動しましょう」と呼びかけられたのも若者相手だったと思います)。しかし、特に65歳以上の高齢者で45年くらいの喫煙歴があり糖尿病の既往症もある私などは、重症化する典型的なパターンに当てはまりますから、うつさないようにという気持ち以上にうつされないようにと考えます(村田さんの親の世代になるわけですから)。その気持ちが、自分が感染者であるかもしれないということに基づく倫理(=他者への配慮)と相容れないので、気持ちが「ざわざわ」するのでしょう。
 自粛解除の先にある「新しい生活様式」や「新しい日常」(ニュー・ノーマル)という行動規範が問題を含んでいるのは、そこにあるのが疫学的なリスク計算だけであり、その行動規範をどのような倫理(他者への配慮)で支えるのかということがまったく考えられていないことにあります。「今、自分はウィルスをばらまいているかもしれない」と思うのか「自分は今、ウィルスを持っていない」と急に信じるのか、そういった倫理とは無関係な疫学的な真理であるかのように主張されているわけです。しかし、そのような行動規範は、基盤にある他者への配慮としての倫理によって支えられなければ、ウィルスをもつ他者への差別・排除へと容易に転化するのではないのかと思います。

 

 話は変わりますが、22日のCNNの配信のニュースで、スウェーデン公衆衛生局は首都ストックホルムの住民を対象におこなった抗体検査で、抗体保有率が7.3%にとどまるという結果が出たと発表しました。まず、この数字の意味を述べる前に、スウェーデン式と呼ばれている独自の対策について、これまでの経緯を見ておきましょう。
 スウェーデンは、ロックダウンも入国規制、外出規制もせず、飲食店やスポーツジムなどの休業要請もしないで、学校も休校しないなど、独自の対策を講じて、注目を集めていました。まったく対策を呼びかけないわけではなく、政府は、ソーシャル・ディスタンシングとして人と1.5m離れる、集会は50人まで、高齢者施設の面会禁止、発熱や咳などの症状がある人や70歳以上の高齢者は自宅待機、スポーツイベントや美術館などは中止、といったことを要請しています。しかし、日本と同様にこれらは要請であり法的拘束力も罰則もありません。人びとはマスクもしないで外出したり経済活動を続けたりしています。
 当局は、これらの緩い対策は「集団免疫」を目指すものではないと明言していますが、軽症者の入院措置もせず、重症化した患者に対するICUなどの医療設備を十分に確保しつつ、感染が広がることを容認していることも確かです。これらの対策を主導していて、スウェーデンのコロナ危機対策の顔になっている公衆衛生局の首席免疫学者であるアンデシュ・テグネル氏は、ソーシャル・ディスタンシングなどの要請は感染爆発による医療崩壊を避けるためのもので、できるだけ通常の経済活動、消費活動をしながらコントロールしていく政策と集団免疫を獲得することとは矛盾しないと述べていました。そして、テグネル氏は、5月初めには、ストックホルムの住民の最大25%が免疫を獲得しているという推計を提示し(市内のある病院の調査で職員の27%が抗体保有していたこと、その多くが院内感染ではなく市中感染によると推測したため)、5月中には集団免疫が達成できると予測もしていました。
 ただし、ロックダウン政策をしている近隣の北欧諸国(ノルウェーフィンランドデンマーク)に比べ、当初から死者数が多かったことから、国内でも批判はありました。ちなみに、22日現在のスウェーデンのCOVID-19の死者数は3925人で、人口1万人当たりの死者数は3.85人となっており、アメリカ合衆国の2.97人を上回っており、世界の中でもワースト10位に入っています。同じような条件と見られる近隣諸国では、ノルウェーの死者数235人で人口1万人当たりの死者数は0.44人、フィンランドは死者数306人で人口1万人当たりの死者数0.55人、デンマークでも死者数561人、人口1万人当たりの死者数0.97人と比べて、北欧諸国では突出しています。そのため、4月初頭には、政府の対策に批判的な著名な科学者22名が感染防止策の強化と、疫学の専門家ではなく政治家による政策決定を求める公開書簡を大手新聞に発表しました。また、3月までは同じく専門家の指導を受けて集団免疫を目指す政策をしていたイギリスのジョンソン政権が、集団免疫を獲得するまでには死者27万人と予測されるという発表や英国免疫学会からの批判などで政策を転換したことなどもあり、批判は広がっていきました。
