「真正性の水準」再考

 海とばばさんは、

「スピリチュアル」になぜ突然(?)反応し始めたのかなあと思っておりましたが、「個人化」のところからそちらへ発展したんですね。

と書いていますが、もともと災因論の研究から調査研究を始めて、アフリカのクリア社会では占い師のところに通いつめていたんですよ。もっとも、それを「スピリチュアル」とか「スピリチュアリズム」という語では呼びません。というのも、19世紀にイギリスで始まったスピリチュアリズムは、始まったときから、科学的言説とメディアに媒介されたものだったからです。つまり、非真正なレベルで客体化されたものです(その意味では「原理主義」と同じ誕生の仕方です)。そのような非真正なレベルとは異なる、真正な社会での占いは、道具立ては同じでも意味が異なっています。まさに、海とばばさんが沖縄のユタについて言っているように、「『しがらみ』との兼ね合い」において働いているのであって、「しがらみ」を断ち切るように機能しているわけではないということです。
 「真正性の水準」について補足しておけば、そこで言われる「真正な社会」というのは、媒介された非真正な社会と無関係に存在するわけではありません。それは、すでに非真正な社会に包摂されたなかで出現しているものです。無関係で切れていたら、その水準をわざわざ区別する必要もなくなります。レヴィ=ストロースが、人類学の貢献はこの「真正性の水準」による二つの社会様態の区別を導入した点にあるとされるようになるだろうと述べているのも、生活の中の〈顔〉のある関係に足場をおく人類学者なら、非真正な社会に包摂されながらも人々が営んでいる真正な社会生活をそこに見出すことができるからでした。
 ですから、純粋な「真正な社会」がメディアやシステムに汚染されていっているのだという言い方は間違っています。たしかに、レヴィ=ストロースは、非真正な社会に包摂され、法や貨幣やメディアに媒介された一元的コミュニケーション(使用可能な情報量がはるかに少ないコミュニケーション)が拡大していっても、「非真正性」のしるしを帯びたその広大な全体の中に、「真正な社会」が不完全なものであれ「島」のように点在していると言っていますが、それは現代社会では「不完全になった」ということに重点が置かれているのではありません。どんな状況でも、〈顔〉のある関係による真正な社会生活が、一見非真正性のしるしを帯びながらも、創られていくということでしょう。レヴィ=ストロース自身、現代社会の職場での人間関係や近隣関係、そして若者のサブカルチャーに「真正性」を見出しています。したがって、昔はあった「真正な社会」を復元しろとか守れといったことではないわけです。
現在、非真正性のレベルで「個人化」が進展していっています。それは、たしかに、中間的な集団やそこでの人と人との絆の維持を困難にしていきます。すでに指摘したように職場での真正な社会という「島」はどんどん減っているのかもしれません。しかし、長期的にみれば、それはまた別のところで創られていくのでしょう。もちろん、レヴィ=ストロースのいう、「他の社会科学への人類学の貢献」が成功すれば、人々の目はもっと真正な社会に向いて、現在進行中の「島」の減少を食い止めることもできるのでしょうけれども。
大事なことは、非真正性のレベルでの「個人化」の進展と、真正性のレベルでの「個人化」の不可能性をきちんと区別しておくことでしょう。そうでないと、真正性のレベルでの「個人化=自己決定」は「しがらみ」から自由になることだからいいことだ、非真正性のレベルでの「個人化」も悪いことではないが、そのためには国家にセーフティネットの充実を要求する必要があるという議論になってしまうでしょう。