ベーシック・インカムについて(2)

 世界金融危機にはじまる不況によって、何かシステムを変えなくてはという流れができつつあるようにも思いますが、はたしてどういうシステムにするのか、またどういう人たちがそれを考えるのか。それを思うと、結局はなかなか変わらないのかなという気もします。少なくともエコノミストたちにシステム自体の転換を考えることを期待はできないでしょう。主流の経済学は、システム内の問題を考えることに特化したものであり、システム自体の大転換を考えることは苦手というか、むしろそれを考えないことを自らの立場としてきた学問だからです。「金融資本主義」やネオリベラリズムを支えてきた「経済自由主義」からの脱却を唱えても、経済成長しつづけるというシステム自体への信仰を捨てない限り、エコノミストたちの思考は、もう一度なにか別のバブルを起こして景気回復をしなくてはというところに落ち着かざるをえないのでは。もちろん、そのバブルを安定的なものに抑えつつというでしょうけれども、同じことの繰り返しには違いありません。
 とはいっても、「金融資本主義」への反動から、「汗水流して勤勉に働く『ものづくり』」への回帰を謳う人が多いのも困りものです。せっかくの大転換のチャンスを「労働倫理」の復権に利用しようとするものですし、職人的な「ものづくり」と、下請けと非正規雇用の労働者の搾取によって成り立っているトヨタの「ものづくり」を一緒のもののように論じている点からして救いがたい議論ですから。
 そこで、前回の続きのベーシック・インカムの話につなげるなら、主流の経済学を信奉するエコノミストたちにも賛同者が広がるような議論と、システム自体の転換にもつながる議論の両方が必要となるのでしょう。
 前回、ベーシック・インカムの利点を並べましたが、もちろん利点しかないわけではなく、欠点というか、危惧すべき点も多くあります。そもそも利点として挙げたもののなかには、立場によっては欠点となるものもあります。今回は、ベーシック・インカムに対する反対意見や危惧する意見を取り上げ、その上で、にもかかわらずベーシック・インカムには、システム自体を少しずつ変えていく意義があるということについて書いてみたいと思います*1
 まず、左派の立場から*2危惧すべき点(これは経営者側へと立場を替えれば利点となるわけですが)を挙げると、ベーシック・インカムは、雇用のフレキシビリティを促進し、短期の低賃金労働者の使い捨てをより容易にするということがあります。
 カール・ポランニーは『大転換』のなかで、市場経済で売るための商品を生産するためには、特に土地・労働・貨幣という基本的で重要な生産要素の供給が保障されなければならず、したがって、市場経済(資本主義社会)が成立するには、この三つが商品として市場に組み込まれることが不可欠であるが、労働、土地、貨幣が本来商品ではないことも明らかであり、これらは擬制的商品、つまりフィクションのおかげで商品のように市場に組み込まれているのだといいます。そして、土地・労働・貨幣などの擬制的商品を完全に市場の自己調整メカニズムに委ねることは、自然環境や生身の人間である以上できないと述べていました。「労働力」という擬制的商品についていえば、「たまたまこの特殊な商品の担い手となっている人間個々人に影響を及ぼさずに無理強いできないし、見境なく使ったり、また使わないままにしておくことさえできない」のであり、それが「文化的諸制度という保護の被い」によって「悪魔の碾き臼」たる市場から保護されることがなかったら、「どのような社会も、そのようなむき出しの擬制システムの影響には一時たりとも耐えることはできないであろう」と述べていました。
 つまり、ポランニーは、市場社会には、労働力を市場に組み入れて労働市場を作り出す必要があり、しかも市場メカニズムが働くためには規制があってはならないのだけれども、もともとフィクションとしての商品である労働力の場合は、その実体(生身の人間であるという)から、市場を規制して保護されなければならないという矛盾があることを指摘しているわけです。ネオリベラリズムの「規制緩和」とは、それを実体としての生身の人間というほうを切り捨てて、フィクションとしての商品というほうを全面化しようとすることにほかならないのですが、それにはやはり限度があり、現実の生身の人間から抵抗を受けざるをえないわけです(少子化はその抵抗のひとつであるかもしれません)。
