「客体化」論から「範型化」論へ――システムに抗して

 前回のエントリーで、松田素二さんの「切断」という概念について紹介・解説しましたが*1、その際に「切断」と「範型化」との関係について説明が分かりにくかったかもしれません*2。この「範型化」は、ある意味では「切断」よりも重要な概念かもしれません。そこで、「範型化」について、人類学でよく使われる「客体化objectification」の概念と対比させて説明したいと思います。そんな話題、人類学者以外に誰が興味をもつのと言われそうですが、システムによる支配やグローバル化にどのように対抗して生きて行くかということを考えるときのヒントになるはずです。
 人類学で「客体化objectification」という語を最初に広めたのは、ロイ・ワグナーの『文化のインベンション』*3とされていますが、ワグナーのいう「客体化」は、人類学者が異文化を目の当たりにして、その異文化を理解するために対象社会の「文化」を「発明」するということを第一に意味しており、現地の人々が自分たちの文化を「客体化」するという話ではありませんでした。ワグナーが、カーゴ・カルトを「反転した人類学」と呼んで、現地の対象社会の住民たちも同じように文化を発明することを示唆していることから、前川啓治さんは、ワグナーのいう「客体化」を政治的意味合いのない「原理的客体化」と捉えて、対象社会の人びとの行なうアイデンティティ・ポリティクスとしての「操作的客体化」と区別しています*4。しかし、吉岡政紱さん*5が述べているように、「原理的客体化」と「操作的客体化」は実際の「操作」という点ではほとんど区別できず、その区別は「政治的意味合い」を持たせているか否かというところにしか求められません。そして、「政治的意味合い」の有無によるこの区別は、落とし穴に落ちる危険性があります。すなわち、「原理的客体化」に政治的意味合いがないようにみえるのは、人類学者が世界システム上の強者側の社会から弱者の社会へと赴くからであり、弱者の社会の異文化に直面してもそこに政治的な対抗という意味合いを持たせる必要がないからです。そして、その非対称的な関係こそ、政治的なものです。また、そのような客体化が調査対象の社会の住民にも見られるからといって、それをあたかも対称的な「原理的客体化」として捉えることは、前川さんの主張に反して、現実の非対称的な政治的関係ないしは暴力的支配関係を曖昧にするという、構築主義の罠に陥ることになります。
 さて、人類学で広く使われている「客体化」は、弱者の側が行なうもので、政治的な意味合いをもつとされる「対抗的客体化」(前川さんが「操作的客体化」と呼んだもの)のほうです。代表的な論者は、リチャード・ハンドラーやニコラス・トーマス、ジョスリン・リネキンで、日本では太田好信さん*6が代表的な論者です。この「対抗的客体化」または「操作的客体化」とは、近代西洋文明という圧倒的な力を持つ支配的文化に包摂されようとしたときに、自分たちの文化のある要素を選択し、もとのコンテクストから切り離して新しいコンテクストに置くことでかつてとは異なるものにしつつ、その文化全体を代表する正統的なものとして表象することを指しています。その目的は、抑圧され周縁化された自分たちの「文化」を肯定的なものとするアイデンティティ・ポリティクスを行なうことです。
 ニコラス・トーマスは、「伝統の倒置」という論文*7で、「対抗的客体化」の例として、フィジーの「ケレケレ」という親族間の贈与慣行の客体化を挙げています。現在では、「ケレケレ」は、フィジー人自身によって、フィジーの代表的な伝統として語られ、フィジー人のアイデンティティとなっているといいます。けれども、トーマスによれば、ケレケレは植民地化以前にはさまざまな交換の諸慣行のひとつであり、それほど目立つものではなかったようです。それが、植民地統治者によって、親族間の物乞いとか企業家精神の育成を妨げる非合理的な浪費とされ、抑圧されることにより、逆にフィジーの人々によって、ヨーロッパの個人主義的で利己的で資本主義的な文化とは対照的な、フィジー共同体主義的で利他的で相互扶助的な伝統文化を象徴するものとして「客体化」されたというわけです。つまり、他者によって与えられた自分たちの文化の表象(「非合理な浪費」や「非自律性」)を逆転させ、自分たちの文化を西洋と対立するものとして提示できる要素を選び出し、それを、「西洋近代=資本主義的・個人主義的(利己的)/自分たちフィジーの伝統=共同体主義的・相互扶助的(利他的)」という二元論的対立によって、フィジーの伝統の全体を表すものとして「全体化」するという操作のことを、トーマスは「対抗的客体化」と呼んでいるのです。この操作は、一言でいえば、ヨーロッパ人による「オリエンタリズム」の二元論の構図はそのままに、価値の優劣だけを倒置した「オクシデンタリズム」と言えるでしょう。そして、これは、記号論的にいえば、この操作は、(部分で全体を表象するという意味で)ツリー状二元論構造の「提喩的操作」となっています。
