水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む

 悪い癖でもあるのですが、ベストセラーや話題となっている本にはどうも食指が動きません。『バカの壁』はついこの間読んだばかりですし、『生物と無生物のあいだ』や『悩む力』は買う気もまだ起こりません。養老孟司さんや姜尚中さんの本は『バカの壁』や『悩む力』以前の本はたいてい買っていたのですから、ベストセラーに対する偏見としかいいようがないのですが。みんなが買っているものを読むのがいやなのか、いろいろ書評やコメントが出ているともう読んだ気になるのか、やっかみなのか。ただ、いちおう自分なりの理屈はあります。
 『バカの壁』(それなりに面白かったです)のように、話題にならなくなってから機会があれば読むこともありますし、それでもっと早く読めばよかったと後悔することもほとんどありません。ひとそれぞれにその本と出会ういい時期というかタイミングというものがあるわけで、そのときが来たら自然と読むべきものは読むことになりますし、それがその本を理解したりその本でものを考えたりするのにも一番いいと思っています。ベストセラーや話題になったときに読むというのは、その時期じゃないことが多く、不幸な出会いとなってしまうことになります。
 さて、ベストセラーや話題の本を私はなせ読まないかという言い訳から入ったのは、取り上げる本がベストセラーであり話題の本だからです。信条(言い訳を書いているうちに「悪い癖」が「信条」まで昇格したようです)に反して、話題の本を買ったのは、ウェブ上の書評かコメントに、水村美苗さん*1の『日本語が亡びるとき』は、夫君である岩井克人さんの貨幣論と同じ図式を言語ないし文学に適用したものという評があったからです。ちょうど書いている原稿の一部分で、岩井さんの「貨幣や資本主義のように純粋に形式的な論理によっているものに抵抗するのであれば、同じように純粋に形式的な論理によるのでなければ勝てない」という議論を批判的に入口にして、「敗北の場所としての人類学的場所」という議論を書いていたので、なにか思考の糸口になるかなと思ったからでした。去年の暮に買ったのですが、刊行後2か月もたたないのに第四刷になっていました。ようやく今月になって読み始めたというわけです(信条に義理立てして買ってすぐには読まなかった、というわけではなく、原稿の締切りに追われていたからで、2月2日にいちおう締切りのある原稿書きが終わったので読み始めたということです)。
 この読書ノートを書くにあたって、話題の本を遅れてレヴューする者としては、すでに言われていることだけを並べる愚を避けたいと思い、先行するレヴューを見るために「日本語が亡びるとき 書評」でグーグル検索してみました(ちなみに約158,000件で、「日本語が亡びるとき」で検索すると約404,000件でした)。80番目くらいまでつまみ読みをしましたが、印象としては、英語圏で暮らしたり赴いたりして、英語という「普遍語」を使いながらブラヴェートで日本語を使用している「二重言語者」に賛同者が多いようです。まあ、「分かる〜、私のことだわ」という実感以外に、この本では「二重言語者」を〈叡智を求める人〉と同一としているので、賛同すると自分も〈叡智を求める人〉だと勘違いできるということもあるのかもしれません。
 それはともかく、当然のことながら、賛否両方のレヴューともその大半がどこをどう読んだのだろうというものでした。「当然のことながら」というのは、ベストセラーや話題の本は話題になっているから読んだのでしょうから、読むべき人が読むべき時期に読んだわけではなく、そのような読む必要のない人が読む必要のないときに読んでの感想やコメントは当然のことながら「書く必要のない」ものになっているわけです。
 たとえば、ウェブ上のレヴューや感想で反発をもって最も多く引用されていたのが、第一章の最後のパラグラフでした。

 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見いだしたりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。(59頁)

