「卵と壁」と社会の二層性

 話題となっていた村上春樹さんのエルサレム賞受賞講演について書こうと思っていながら、つい忙しさにかまけて時期を逸し、書きそびれてしまったなと思っていたら、きょうの毎日新聞の夕刊とサイトに講演の英文と日本語訳(夕刊は日本語訳だけですが)の前半部分が載っていました。残りは火曜日に載るようですが、この機会に書いておこうと思います*1。とはいっても、受賞講演のテキストは、共同通信エルサレム支局長の長谷川健司特派員が、エルサレム賞主催者から提供を受けたテキストを基に、実際の講演での修正部分も録音を使って再現したものを使うことにしますが*2。日本語訳は拙訳です(といってもまずい訳という意味ではありませんよ)。
 さて、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」の帰結のひとつは、人は社会の二つの層を二重に生きているというものです。すなわち、近代になって地球上のあらゆるところで非真正な社会が真正な社会を包摂するようになって以降、人はみな、〈顔〉のある関係(代替不可能な関係)による真正な社会と、メディア(法・貨幣経済マスコミュニケーション)による非真正な社会という、関係の質が異なっている二つの層を同時に生きているということです。
 このような「社会の二層性」(あるいは「二重社会」論)という視点は、近代社会を考える上で重要なものですが、村上春樹さんの受賞講演を理解する、または面白く読むためには、この「社会の二層性」という視点と絡めるのが良いということを書きたいと思っています。
 村上さんは次のように言っています。

 私がフィクションを書くときにいつも心に留めていることがあります。紙に書いて壁に貼ることまではしたことがありませんが、私の心の壁に刻まれているものです。それはこのようなことです。
「高く固い壁と、それにぶつかって壊れてしまう卵とがあれば、私はいつでも卵の側に立とう」。
 そうです。壁がどんなに正しくても、卵がどんなに間違っていても、私はいつも卵の側に立とうと思います。何が正しく、何が間違っているかは誰か他の人が決めてくれるでしょう。おそらく、時とか歴史とかがそれをするのでしょう。しかし、どんな理由からであれ、もし壁の側に立って作品を書く小説家がいたとして、その作品にどんな価値があるというのでしょう。


It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

 「壁と卵」という隠喩の単純でわかりやすいものとして、村上さんは、爆撃機、戦車、ロケット弾、白燐弾が壁で、それらによって潰され焼かれ撃たれる非武装の市民が卵という例を挙げた後、村上さんはつぎのように言います。

けれども、それだけではありません。この隠喩にはもっと深い意味があります。こう考えてください。私たちの誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たち一人一人は、壊れやすい殻に包まれた、唯一無二で代替不可能な魂です。このことは私にとっても、あなたがたの誰にとっても真実です。そして、私たちの誰もが、程度の違いはあれ、高く固い壁に向き合っています。この壁には名前があります。《システム》という名前が。《システム》は私たちを守るものとされていますが、ときには、《システム》は、それ自身に生命があるかのようにふるまい、私たちを殺したり、私たちが他の人びとを殺すように仕向けたりしはじめます。冷血に、効率的に、システマチックに。

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.

 この「(大文字の)《システム》(The System)」が何を意味するかは解釈の分かれるところでしょうが、《システム》という壁と、「代替不可能な魂(かけがえのない魂)」としての卵とが同じ平面、同じ「層」で向かい合っていると理解してしまうと、村上さんの言っていることはいたって平凡なものとなってしまいます*3。ここは、「社会の二層性」という視点から解釈しなくては刺激的になりません。
「社会の二層性」という視点とは、レヴィ=ストロースのいう非真正な社会と真正な社会の区別(「真正性の水準」)を援用すれば、社会は、比較可能で代替可能な関係からなる《システム》=非真正な社会と、唯一無二で代替不可能な関係からなる真正な社会(正確には、「真正な社会では、代替可能な関係は代替不可能な関係と重なり合っていて、代替不可能な関係を基盤としている」と言うべきですが)との二つの層からなっているという視点です。
 そのような視点から解釈しないと、おそらく講演の最後に村上さんが述べている「希望」がなぜ「希望」たりうるのかが分からなくなってしまうでしょう。

