人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(3)

 今回は、「人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(1)(2)」の続きです。そこでは長くなりすぎるので省いた話やその後の論考を読んで考えたことなどを書きたいと思います。

 

 今回のパンデミックに限らず、恐慌を含めた大きな災害があると、たいていその後の社会がどのように変わるのかという議論がされます。リーマン・ショックのときも東日本大震災のときもそうでした。今回のポストCOVID-19社会(新型コロナ以後の社会)については、悲観的な予測もありますが、それでもとりわけリベラル派の知識人たちからは、これをきっかけにより良い社会になるという希望も語られています。
 例えば、社会学者の大澤真幸さんは、5月13日放映のNHK視点・論点」の「コロナ危機から『世界共和国』へ」のなかで、「トロッコ問題」に似た「感染症対策と経済活動のジレンマ」を解消するためには、感染症のわずかな兆候を見いだしたら、その地域だけ短期間封鎖して集中的に医療資源を投入し、その間にワクチンや治療法を開発することが大事で、そのためには「国民国家を横断し、国民国家の主権を超えた権限をもつ組織や協調体制」が不可欠だと述べ、今回のパンデミックを、「世界共和国」というユートピアの実現への道の契機としなければならないと言います。
 大澤さんのいうようなシステムの大転換は、理性的な答えとして正しいでしょう。それは、ユヴァル・ノア・ハラリが今回のパンデミックを「独裁か市民の権利拡大か」「自国第一主義か国際協調か」という歴史的分岐点となるとしながら、感染症には「民主主義・国際協調」のほうが結局はうまく対応できるし、ポピュリスト政治家たちも科学的な指針に従うようになっており、気候変動問題でも専門家の声に耳を傾けるようになるだろうと述べていたのと同様に、「理性による社会の進歩」を信頼するものでしょう。しかし、リーマン・ショックのときも3.11のときも、リベラル派知識人たちが社会や世界の大きな変化のきっかけとなると期待したほどには社会は変わりませんでした。もちろん、大澤さんのいうように、このようなシステムの大転換は「今後何十年かけて実現されるべき」ものなのでしょう。けれども、20世紀の歴史は、そのような危機を契機にした理性的なシステムの改革は何十年かけてもうまく行かないということを示しているのではないでしょうか。


 その点では、人類学者でもあるエマニュエル・トッドが「デジタル朝日新聞」の連続インタヴュー「コロナ後の世界を語る」(第18回「コロナで不平等が加速する」5月20日)で語っている(システムに関しての)悲観的見方のほうが当たっているかもしれません。トッドは、パンデミックによる変化は「すでに起きていた変化がより劇的に表れている」のだと言います。この30年にわたるネオリベラリズム的政策によって医療システムをはじめとする社会保障や公衆衛生のための備蓄を脆弱なものにしてきたため、医療崩壊が起きたが、そのことは、経済的格差がそのまま感染リスクの格差にもつながっていて、不平等はこれまでの拡大の傾向をより露わにしているというわけです。そして、経済のグローバル化はいざという時に私たちの生活を守れないし、ネオリベラリズム的な経済政策も人の命を守らないことがはっきりしたことで、生活に必要不可欠なものを生産する自国産業の維持の必要性が高まり、米中の対立に見られるように、国際協調よりも以前からの自国第一主義は「コロナ後」も変わらないというのがトッドの見立てです。すくなくともシステムの変化に関しては、トッドの見立てのほうが当たっている気がします。
 そもそも大災害のときになぜそれを契機に良い方向へと社会が変わっていくはずだという議論が出てくるのかという問いを考えてみましょう。ひとつには、犠牲の大きさの代償を求める心理というのがあるのかもしれません。これだけの犠牲者が出たのだから、これをきっかけに社会が良い方向に変わらなければ救われないという感情が働いているということです。それ自体は人間的な感情ですし、そう思うのは当然でしょう。しかし、良い社会の方向が「理性による進歩」とされるのが気にかかります。その根底には近代の理性への過剰な信頼と社会は進歩するという進歩史観があると思われるからです。
 それは、保守主義が批判する、近代の(フランス革命から続く)「設計主義」ですが、理性によるシステムの設計による改革はそれだけでは社会から切り離されたものであるゆえにかえって害をなすというわけです。良質の保守主義がいうように、社会の変化は社会関係のなかで(社会に埋め込まれて)人びとによって実践され続けるなかで徐々に、すなわち時間に試されてはじめてうまく機能するものになるのであり、それが人間の集合的な叡智による社会のあり方でしょう。理性による設計主義はそれに反するのです。
 ただし、保守主義を全面的に肯定したいわけではありません。良質の保守主義といえども、近代の設計主義に対する反動から生まれたせいか、たいてい近代主義を脱することができません。つまり、近代国家と資本主義を肯定してしまうのです。保守主義者は、近代国家を「集合的な叡智の結晶」であり、資本主義システムを(設計によるものではなく)自生的秩序と解していますが、人類学的視点からすればそれは誤りです。国家も資本主義的な市場も非真正な社会において設計されたシステムであり、保守主義者のいう時間をかけた慣習や集合的叡智(これらは真正な社会においてのみ働きます)を破壊していくものだからです(真の保守主義アナーキズムに近いものとなるでしょう)。