 これに対して、どうして「幼稚な光景」というのか説明がないとか、「今、日本語で何が書かれているかが大事なのだ」と反発しても仕方がないでしょう。ここは、この本が誰に向けて書かれているのかを述べているところなのだから、この本は自分に向けて書かれていないのだと思って本を閉じるのが正解でしょう。お金を払って買った本であれば、自分向けじゃなかったんだとがっかりするのはわかりますが、仕事やレポートのために読まなくちゃならない人以外は、自分が間違って買ったのだと諦めるしかないところです。消費社会は「成熟」すると「幼稚」になるものですが、売っているすべてのモノが「自分向け」であるべきだと思っている消費者がなんで自分向けに書いていないのだというクレイムをつけているのに近いように思います。
 その意味では、この本がウェブ上で話題となるきっかけを作ったとされる梅田望夫さんがこの本をお勧めしたエントリー(書評でもレヴューでもなく、推薦ですが)のタイトルが「水村美苗日本語が亡びるとき』は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。」となっているのは、推薦した本の内容自体を裏切っているものでした。すべての日本人がこの本を読んで感動するくらいなら、この本は書かれなかったでしょうし、「すべての日本人」に勧めてベストセラーになった結果、自分向けでないと書いてあるのに、それを非難する人たちが多く出てきてしまったわけですから*2
 私はといえば、ここまで読んだとき、「あ、これは自分に向けて書かれているんじゃないんだ」とわかったわけですが(「この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂え」たことはありませんから)、そういうときは、たとえ著者の「問題意識」が自分のものとは大きく違っていても、よほどそれがあほらしく思えて理解不能でないかぎり(そういう場合は高価な本でも時間の無駄ですから読むのをやめます)、ひとまず自分の「問題」とし、その本が想定する読者になって読むという方針で臨むことにしています*3
 また、水村さんの言っていることに賛同すると書いてあるレヴューのなかに不思議なことに、「誰にでも書けるような」たんなる感想文のようなものがけっこうあります。水村さんがこの本の七章で言っていることのひとつは、学校教育では、すべての生徒に、分からなくてもいいから日本語の〈読まれるべき言葉〉を読ませて、〈読まれるべき言葉〉を読むことに慣れさせるべきなのに、現状は「誰にでも読めるだけでなく、誰にでも書けるような文章を教科書に載せるという馬鹿げたことをするようになった」というものでした。つまり、誰にでも読めるような文章を読ませて、「誰でも書ける」ことに主眼を置くことが〈国語〉としての日本語を亡ぼしていくと書いているのに、それに賛同すると「誰にでも書ける文章」をブログに書くこと自体、水村さんのいう「読む」ことの衰退を象徴的に表しているのでしょう*4
 逆に、批判する側に多いのが、専門家の書いた研究書であるかのように批判しているものです。この本で「母語」と「国語」の違いがはじめてわかったと書いている人もいる一方で、国語や言語について別に新しいことは何も書かれていないとコメントする人も。けれども、社会言語学や言語史の研究者が書いた本ではないのだから、「新しい史実」が書かれていなくても当然で、それを求めるのは無いものねだりでしょう。実際、この本の注に挙げられている文献は専門書ではなく、読書人向けに書かれたものがほとんどですから、専門家でなくても知っていることばかりだというのは十分ありえることです。そういった事実を啓蒙するためのテキストブックならば、この本よりもいい本がいくらでもあります。だからといって、この本が無意味になるわけではありません。水村さん自身が社会言語学者や言語史の専門家が書いた一般読書人向けの本を読んで知ったつまみ食いの事実からどのような問題を引き出してきたのかを検討するべきでしょう。
 ただ、水村さんがつぎのように書いているところは、社会言語学に通じている人が批判するのもわかります。

 言語の専門家である言語学者の多くは、私のこのような恐れ(普遍語となった英語と母語の二重使用が続けば、英語以外の言葉が影響を受けずにはいられないということ−引用者注記)を、素人のたわごととして聞き流すにちがいない。私が理解するかぎりにおいて、今の言語学の主流は、音声を中心に言葉の体系を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言葉も、まったく同じ価値をもったものとして考察するということであり、〈書き言葉〉そのものに上下があるなどという考えは逆立ちしても入りこむ余地がない。(51頁)

 水村さんが扱っているような「国語」や「言語接触」や「多言語使用」や「言語政策」といった言語の問題の専門家は社会言語学者なのですが(水村さん自身もその成果を使っています)、言語の力の上下関係を問題にしているのですから、言語の流通力や政治的力に違いがないなどという社会言語学者はいないでしょう。それとそれぞれの言語が「同じ価値をもつ」という言語学者の立場は矛盾しません*5。以下の引用文は、私が「敗北の場所としての人類学的場所」という議論で引用しようと思っている社会言語学者のことばです(市村弘正さんの本からの孫引きですが)。