 私がきょう皆さんにお伝えしたいことはたったひとつのことです。私たちはみな、国籍や人種や宗教を超えた個であり、そういった意味での人間であり、私たちはみな、《システム》と呼ばれる固い壁に直面している壊れやすい卵だということです。どう見ても、私たちに勝ち目はありません。壁はあまりにも高く、あまりにも強固で、そしてあまりにも冷たいものです。ただ、もし私たちにいくばくかの勝利の希望があるとしたら、それは、私たち自身と他者たちの魂の完全な唯一無二性と代替不可能性を信じること、そして魂を互いにつなぎあわせることで得られる温かみを信じることから生まれるものでしかないでしょう。
 そのことについて少しのあいだ考えてみてください。私たち一人一人は、手に触れることのできる、生きた魂をもっています。《システム》にはそのようなものはありません。ですから、《システム》が私たちを食い物にすることを許してはなりません。《システム》がそれ自身の生命をもつかのようにふるまうことを許してはなりません。《システム》が私たちを作ったのではなく、私たちが《システム》を作ったのです。
 これが、私が皆さんに言いたいことのすべてです。


I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.

 高く堅固な壁の「冷たさ」に対抗するには、「唯一無二の代替不可能な(かけがえのない)魂」をつなぎ合わせることによってのみ得られる「温かさ」が必要であり、そこにしか希望がないというわけです。その「温かさ」は、一人の個人の魂からは生じてきません。代替不可能な魂のつながり=関係からしか生じないのです。そのつながりは、《システム》とは別のもうひとつの社会、真正な社会のことだといってもいいでしょう。そのことからも、村上さんが「個人と社会制度」といった一面的な対立のことを言っているのではないことがわかります。
 もうひとつのポイントは、「私たち自身と他者たちの魂の完全な唯一無二性と代替不可能性 the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls」ということでしょう。‘uniqueness’を「個性」と訳した日本語訳がありましたが*4、ここでの誰もが持つ比較不可能な唯一無二性(uniqueness)やかけがえのなさ・代替不可能性(irreplaceability)は、「個性」とは関係ありません。「個性」は他の人との比較によるものです。個々のかけがえのなさ代替不可能性は、比較によって規定されるものではなく、たとえ一卵性双生児であっても、そしてなんのとりえもなくても、個々人は唯一無二で代替不可能なものです。「世界に一つだけの花」という歌の「オンリー・ワン」を「個性」と読み違えて、個性批判をする人が、歌が流行った当時もいまもいますが*5、「オンリー・ワン」は文字通り比較不可能な「唯一性」ということでしょう。それは「個性」とは対立するものです。「個性」とは「キャラ」や「役割」や「能力」と同様に、比較可能で代替可能なものですから。
 そして、そのような個の代替不可能性は、真正な社会の〈顔〉のあるつながりにおいてのみ現れます。たとえば、親にとって子どもは、かわいくなくて賢くなくてなんのとりえのない子どもでも「唯一無二で代替不可能」な存在です。そのような代替不可能性を村上さんは「魂 soul」と呼んでいるのでしょう。そして、〈顔〉もまた、そのような代替不可能性の呼び名の一つです。教員にとって学生は、そして学生にとって教員は、〈顔〉さえ見なければ、教員-学生という「役割」だけの関係で、比較可能で代替可能な存在です。じっさい入れ替わります。けれども、ゼミなどでは、教員にとっても学生にとっても、入替え不可能=代替不可能な関係になることがあります。それは能力や個性とは関係がありません。文化人類学をもっと上手に教えることのできる教員はいくらでもいるでしょう。たとえ「ナンバー・ワン」の能力を持っていたとしても、それは比較によって規定されるものであり、入替わり可能で代替可能です。「ナンバー・ワン」は相対的な比較ですから、代わりはいくらでもいますからね(その代替可能性を「競争」と呼ぶわけです)。でも、「魂」あるいは〈顔〉のある関係は、そうではありません。そして、何が正しくて何が間違っているかという「正義」とは別の、「倫理」は(そして「自己責任」とはまったく正反対の「応答可能性」という意味での「責任」も)、そのような代替不可能な関係にあるものです*6
 村上さんは、そのような「代替不可能な魂のつながり」の例として、去年90歳で亡くなられた、村上さん自身の「父親」とのつながりの話をしています。村上さんのお父さんは、京都の大学院生だったときに徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後、お父さんは朝食前に家の小さな仏壇の前で長く読経したそうです。なぜ祈っているのかを村上さんが尋ねると、お父さんは、戦場で死んだ敵と味方両方の人々のために祈っているのだと答えたという話です。