 けれども、テグネル氏は記者会見などで失敗は失敗と率直に認めて、あくまでも科学的に、疫学的な根拠に基づいて政策を分かりやすく伝えているため、氏への市民の信頼や人気は高くなり、ロックスターのようにファンクラブまでできているそうで、実際、4月半ばの世論調査では、テグネル氏を信頼していると答えた人が約7割だったと言います。
 テグネル氏は、5月6日の「ザ・デイリー・ショー」というテレビ番組に出演し、6日の時点でCOVID-19の死者数が2700人を超えたことを受けて、「死者の増加は大きな驚き」で「大変憂慮している」と述べ、ロックダウンなしの戦略はより多くの死者を出すための決定ではなく、もちろんこのような大きな代償は予測していなかったと失敗を率直に認めました。死者の半数が他の国々同様に高齢者施設で発生していることを挙げ、「当局は、当初、高齢者施設にいる人々をこの病気から隔離しておくことは、他の国よりもずっと上手にできると思っていた」と言っています。しかし、「われわれがいくら最善を尽くしても、実際には高齢者をこの病気から遠ざけることはむつかしく、結果として明らかに十分でなかった」と述べ、施設への訪問の禁止などが十分に実現できなかったこと、すべての施設での衛生学的手順が常に標準に達していたわけではなかったことを認めたのでした。その上で「もちろん、誰かの命を他の誰かの命よりも優先させているわけではない」と述べていました。そして、個々の施設での対応に問題があっても、戦略全体の失敗ではないと強調しています。また、施設への訪問を禁止していたのに高齢者施設での死者数が多かったことから、ロックダウンしていれば死者数をもっと少なくできていたかどうかを知ることは非常に困難だとも述べ、ソーシャル・ディスタンシングだけで厳しい制限をせず、自由で開かれた社会を維持しながらというスウェーデン独自の戦略には良い点もあり、多くの点で成功していると総括しています。
 また、テグネル氏は、以前から、北欧近隣諸国の例からロックダウン政策が死者を減らすのに役に立つのではないかという質問に対して、「ロックダウンすると一時的には感染を抑えられるけれども、解除した後に感染が増える危険性があります。ソーシャル・ディスタンシングを守って生活していれば、ロックダウンしなくても感染は最低限に抑えられます」と答えていました。このように率直かつ科学的に説明することによって、テグネル氏がこれまで高い信頼を得ていたことは理解できます。
 しかし、ここで前に述べたストックホルムの抗体保有率が7.3%にとどまるという調査結果に戻ると、この数字はスウェーデン式が「多くの点で成功している」ということに疑問をもたせるものです。テグネル氏は、この数字について、「(予想より)低い」けれども「著しく低いわけではない」とコメントしています。しかし、少なくとも5月初めに述べていた抗体保有率25%という推計は間違っていたと言えるでしょう。これが再び逆風となって批判が強くなるかどうかはわかりませんが、批判的な公開書簡を出していた22名の科学者の一人であるウィルス学者のレナ・アインホーン氏は、この結果が出る以前にすでに、「高齢者のケアをする人にマスクなどの防護具着用を義務づけるなど、まだできることはたくさんある」と述べ、「多くの人が亡くなったのに、政策の誤りを認めず、現実にあわせた対応ができていない。当局の専門家の誤りをただせる人がいないのは問題だ」と批判しており、また政治思想史学者のヘレン・リンドベリ氏は、「当局者は科学に基づき理性的な自分たちが『腐敗した政治家の率いる欧州の他国より正しく優れている』と主張し、人々の愛国心や自尊心を利用している」と指摘しています(「デジタル朝日新聞」5月20日の記事)。さらに、この記事では、スウェーデン式の経済的メリットも明確ではなく、IMFによる今年のスウェーデンの経済成長率はマイナス6.8%で、欧州全体のマイナス6.6%という予測と変わらないと言います。グローバル化で部品は海外からということが普通になっている状況で自国だけが経済活動を続けようとしても打撃は同じように受けることを考えれば、当然だと言えます。
 