 さて、このような「操作的客体化」に対して、松田素二さんのいう「範型化」とは、たとえば、田舎の村からナイロビに出た出稼ぎ移民たちが「都市の生は仮、村の生は真」といったワンパターン化された語りを繰り返すといったことを指し、定型化されたイディオムを多用するような生活実践を意味しているようです。そして、この「範型化」は、論理性や首尾一貫性を絶対的基準とする近代知による「意味化の権力」に亀裂を生じさせ、無意味化する「ソフトレジスタンス」となるというわけです。
 「都市の生は仮、村の生は真」といったワンパターンの語りは、「都会=混乱=競争主義=利己的=個人主義的=近代」と「故郷=調和=相互扶助=利他的=共同体主義的=伝統」といった二元論的な対立からなっていて、オクシデンタリズムや文化の客体化と同じ構図をもっています。そのような象徴的に構築された、現実とは程遠い語り*8を操ることによって、都市での苦難を耐え忍んでいるわけで、その意味でも「操作的客体化」に似ています。実際に都市での苦難に対処するのは、擬似親族関係の創出や互助原理の変換によるよそ者との相互扶助のネットワーク化といった、融通無碍で臨機応変の生活実践ですが、そのような混沌とした世界だけでは持続的に生きていけないということでしょう。そして、そのような臨機応変の生活実践と、範型化された語りとの間の矛盾を、葛藤や矛盾としないための戦略が、前回説明した「切断」という方法です。
 しかし、「切断」しているだけなら、「範型化」と「客体化」を区別する必要はないでしょう。客体化された語りを現実と矛盾させないためのものが「切断」なのですから、わざわざ「範型化」といわなくても、「『切断』つきの客体化」ですむでしょう。もともと「客体化」と「範型化」は、象徴的操作という点ではほぼ同じことを指していたわけですから。けれども、「範型化」として、「客体化」との違いを強調する積極的な理由があります。すでに前回述べたように、範型化は、《ブリコラージュのための「雑多な断片の残りもの」のなかに入れる》ためのものです。そして範型化された紋切り型のイディオムをブリコラージュによって(互いに矛盾したまま)ちぐはぐに繋いでいくというやり方は「生活知」によっていますが、それは「擬似親族関係の創出や互助原理の変換」といった臨機応変で融通無碍な生活実践の論理でもあります。つまり、「切断」された「範型化されたワンパターンの語り」と「混沌とした融通無碍の生活実践」とは、同じ生活知によってなされているのです。
 そのことから、「客体化」と「範型化」の決定的な違いが見えてきます。すなわち、客体化が、ツリー状二元論構造における「提喩的操作」であり、「近代知」によるものであるのに対して、範型化は、明確な全体や意味化なしのリゾーム的構造における「換喩/隠喩的操作」であり、「生活知」によるものだという点です。意味が正反対の「ことわざ」(イディオム)を範列的に並べても、そこに矛盾など生じないように、全体から意味化される「部品」と違って、ブリコラージュに使われる「断片」は互いに矛盾しあっていても、ちぐはぐな全体を損なうことはないのです。
松田さんはそのことを「範列化」と呼んでいますが、それは「範型化された語りや文化要素」や近代的システムの制度的要素を、範列的にそのつど臨機応変に選べるもの=断片とすることです。そこから、真に重要な帰結が出てきます。それは、近代知や近代的諸制度によって全体から「意味化」されたものでも、生活実践のなかで選択可能なひとつの要素として「範列化」できるということです。つまり、学校や裁判のような近代的諸制度の要素も、客体化された文化もアイデンティティも、紋切り型のことわざのように、臨機応変に選択できる「イディオム」のひとつとなっているということです。これが、自分たちの自己肯定のために、客体化された語りやアイデンティティを表明しても、それが内部を抑圧したり臨機応変な生活実践を拘束したりしないですむ秘密なのです。そして、それが、弱者のアイデンティティ・ポリティクスを重要なものとして認める一方で、そのアイデンティティ・ポリティクスが生じさせる抑圧をどのようになくしていくのか、つまり、客体化というツリー的な「近代知」による象徴的操作をどのようにリゾーム的な「生活知」にずらしていくのかという問いへのひとつの答えでもあるのです。

*1:ちょっと前に松田さんに、「院生が松田さんの『切断』という概念を論文で使っているよ」と言ったところ、ご本人は、「そんなことを書いた覚えはない」と言っていました。それは“照れ”なのか“いい加減さ”なのか分かりませんが。

*2:黄色い犬さん、かいとばばさんのコメントもそれに触れていました。

*3:玉川大学出版部、2000年刊。Isbn:4472114410

*4:グローカリゼーションの人類学』新曜社、2004年刊。

*5:『反・ポストコロニアル人類学』風響社、2005年刊。

*6:『トランスポジションの思想』世界思想社、1998年刊。

*7:Thomas, Nicholas 1992b “The Inversion of Tradition.” American Ethnologist 19:213-232.

*8:村から脱け出したいと思ってナイロビに来た彼らは、故郷の村で必ずしも相互扶助が機能していないことも、また自分たちが都市で出身を超えた相互扶助の絆を作りながら暮らしていることも、もちろん承知の上で、「故郷」を人間らしい生活のできるところと語っているわけです。