 父は亡くなり、私がもはやけっして知りえない記憶、父の記憶を父とともに持ち去ってしまいました。しかし、父のまわりに潜んでいた死の現れは、私自身の記憶のなかに留まっています。それは、私が父から引き継いだ数少ないものの一つであり、最も大切なものの一つなのです。

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

 もうずいぶん長くなってしまいましたが、最後に、村上さんが明確にイスラエル批判をしなかったことに対する批判もたくさん出されていることについて触れておきたいと思います*7。批判は、要するに、もっと明確にパレスチナ人の側に立って、「イスラエルはガザでの虐殺を止めよ」といった発言をするか、そうでなければ受賞を拒否すべきだったというものでしょう*8
 しかし、そのようなイスラエル批判は、《システム》と同じ平面に立った批判であり、もう一つ別の《システム》に依存した批判です。私も「左翼」ですから、《システム》と同じ地平に立った批判や対抗が必要であると思っています。村上さんの言葉でいえば、「《システム》が私たちを食い物にすること」を許さず、「《システム》がそれ自身の生命をもつかのようにふるまう」(「《システム》が独り歩きする」と訳してもいいでしょう)ことのないような《システム》を設計すること、そしてそのような《システム》に改革していくことの重要性を認めています。けれども、それだけでは、じつは別の《システム》に変えていくこと自体ができないのです。《システム》が(それがいくら正しい《システム》であっても)真正な社会での代替不可能な関係を踏みにじっていること(踏みにじられてもそれが必然的に生き延びること、それが人間の普遍性であることに「希望」があるのですが)に光を当てないと、《システム》を飼い馴らすこともできません。それには、「いつでも卵の側に立つ」ことが必要なのです。「卵の側に立つ」ことは、「パレスチナ人の側に立つ」こととは違います。「誰もが卵」なのですから。しかし、「卵の側に立つ」ことなしに、「パレスチナ人の側に立つ」ことは、自分が「政治的に正しい」立場にいるんだという、自分自身のアイデンティティ・ポリティクスのために、パレスチナ人を利用しているだけ、パレスチナ人を自分の代弁者にしてしまっているだけになってしまう恐れが出てきます。それは、「《システム》がそれ自身の生命をもつかのようにふるまうこと」を許すことにほかなりません。そうならないためにも、私たちの誰もが「勝ち目のない卵」であるという立場にたつことが必要なのです。
 《システム》に対抗する「社会運動」は、「代替可能な関係」からなる《システム》を作ることによってしか成り立ちません。代替可能な役割があって入替え可能でなければ、「社会運動」は維持できません。それは「新しい社会運動」でも同じことです。しかし、それだけでは「社会運動」は、《システム》そのものが自身の生命をもつようになってしまうことを防ぐことができません。社会運動の論理や正義を、真正な社会(生活の場)に持ち込むことは、《システム》の側、壁の側に立つことになります。
 念のため繰り返せば、私にとっては「社会運動」は必要です。しかし、それは非真正な社会における「論理と正義」が必要であるという意味です。それとは異なる社会の層である真正な社会にそれを持ち込むのは誤りです。そこでは、代替不可能な関係、「かけがえのない魂」が必要だからです。つまり、両方とも必要だということ、それを認めれば、《システム》に対抗する「社会運動」を是とする人たちが村上さんの受賞講演を批判する理由はほとんどなくなるでしょう。