 ところが、ベーシック・インカムは、労働力の全面的な商品化を可能にします。企業など雇用主は、生身の人間という実体をもつ労働力の再生産ができなくなるということを恐れることなしに、「見境なく使ったり、また使わないままにしておく」ことができるようになるわけです。その結果、最低賃金保障も必要なくなり、どうしても必要な人材には正規雇用と高賃金を用意するでしょうが、あとはいつでも契約を打ち切れる低賃金の非正規雇用労働者を好きに使えるというわけです。かくしてベーシック・インカム導入によって経済的格差はますます広がるという予測も出てきます。
 それに対して、アレックス・カリニコスやアンドルー・グリンらのベーシック・インカムに賛同するマルクス主義者たち*3は、そのような危惧はなく、むしろ労働者側に有利になるとしています。つまり、労働者は、「生きていくための労働」から解放され、被雇用から撤退するという選択肢を得るために、資本との交渉において有利な立場にたてるというわけです。つまり、この予測では、たとえ非正規雇用が増えるなど労働のフレキシビリティが増大しても、逆にそのフレキシビリティを武器に、労働の供給を減らすという前提で賃金交渉ができるために、時給はむしろ高くなるということができます。この予測では、非正規雇用でも正規雇用でも労働時間を減らしながら、そしてワークシェアリングによって失業者も減らしながら、それほど収入を減らずにすむ(あるいはベーシック・インカム分を足せば収入を増やすか同じに維持できる)ことが可能だということになります。
 これはどちらの予測が正しいかというより、資本側の望む雇用のフレキシビリティを実現しながら、失業者もワーキングプアも減らせると考えたほうがよいでしょう(そのほうが賛同者も広がりますしね)。
 新資本主義ないしネオリベラリズム社会の最も重要な欠陥は、過剰な流動性・フレキシビリティと過剰な個人化(あらゆることが自己選択の対象となり、その結果が自己責任となること)によって、長期の安定した予測ができなくなっていること(「ノー・ロングターム」)にあります。人々が消費を控えて不況になるのも、この「ノー・ロングターム」によるものですし、金融危機を招いた金融資本主義も「ノー・ロングターム」を金科玉条にしていたせいだといえるでしょう。そして、それが人びとの不安と不安定の原因でもあり、その不安や不安定をセキュリティの強化や排他的なナショナリズムによって代償しようとしているともいえます。
 ベーシック・インカムの導入の最大のメリットは、たんに貧困対策というより、それが長期の安定した予測の基盤を与えてくれることにあるといってもいいでしょう。たしかに、ベーシック・インカムによって収入が大幅に増えることはなく、子供が1人くらいの標準世帯ではたいして変わらないということになるでしょう*4。しかし、たとえ収入が変わらなくても、失業の不安とスティグマや社会から排除される不安をなくし、長期の安定した予測ができるということだけでも、非常に大きな景気対策になりますし、そのことはたんに経済的な景気対策だけではなく、人びとの思考を規定する社会の大きな転換を伴うことになるでしょう*5
 さて、ベーシック・インカムに対する右派やエコノミストからの危惧として最も大きいのは、それが人びとの労働意欲をなくしてしまい、モラル・ハザードが起こるというものでしょう。これは、ベーシック・インカムによる「生きていくため(食べるため)の労働からの解放」が労働そのものの放棄を招くという見方だといいかえられます。この見方自体が近代の「労働倫理」の産物であり、経済学的な「インセンティブ」の捉え方の狭さ(イデオロギー性)を示しているといえますが、このエントリーも気がついたらずいぶん長くなってしまいましたので、この続きはまた次回ということで。

*1:前回あげた利点について、6の「少子化対策」以下の説明をしていませんでしたが、「少子化対策」や7の「年金問題の解消」については説明はいらないでしょう。それ以外については、以下の議論が説明になっていると思います。ですから、いちいち説明することはやめますので悪しからず。

*2:前にも書いたように「左派」「左翼」というのは再分配による平等を重視する立場です。

*3:カリニコス『アンチ資本主義宣言』(こぶし書房、2004年)、グリン『狂奔する資本主義』(ダイヤモンド社、2007年)を参照のこと。他にベーシック・インカムに賛同するマルクス主義者の有名人としては、アントニオ・ネグリがいます。

*4:子供が2〜3人いれば収入は増えます。だから少子化対策にもなるわけですが。

*5:この転換の内容と意義についてはまた後で触れたいと思います。