戦略的本質主義を乗り越えるには(3)

 卒論面接やら修論面接やら書類作成やら入試業務やら学会の理事会やらが続き、きょうはなんと11日振りの休みです。もっとも明日には博士論文の口頭試問があり、その準備でゆっくりできない状況ですが。
さて、「戦略的本質主義を乗り越えるには(3)」を書こうと思いますが、前回から間が空きすぎて、何から書いていいやら。

これまで、「個の代替不可能性」と〈かけがえのない私〉とを、相互入れ替え可能な語として使ってきましたが、この二つは厳密に言えば違います。「個の代替不可能性」というときの「個」は、他者にとっての「個」です。そして、〈かけがえのない私〉とは、他者にとって自分が代替不可能な存在となっていることの反照でしかありません。
 他者にとっての「個の代替不可能性」は、典型的には死ないしは喪失によって顕在化します。いつも使う例で恐縮ですが、子どもを亡くした親に向かって、「子どもはまた作ればいいじゃない」とか「もっとかわいくて賢い子どもが残っているんだから」と言う人はいないでしょう。その子どもは、他の子どもによって代替することはできず、かわいいとか賢いといった比較可能な属性によって親にとってかけがえのない存在となっていたわけでもないことを分かっているからです。個のかけがえのなさが「個性」といったものとは無縁だということも明らかです。個性などなくても、存在するだけで、周囲の〈顔〉のある関係にある他者にとって、ひとは「代替不可能」で「かけがえのない」存在です。そして、自分が他の人にとって代替不可能であるということに気づいたとき、私は〈かけがえのない私〉であることを認識できるのです。
 ただ、文化人類学者の渡辺公三さんが、「森と器」という論文(波平恵美子編『病むことの文化』海鳴社)で言っているように、「個の代替不可能性」が露わになることは、社会的秩序を脅かします。社会的秩序は、個が代替可能であること、いいかえれば、個が一定の役割(母親や母方オジも「役割」です)を担うことで成り立つからです。役割とは、代替可能なものでなくてはなりません。いくら私が優れた「文化人類学の教員」であっても、私が不在となったときには、その役割を他の教師が代替できなくては大学という組織の秩序は維持できないでしょう。
 しかし、同時に、「個の代替不可能性」がなくては、社会的なものを生成する「社会的連帯」は成り立ちません。逆に言えば、「個の代替可能性」や「役割連関」だけでは社会は成立しないということです。「個の代替不可能性」が社会的連帯の基盤となるのは、そこに「根源的な偶然性」が含まれているからです。そのことを見事に表しているアルアォンソ・リンギスの文章を(論文でも引用したものですが)引用しておきましょう。

 きみはリーノーの病院で生まれた、きみはリオ郊外の名もないスラム街のある汚い小屋のなかで生まれた。きみの存在は、いかにかけがえのないものだろうか! 偶然にある女とある男が出会い――地球の25億の男のなかから、偶然にその男と出会い、思いもかけず男は女を気に入り女は男を気に入り、二人は服を脱いで交接し、そして、ヴァギナのなかへと繰り返し射出される精子のなかから、ひとつが偶然にこの卵子と出会い、そのなかに吸収されたのだ。百万の偶然の出会いが作り上げる人生行路の曲がり角を、どこか少しでも違ったふうに曲がっていれば、生まれたのはきみではなく誰か別の人物だっただろう。(リンギス『汝の敵を愛せ』洛北出版、167頁)

 「生まれたのはきみではなく誰か別の人物だった」というような根源的な偶然性は、偶然性を運命へと転化すると同時に、自分がその別の人物だったかもしれない、名も知らぬ誰かとの社会的連帯を生み出すのです。これは、ロールズのいう「無知のヴェール」に似ているように見えますが、違っています。ロールズの「無知のヴェール」の仮想は、自分が「何者か(what)」という属性(階級や性別や人種・民族、職業等)を知らなければ、自分がそうであるかもしれない属性による差別や格差を是認することなく、公平さを追求するだろう、だから公平な再分配は合理的だということを示すためのものです(たぶん)。それは、合理的な計算をする主体が代替可能性による役割や比較可能な属性(「何者」)における公平さを自分にとっても有利だと計算して出てくる社会的連帯です。それに対して、根源的な偶然性による社会的連帯は、自分が「誰か(who)」という、代替不可能性からくるものです。
デュルケームが社会的連帯を二つに分けた用語を援用すれば(デュルケームはその二つを前近代から近代への社会進化を示すものとして使っていますが、それを換骨奪胎して用いれば)、前者は分業による役割連関において生じる、役割間の有機的連帯であるのに対して、後者の根源的な偶然性による社会的連帯は、類似性による機械的連帯です。その類似性は、互いに代替不可能で、別の誰かと私とは根本的に違うという差異をベースにした類似性です。それを隠喩的関係と呼んでもいいでしょう。隠喩は類似性によって成り立ちますが、隠喩が隠喩であるには、比喩するものと比喩されるものとの間に根本的な差異がなければなりません。根本的な差異を前提としつつ、ただ共に存在するだけで成り立つ類似性によって、機械的連帯は生じるのです。そして、ここで主張したいことは、機械的連帯こそがあらゆる「社会的連帯」の基盤であり、役割連関による有機的連帯だけでは社会的連帯は成り立たないということです。デュルケームは、有機的連帯において「個人主義」が登場してくると述べました。周囲の人の役割とは違う独自の役割を担うことによって、個の自立が生成されるからです。しかし、この議論で注目すべきは、その自立した「個」は、比較可能で代替可能な役割からきているということです(この役割を個性と言い換えてもいいでしょう)。そのような近代における「個人」は、個の代替不可能性ではなく、代替可能性の上に成り立っているゆえに、根源的な社会的連帯も〈自己のかけがえのなさ〉も生み出さないのです。
 さて、1月27日の「戦略的本質主義を乗り越えるために(2)」で、予告として、

 問題は、では「個の代替不可能性」によって社会的連帯がはたして可能となるのか、ということです。それは、社会的役割やカテゴリーを無化してしまうのだから、社会的連帯を不可能にしてしまうのではないかという疑問がでてくるでしょう。しかし、私は、「個の代替不可能性」こそ自己肯定の基盤でありかつ社会的連帯の基礎となるものだと考えています。そのポイントは、「個の代替不可能性」に含まれる「根源的な偶然性」と、「個の代替不可能性」が出現する「〈顔〉のある関係」に見られる「関係の過剰性」にあります。

と書きました。残された論点は、「〈顔〉のある関係」に見られる「関係の過剰性」が、「役割連関」による社会的秩序を越えたものであり、根源的な社会的連帯(機械的連帯)からきていること、そして、それこそが差異を保持するものであり、個人化による自己選択は、社会的なものの液状化を生むだけで、むしろ差異や多様性をなくしてしまうこと、また、コミュニタリアンもリベラルも、「閉じられた同質的な共同体」を前提としていて、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」を見落としていること、そして、その見落としは、戦略的本質主義にもあることというものです。
 しかし、きょうはこれくらいにして、続きはまた後日(いったいいつまで続くんだろう?)。