 村上さんの受賞講演を読んだとき、これは大切なことを言っていると思ったので、つい長く書いてしまいました。誰も最後まで読んでくれない長さになったかな。

*1:最初にことわっておけば、私は村上春樹さんの良い読者ではありません。『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』あたりまでは読んでいたのですが、それ以降はまったく読んでいません。村上さんの小説を読まなくなったというより、その頃から小説というものをほとんど読まなくなったからです。『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件をめぐるインタヴュー集というノンフィクションということで買ったのですが、実は今日にいたるまで読みそびれています。

*2:http://www.47news.jp/47topics/e/93880.php

*3:「個人とシステムの対立」といったような解釈が平凡な解釈の例です。

*4:たとえば、47NEWS のサイト(http://www.47news.jp/47topics/e/93879.php)の日本語訳では、‘the uniqueness of each individual soul’を「個々の精神の個性」と訳しています。

*5:社会学者の土井隆義さんが『「個性」を煽られる子どもたち』のなかでそのような批判をしていましたし、最近もはてなブログでそのようなエントリーがありました。

*6:もちろん、役割関係は「真正な社会」の層にもあります。たとえば「親子関係」での「父親」とか「息子」も役割がきめられている、代替可能な役割関係です。そうでなければ、親がいなくなったときに代わりが誰もできないという困ったことになります。しかし、真正な社会での代替可能な役割関係は、その基盤として代替不可能な関係があります。「養父」も、父親という役割を代わりにするのですが(その意味では代替可能なのですが)、しかし、その養父も「代替不可能な関係」が子どもたちとの間になければその役割をはたすことができないのです。それは、《システム》での代替可能な役割関係とは違います。《システム》においては誰でも入れ替われる関係だけで成り立っていることが肝要だからです。その意味で、内田樹さんが、ブログの「壁と卵(つづき)」(http://blog.tatsuru.com/2009/02/20_1543.php)という文章の中で、「System というのは端的には『言語』あるいは『記号体系』のことだ」と言っているのは言いすぎでしょう。《システム》は国家権力とか資本主義体制とかのことではないということを強調したかったのかもしれませんが。そこには「卵=かけがえのない魂」の側の「希望」は見えなくなってしまいます。たしかに、真正な社会においても社会関係は代替可能なものとしてあります。それを「記号体系」と呼ぶことはできます。しかし、重要なことは、真正な社会における〈顔〉のある関係では、その代替可能性は代替不可能な関係と相互に変換可能であり、そのような変換を通じて、社会をつくることができるのだという点にあります。

*7:はてなブログでも、mojimojiさん(「もじもじ君の日記。みたいな。」)が、そのような批判に対して孤軍奮闘して擁護しています。「代弁の問題」を扱ったエントリー(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090220/p1)はお勧めです

*8:ひとつだけ、ちょっと別の批判として、村上さんが、「《システム》が私たちを作ったのではなく、私たちが《システム》を作ったのです」と言っているのに対して、「実際にはレヴィ=ストロースが指摘しているように、『人間』が『社会構造を作る』のではなく『社会構造』が『人間を作る』、というのが今日的状況です。(もしそれが論理的に誤りであるならばサルトルが否定されることは無かったでしょう)このレヴィ=ストロースの論理は、上記に引用した村上春樹の言葉を木っ端微塵に粉砕するほど強力です」という批判があったので、ひとこと触れておきましょう。レヴィ=ストロースのいう「構造」は《システム》とはまったく違いますし、「社会構造」ですらありません。村上さんの言葉でいえば、レヴィ=ストロースの「構造」は、《システム》ではなく「代替不可能な魂のつながり」のほうにあります。それが「人間」を作るのです。