池内了『疑似科学入門』を読む

 学部のゼミのM君がゼミ論文のテーマを「疑似科学と呪術」とするというので、ゼミで発表してもらいました。その発表のなかで、「疑似科学」とは何かということを説明するのに、M君が池内了さんの『疑似科学入門』のなかの分類を批判的に紹介してくれたのですが、「ん?」という疑問符でいっぱいになったので、早速この本を注文して読んでみました。その結果、頭の中の疑問符はもっと増えました。

 私は、疑似科学似非科学ニセ科学)というものは、「マイナスイオン」とか「ゲーム脳」とか「電磁波の害」といった、「科学を装っているが科学的方法に基づいていない言説」のことを指すのかと思っていました。しかし、池内さんはそう思っていないようです。この本では、疑似科学を3つに分類しています。

《第一種疑似科学
 現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけこみ、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系(お御籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「疑似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。……
《第二種疑似科学
 科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。……
(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説。永久機関ゲーム脳が典型的……
(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスの種となっているもの。マイナスイオン、健康食品などがある。……
(c)確立や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説。……各種の世論調査も使いようによっては疑似科学になってしまう。また、月齢と交通事故の相関など、見かけ上の相関関係を因果関係として安易に結びつけ、事実誤認させる方法もある。……
《第三種疑似科学
 「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。この場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロとかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまう。……環境問題や電磁波公害のほかに、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知環境ホルモンなど、今社会的な問題になっていることの多くがこの範疇にはいる。
[『疑似科学入門』v-vi頁]

 先の定義にしたがえば、「疑似科学」は、この分類の《第二種疑似科学》の(a)(b)のみとなりますが、池内さんの分類では、「疑似科学」というカテゴリーは、何でも入れることのできるジャンク・カテゴリーになってしまっています。
 まず、《第一種疑似科学》ですが、そもそも「科学を装って」いないのですから、「疑似科学」や「ニセ科学」と呼ぶ必要性がないでしょう(後で科学者にとっての必要性には触れましょう)。警官でもないのに警官を装っている場合には「疑似」とか「似非」とか「ニセ警官」と呼ぶでしょうが、警官を装っているわけではない人を「ニセ警官」とはふつう呼ばないでしょう。「占い系」に入る「占星術」や「血液型性格診断」を念頭に置いているのかもしれませんが、占星術は近代科学以前のときにはもちろん「科学を装う」ことなどありませんでしたし(「真正科学」がないのですから「疑似科学」もありえません)、「血液型性格診断」はそもそも「占い」ではありません*1
 《第一種疑似科学》を疑似科学と呼ぶことについて、池内さんは、つぎのように言っています。

 第一種疑似科学とは、人間の心のゆらぎにつけ込む「まやかしの術」である。「科学」と名付けるのはおこがましいのだが、心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう。[3頁]

 「心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう」というのは意味不明で、何か日本語の書き間違いかと思ってしまいました。「心のゆらぎにつけ込む」第一種疑似科学は心理学の対象だという意味でしょうか。でも、なぜ科学や学問の対象だと、「科学」と名付けて構わないのかさっぱり分かりません。カマキリの擬態は生物学の対象でしょうけれども、誰もその擬態を「科学」や「疑似科学」とは呼ばないでしょう(「まやかしの術」には違いないけれども)。

 占いについて、池内さんは、「迷信」としながら、「そもそも自分の生き方を省みる方がもっと大切だと思われるのに、運命を自分に付随する事物に転化させようというのだから問題が多い」[4頁]と書いていますが、なぜ人類の文化に「占い」があり、科学によっては駆逐されないのか、人はどういう動機で「占い」に行くのかを調べて考えることなどしようともしていない点で、「疑似科学社会学」を目指している*2わりには「問題が多い」と思われます。「自分の生き方を省みる」ことで解決するような問題であれば、占いに行く必要もないでしょう。そして、運命を何かに転化するのも、それが他の手段では解消できない難問をかかえて生きていくために必要だからでしょう。
 百科事典で「占い」を引くと、

通常の知覚や合理的な推論によっては認識できない事がらに関して,一定の〈しるし〉を解釈することによって情報を得る方法。
 占いによって明らかにされるのは,現在や過去の隠れた事実,未来のできごと,個人の運命や行おうとしている行為の是非などであるが,実践的な判断を下すことを迫られている個人や集団のために行われるのがふつうであり,答えられるべき問いは,実践的かつ個別的である。……『世界大百科事典 第2版』(阿部年晴執筆)