 話を戻せば、大災害の後に社会が変わるとされるのは、人類学的にいえば、大災害によって社会のシステムが一時的に麻痺すると、社会システムによる地位のヒエラルキーがなくなり、通過儀礼の「移行期(過渡期)」である、ヴィクター・ターナーのいうコミュニタスの状態が生まれるので(ソルニットも「災害ユートピア」は、ターナーのいう「コミュニタス」に似ていると言っています)、移行期の後には新しいシステムが生まれると想定されるからだと言えそうです。けれども、注意すべきは、人類学者のいうコミュニタスの後の新しい社会システムへの移行は「進歩」とは無関係だということです。役割関係や上下関係などからなるシステム(ターナーはそれを「構造」と呼びました)が一時的に無効にされ(無礼講と同じです)、反構造としてのコミュニタスが出現しますが、それは山口昌男さんの言い方を借りれば、秩序(システム)を「活性化」させるのであって、その後に登場するシステムは「活性化」されているけれども、システムとしては同じものです。
 それゆえに、リベラル派進歩主義者からは、ターナーのコミュニタス論や山口さんの活性化論は、既成の秩序を維持し再生産することを肯定する理論として批判されたのでした。その批判の源流は、ターナーも一員だったマンチェスター学派の指導者のマックス・グラックマンの1950年代の「反乱の儀礼」という論文への進歩主義者からの批判にあるといえるでしょう。グラックマンは、南アフリカの王権社会に見られる王への反乱を演じる儀礼を、社会全体の通過儀礼(つまり年中行事)と分析しました。なかには歴史的に実際に王制を倒してしまう反乱になったものもあるのですが、機能としては山口さんのいう王権の秩序の活性化にあって、王権の秩序を更新していくものとされたのでした。それに対して、進歩主義者たちは進歩的にもなる民衆の反乱を過小評価するものという批判が出たわけです。ちょうど、日本の近世の一揆を、進歩主義的な歴史家は封建秩序に対する民衆の抗議・抵抗と見なすのに対して、保守的な歴史家が一揆は年中行事のようなものと批判したのと構図は(ひっくり返っていますが)同じです。
 その対立する双方とも見落としているのが、定期的に秩序を「活性化」する意義(民衆=人びとにとっての意義)です。つまり、それをシステムの保持のためとしか見ていませんが、その見方は、定期的にシステムなしの社会を人びとがつねに経験することがどのような意味を持つかということをあまり考えていないように思います。しかし、その経験は社会の基盤たるコモン(基盤的コミュニズム)に根をもちながらシステムの綻びに対して何とかする、何とかできるという根拠を沈殿させていくのです。
 今回のパンデミックでも、グローバル化ネオリベラリズム的な経済政策が人の命を守ることに反していることを人びとは経験しています。それは、リーマン・ショックのときも東日本大震災のときも同じように経験しています。そして、人の命を守り、危機を乗り越えるのに、システムなしの社会、つまり真正な社会におけるコモンが必要不可欠だったという経験も繰り返ししています。たしかにシステムに関していえば、災害ユートピアのあとに、ショック・ドクトリンによるシステムの強化が続き、ドットのいうように、それ以前のシステムのもっている変化や綻びも含めて、同じようなシステムがより悪化したかたちで復興していきます。しかし、システムの綻びが大きくなっていたことを経験し、システムなしで社会が立ち現れることを経験してきたことは、そのコモンを基盤とした社会において、社会の変化を社会に埋め込んだかたちで実現させていく底流にもなるでしょう。希望は、社会から切り離されたような理性によるシステムの設計主義的な改造にではなく、システムを社会に埋め込み直してコモンを拡大していくことにこそあると思います。