 「世界文学」イデオロギーは「国民文学」を介して世界を制覇したのである。言うまでもなく現代では、ある言語共同体の言語作品が世界文学に参与するために前提となる資格は、それが国民文学、あるいは国家文学として認知されることによって得られるからである。
 「国民文学」を通じての「世界文学」の普及は、もはやそこに参与することが絶望的となった文学的落伍者を作り出した。その文学的落伍者とは、まず何よりも言語的少数者、あるいは少数者言語の話し手としてあらわれる。言語的少数者は、圧倒的な国家語からの絶え間のない圧力に抗しきれずに、かれらの伝統的文学活動の要具である母語を放棄するよう迫られているのである。(田中克彦「大きな言語・小さな言語」)

 このように、社会言語学者である田中さんは、小さな言語はたとえ文字を得たとしても「国民文学」を介した「世界文学」に参与できずに、敗れ去っていくと述べていたのでした。
 さて、前置きはこれくらいにして(えっ、ここまで前置きだったの!)、本題に入りましょう(きょうのエントリーは長くなりますから、忙しい人やウェブ上での「論争」(?)や「話題」に興味のある人はここまででけっこうですよ)。
 水村さんが、社会言語学や言語史学の成果や、ベネディクト・アンダーソンの本から得た知見(それは誰にでも簡単に手に入るものです)から自分の「問題」を引き出すのに用いた視点は、「〈叡智を求める人〉が引きつけられる〈普遍語〉の〈図書館〉」という視点でした。その中心となる〈普遍語〉という概念は、社会言語学者なら「媒介言語」と呼ぶものに含まれてしまいますが、水村さんの〈普遍語〉は、ベネディクト・アンダーソンのいう「聖なる言語」と、夫君である岩井克人さんの貨幣論(資本主義論)の「基軸通貨」の議論とを合わせたようなユニークなものとなっています。でも、そのユニークさに問題点もあります。つまり、近代以前の大文明の正典=聖典の言語である「聖なる言語」(漢語やパーリ語サンスクリット語や、ギリシア語・ラテン語アラビア語など)と、現代の英語のように「基軸言語」でしかないものとを同じ〈普遍語〉という概念でまとめてしまうことに、水村さんの議論のユニークさと同時に弱点があるということです。
 外部からやってきた「書き言葉」である「聖なる言語」は、少数の〈叡智を求める人〉にとって引きつけられる「正典=聖典」の言語であり、それは、たしかに〈読まれるべき言葉〉でした*6。そして、少数の〈叡智を求める人〉たる「二重言語者」の「読む」という「翻訳」の実践を通して、多くの周辺の言語も「書き言葉」を獲得しました。言語史学でも指摘されていることですが、「書き言葉」は「話し言葉」を書き写したものとして成立したのではなく、「翻訳」という実践によって成立したのだという水村さんの指摘は正しいでしょう。そして、その「聖なる言葉」の翻訳を通して「口語俗語」が「書き言葉」を獲得し、それが近代以降の〈国語〉(国家語)のもととなっていきます。しかし、それだけでは「口語俗語」は〈国語〉にはなりません。アンダーソンや田中さんやその他大勢の人たちが繰り返し指摘してきたように、それは「印刷資本主義」(「出版語」)と「国民文学」との成立が不可欠でした。書評には、水村さんが国語の問題と文学の問題を混同しているという評がありましたが、アンダーソンや田中さんの本を読んでいれば、そのような評は出なかったでしょう。こうして、「聖なる言語」としての〈普遍語〉の時代から〈国語〉の時代へと移っていき、水村さんのいう〈普遍語〉〈国語〉〈現地語〉という三層構造が成立するわけですが、重要なことは、このとき中心にあったのは〈国語〉であり、「世界文学」というものが「国民文学」を介してしか成立しなかったように、〈国語〉の世紀が続いていたということです。
 水村さんの「問題意識」というか「危機感」は、現在、英語が再び〈普遍語〉の位置を占めるようになり、続いていた「〈国語〉=〈国民文学〉の世紀」が終わるということでしょう。しかし、現在、英語が〈普遍語〉となりつつあるのは、英語が、〈国語〉の世紀以前の「聖なる言語」のように〈読まれるべき言葉〉という実質があるからではなく、ドルが基軸通貨(通貨の通貨)となったのと同じく、英語それ自体に根拠があるわけではありません。つまり、ドルが基軸通貨であるのはたまたま基軸通貨になったからであるのと同じく、英語がたまたま基軸言語になったから基軸言語であるということです。英語が「言語の言語」としての基軸通貨となり、ウェブ上に「基軸通貨としての英語の〈大図書館〉」が仮にできたとしても、そこにはすでに、〈国語〉の世紀以前のような、「〈叡智を求める人〉が引きつけられる〈普遍語〉の〈図書館〉」という図式はなくなっています。たしかに、英語は基軸言語であり、日本の人類学者たちも英語で論文や本を出版するようになっていますし、その傾向はますます進むでしょう。でも、少数の〈叡智を求める人〉たちは、現地語を含めた多言語的状況のなかで「翻訳」の作業をするという知的実践をやめないでしょうし、夏目漱石レヴィ=ストロースレヴィナスといったような〈叡智を求める人〉たちが、これから英語だけで書くという実践のなかで生まれたり〈叡智を求める人〉となったりできるなんてことは逆にありえないでしょう。
 もちろん、英語という基軸言語に比べて「小さな言語」である他の〈国語〉や、ましてもっと小さな言語である〈現地語〉は、基軸言語との争いに負け続けるでしょう。学者は研究成果を英語で発表しなければ、学者として認められなくなるでしょう。しかし、市村弘正さんがいうように、「敗北の場所はまた思考の場所でもある」のであり、〈叡智〉もまた敗北の場所にあります。基軸言語への抵抗は、「勝つ」ために行うのであれば、基軸言語と同等の普遍性を獲得しなければ勝てないのは道理です。もし、そうでなければ(水村さんもまた「勝つ」ためにと思ってはいないのであれば)、大事なのは、かつての〈普遍語〉に対抗し得た〈国語〉の世紀の「国民文学」を「正典=聖典」として護ることではなく(つまり「大きい言語」の「大きさ」を守ることではなく)、「小ささ」ゆえの「翻訳」という実践の中の〈叡智〉を守ることでしょう。「翻訳」という作業はその〈叡智〉を求める手段ではなくて、〈叡智を求める〉ことそのもの、もっといえば〈叡智〉をつくり出す実践であるはずです。