とあります。つまり、人類学的にいえば、占いとは、「実践的かつ個別的」な難問についての解釈を求めるものです。
 一方、池内さんが書いているように、「科学の法則は、ある特殊な状況のみで成立するのではなく、普遍的な条件下で一般的に成立することが示されなければならない」[21頁]ものです。逆に言えば、科学の法則では、一般性しか言えません。ある悲惨な飛行機事故で、出張にでかけた息子が死んだとき、科学では、どのように(how)事故が起こったのかという原因を一般化された法則によって解明していくことはできます。それは、もう一度同じような事故を起こさないようにするためには必要なことです。しかし、なぜ息子が他ならぬその飛行機に乗ってしまったのか、他にスタッフはいるのになぜ息子が出張にいくことになってしまったのかという、なぜ(why)に科学はなにも答えてくれません。そのような単独性の出来事に解釈を与えるのが占いなのです。
 池内さんは、迷信や占いが「偶然の一致を過大評価してしまう」という特徴をもつと言っていますが、過大評価というより、そもそもその「偶然性=単独性」に解釈を与える装置なのですから、あたりまえです。それが科学ではないと非難しても、そもそも「科学を装って」いるわけではなく、科学とは異なる機能をもつ装置なのですから、非難するほうがおかしいでしょう。看護師に対して、「あなたは警官ではない、警官の役割も果たしていない」と非難して、「ニセ警官」呼ばわりをしているようにみえてしまいます。

 もちろん、「占い」を犯罪に利用する人たちもいますが、それは警察の取り締まりの対象であって、占いだから有害だということではないわけです。
 でも、池内さんは、「占い」自体に害があると考えているようで、「最も憂えることは、自分の頭で考えるのではなく、(神仏や人からの)ご託宣を何の疑問も持たずに受け入れてしまう体質になることである」[22頁]とし、次のように書いています。

その行き着く先は、観客民主主義が政治的に利用されファシズム導かれていく方向だろう。偏ったスローガンばかりになっても占いと同じで、それを疑うことなく信じてしまうのだ。今の日本がそのような道を歩みつつあることを強く危惧している。そこに疑似科学が片棒を担いでいるのではないだろうか。[23頁]

 占いは犯罪に利用されなくても、ファシズムの片棒を担ぐから有害だというわけです。ナチス疑似科学とは親和的だったし、科学的思考でファシズムを防げるといいたいのでしょうけれども、その言いかたは科学的ではありません。たしかに、観客民主主義もファシズムもオカルトや占いも、社会が孤立した人びとを大量に生みだしているからだといえるかもしれません。しかし、それと「ファシズムの片棒を担ぐ」こととは違います。ここには、池内さん自身がいう「みかけの相関を因果関係にしてしまう」疑似科学の方法と同じ方法が使われています。池内さんは、「平均寿命の伸びとクルマの保有台数には相関関係はあるが、これは直接の因果関係ではないことは明白で、所得の増加という共通原因があるためだ」という例を出していますが、それを言いかえれば、「ファシズムと占い=オカルトブームには相関関係があるが、これは直接の因果関係ではなく、その相関は個人の孤立化という共通原因があるため」ということになります*3

 さて、「第一種疑似科学」という分類の問題点だけで、十分長くなってしまいました。最後に、なぜ池内さんが、このような分類をして、まったく異なったものを「疑似科学」に放り込んでしまっているのかということを問題にしたいと思います。このようなジャンク・カテゴリーは、「オリエンタリズム」のようなアイデンティティ・ポリティクスにはよく使われるものです。つまり、自分にあると認めてしまったら自分のアイデンティティを確立できないようなモノすべてを、他者のカテゴリーに放り込んで、自分を純粋化するというものです。それは、「未開 primitive」というカテゴリーにも見られました。アフリカのネイティヴや東洋人や女性や子供、労働者階級や下層民、精神障害者や同性愛者など、なぜ一緒なのかと思うようなさまざまな人たちが「未開」というカテゴリーに放り込まれましたが、それはブルジョワ白人成人男性が「能動的で理性的で進歩的な自分たち」というアイデンティティを作り上げるためでした。
 同じことが、科学者による「疑似科学」カテゴリーの創出にもいえるような気がします。科学者としてのアイデンティティを純粋化するためという理由だけで、「第一種疑似科学」のような科学を装っているわけではないものまで「疑似科学」「ニセ科学」というカテゴリーに入れてしまうのではないでしょうか。そして、自分たちより低位のそのカテゴリーに属するものは自分たちがコントロールすべきだという態度(「未開」に関して言えば、それが植民地主義の態度です)も、このアイデンティティ・ポリティクスで説明できるでしょう。

*1:「血液型占い」といった題名の本がありますが、それは「占い」ということばの誤用でしょう。

*2:池内さんは「あとがき」で、「本当は『疑似科学社会学』としたかったのだが、社会学に関して素人の私だから、そう名付けるのはおこがまし過ぎるというものである」と書いています。

*3:ファシズムと占いに実際に相関があるかどうかはまた別の問題ですか。