 長々とスウェーデン式対策についてみてきましたが、ここで何もスウェーデンの対策が成功しているのかどうかを検討したいわけではありません。集団免疫ということには疑問を表明していたWHOの緊急対応責任者のマイク・ライアン氏が4月末の会見で、スウェーデンは、私たちたちが『新しい日常(ニュー・ノーマル)』に行きつく場合のモデルを示している」と評価していたように、今後の一つのモデルになりますし、日本でもモデルとする人たちがいるから、取り上げたのでした。たとえば、三浦瑠麗さんや堀江貴文さんなど、自粛要請に最初から一貫して反対していた人たちはスウェーデン方式をモデルにしていると言えます(もっとも三浦さんは緊急事態宣言の解除を先延ばしにしているのではなく、「コロナ自体は脅威でなかったと宣言すべき」と発言し、堀江さんも賛同していることを見ると、スウェーデン方式というより、やはりボルソナロ・ブラジル大統領方式と言ったほうがいいのかもしれません)。
 専門家のなかにも京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸さんなど、「また炎上しそうだが…」とした上で、収束を早めるための一つの方向性として「お年寄りと免疫が下がっている人を隔離し、50歳以下で健康な人はなるべく外に出して、感染を早めてもらうということだ。だだ、そうすることで50歳以下の人の中で亡くなる人が出てくるので、批判をかなり浴びると思う。しかし、そこまでしなければ収束しないのであれば、結局トータルの死者数はほぼ同じだと思う。やはり、“ボタンのかけ違い”があると思う。ウイルスというものの本質を見誤り、人権の問題や検査技術の進歩もあって、“一人も死者を出さない”というバイアスが働いてしまった。そのため、“1万人の犠牲を出せば止められる”といったコンセンサスを取れず、世界が大混乱している。仮に1万人の死者を許容するのであれば、日本においてももっと簡単に収束させることができたのではないか」という「集団免疫」論者がいます(ABEMA TIMES 5月1日)。もっとも、スウェーデンの例を見れば、宮沢さんが前提とする「お年寄りと免疫が下がっている人を隔離」することがとても困難なことなのだということが分かります。スウェーデンの当局が当初、高齢者の隔離に自信を持っていたのは、スウェーデンではほとんどの高齢者が一人暮らしをしているか施設に入っているからでした。しかし、施設への訪問を禁止しても、高齢者のケアは接触なしにはできません。それで感染が施設の高齢者に拡がっていったわけです(当局者のなかには施設で働くケアする人に移民が多く意思疎通が困難であったことが感染拡大の背景にあると述べて、移民のせいにしていると批判されました)。日本では子世代と同居する高齢者も多く(イタリアと同じです)、また高齢者施設での感染も多くあり、スウェーデンよりもはるかに困難になります。結局、死者は50歳以下の若者ではなく、高齢者に偏ることは目に見えています。
 そして、自分が高齢者で免疫も下がっているだろうから言うわけなのですが、このスウェーデン方式の背景には、生産性の低い老人に死者が多く出ても「成功」の部類になるという優生思想があるように思います(唱える当人たちはもちろん否定するわけですが)。スウェーデンは(そして日本も)戦後まで優生思想による断種が継続した国です。それは科学を信じている度合いと並行しています。
 優生思想と言わないまでも、疫学的(科学的)に「正しい」とされる「新しい日常(ニュー・ノーマル)」は、死や病いを一般化・数量化し、(「トロッコ問題」のように)比較し、「ボタンのかけ違い」をしないように効率の計算もします。しかし、それは、「(具体的・特定的)他者への配慮」としての倫理を侵食し否定してしまいます。私としては、いつも同じことの繰り返しになってしまいますが、倫理なしの「新しい日常(ニュー・ノーマル)」になってしまったら、元も子もないということを改めて表明しておきたいと思います。