*1:水村さんの本を最初に読んだのは『續明暗』が文庫になったときで、ケニアで読んだのでした。また、はじめてお名前を見たときに、「美笛」と見間違えて、「なんて読むんだろう、みふえ?」と思ったのを覚えています。

*2:でも、水村さんも『新潮』で梅田さんと対談しているところを見ると(読んではいませんが)、そのおかげでベストセラーになったことを喜んでおられるようですから、私が文句をいう筋合いのものではないようです。

*3:院生たちにテキストを読ませると、どうも「批判的に読め」と学部で教わってきているせいか、テキストをまず批判します。そういう院生たちにはよく、「批判的に読む」ことをやめよと言います。批判的に読むなんて誰にでも出来ますし、いずれ論文を書くときには批判するしかないのですから(論文に誰々の言っていることに賛同するとだけ書いたら、じゃあ改めて君が書く必要はないといわれるだけです)、まずは共感しながら読めと。自分と問題意識が異なっているテキストに「共感」できるかどうかが、唯一、自分の「問題意識」を高めることにつながるのですから、批判するのはそのあとですればいいことです。

*4:もちろん、これは自分のことを棚に上げて書いていますが。

*5:人類学者も、すべての文化は同じ価値をもつと言いますが、それは、各文化に力の上下関係がないということではありません。そうでなければ植民地文化の研究などできないでしょう。

*6:水村さんへの批判として、何が〈読まれるべき言語〉なのかは決まっていないし、だれがそれを決めるのか、というものが多く出されていますが、「聖なる言語」としての〈普遍語〉の時代においては、「正典=聖典」が決まっており、当然、〈読まれるべき言語〉がそれぞれの文明圏で決まっていたわけです。