 

 ただ、それを真の希望とするためには、健康至上主義的な「ウィズ・コロナ期」の「新しい生活様式ニューノーマル)」を批判していく必要があると思います。というのも、喧伝されている「新しい生活様式」は、買い物や飲み会、会合などもオンラインを活用することで人との接触を削減するというものであり、コモンを阻害するものになっているからです。これは、経済活動を再起動するための指針でもありますが、働き方も在宅勤務が進められています。しかし、テレワークがたやすくできるのは、グレーバーのいう給料のいい「クソどうでもいい仕事」であって、生存に欠かせないエッセンシャル・ワーカーは給料が安くて人との接触なしにできない仕事を続けるしかないでしょう。トッドの言うように、そのような格差を拡大しつつ、人が語り合う居心地の良い場所を避けて生活せよというわけです。
 そして、それは「命を守るため」だとされています。命を守りながら経済活動のできる人たちは「クソどうでもいい仕事」をする高給取りで、コモンを守りながら生存に欠かせないエッセンシャル・ワークをする人たちはより高い感染リスクのまま低賃金で働くというわけです。
 他人の命も自分の命を守ることの重要性(これはもちろん重要なことです)という、誰もが簡単に否定できない価値で脅して、人びとの生活様式を規定・指示する「新しい生活様式」は、人びとを究極的に個人化して支配するやり方と言えるでしょう。そこで言われている「他人の命も自分の命も守る」ということが欺瞞であるのは、本当に他人の命を維持する仕事をする人たちが、この「新しい生活様式」から除外され、社会にとって無くても大して困らない仕事のほうが称揚されていることからも明らかでしょう。
 この「健康」や「長生き」という価値は、進歩主義の最後の砦みたいなものですから、進歩主義的リベラル派も否定できないものといえるかもしれません。人類学者や一部の歴史学者が文化の価値は相対的なものだと言っても、現代文明を頂点とする進歩主義はなかなか廃れません。最近では民主主義という価値が近代や西欧に特有のものではなく、どこにでもいつでもあるものだという認識も広まってきて、理性や民主主義は時代が下れば下るほど増大していると単純には言えなくなってきています(もちろんまだそう言っている人の方が多いでしょうが)。そこで、文明の進歩の確かな根拠として保持されているのが、人間の寿命は長くなっている、それだけでも現代文明は肯定されるべきだという論理です。
 しかし、生きているという実感なしに長生きすることが最も重要な価値とは思えませんし、そこで言われている「健康」というのは医療化された価値であって、人生の価値とは違うものです。「新しい生活様式」の指針に従って、一人で無言で短時間で買い物をし、マスクなしに人と一緒に食事しない、飲みにもいかない、ライブハウスや演劇も生では見ない、という生活をすることが、たとえ感染を防いで健康でいるためだと言われても、楽しいものだとは思えません(僕自身は一人でいることは苦にならないので、けっこう新しい生活様式をクリアできるのですが、人に会わないというのはやはり無理です)。
 だいたい生活様式は自分たちで構築するものです。不特定多数の集まるチェーン店の大きな居酒屋(一人の店員が多くの客と接触する)ではなく、知っている人たちが集まる居心地の良い飲み屋で人と話しながら食べたり飲んだりすることは、家族で一緒に食事することとそれほど感染リスクが変わるわけではありません。ライブハウスについても、出演者も客もライブにおける双方向的な交流の楽しさは、オンラインの配信ではなかなか体験できないでしょう。有名アーティストの出演するライブハウスではなく、互いに知り合いになれるような小さなライブハウスこそ、コモンのためにも大事になります。
 つまり、居酒屋やライブハウスや演劇がだめだと一般化するのではなく、それらのなかでも「真正な社会」を作るような場、「小商い」的な店を大切に維持して、それと非真正なレベルになっている不特定多数の知らない人たちが集まる資本主義的な場を避けるといった工夫が大事になってくるのだと思います(大きな居酒屋チェーンや大きなライブハウスや劇場からは怒られそうですが)。もちろん、経済至上主義から、経済を回したいということには役に立たないかもしれませんが、コモンを守るためには役立ちます。それに、いろいろ制限があるなかで工夫をすることは、本当に楽しいのはどちらだろうと考えるきっかけになるのでのはないでしょうか。