戦略的本質主義のこと

養田さん、コメントありがとう。
 「剽窃」「盗用」「模倣」「流用」「リミックス」といった問題は、植民地文化を考える際にも、あるいは現代の音楽文化を考えるときにも興味深い問題です。
 ところで、養田さんは、

特にボー・ディドリーがエルヴィスの行為を「パクリ」と認識する背景に人種的な語られ口が採用されるようになったのはアイデンティティ・ポリティクスのようなものを感じます。

と書いていますが、たしかに、アフリカ系アメリカ人による「エルヴィス神話」の根底には、本質主義的な言説による「アイデンティティ・ポリティクス」があると言っていいでしょう。そこには「真の黒人音楽を創造できるのは黒人だけだ」という本質主義的な前提があります。
 ただし、留意すべきことは、アイデンティティ・ポリティクスを批判するだけでは話は終わらないということです。そのような本質主義的な言説の戦略的な使用(=戦略的本質主義)は、すべてを「個人」の問題に還元してマイノリティの問題を無化してしまうリベラリズムに対抗するためには必要なものだったからです。リベラルな個人主義は、「私は君が黒人であろうと気にしてはいない。なのにどうして君はこだわっているのだ」という態度で問題を捨象してしまうわけです。
 また、マイノリティの戦略的本質主義は、支配−被支配関係を見えなくしてしまうポストモダニズムや社会構築主義に対して対抗するときにも、その対抗の強度を強めるのに有効な戦略でした。そして、おそらく、現在も、リベラリズムポストモダニズムに対抗する戦略として一定の意義があります。
 とすれば、「良い本質主義アイデンティティ・ポリティクス」(すなわち、マイノリティの戦略的本質主義)と「悪い本質主義アイデンティティ・ポリティクス」(すなわち、オリエンタリズムや人種差別主義)とを分けることが肝心なのでしょうか。そうではないでしょう。「悪いナショナリズム」(すなわち、排他的国家主義)と「良いナショナリズム」(過去においては第三世界の民族解放のナショナリズム、現在なら公共ナショナリズムシビックナショナリズムといったところ)とを分けるとか、「良い資本主義」と「悪い資本主義」とを分けるといったことと同じように、そういった割り振りが思考の停止を招くだけだということは、20世紀の歴史がすでに証明しているでしょう。たとえば「大東亜戦争肯定論」は、戦略的本質主義の形をとっていました。
 つまり、話が終わらないと言ったのは、もし本質主義的なアイデンティティ・ポリティクスを否定するのであれば(私は否定したいと思っています)、リベラリズムポストモダニズムによるマイノリティ問題の無化に対抗するための別の途を示してからでなければならないということです。ただ批判するだけでは、マイノリティ問題の無化に手を貸してしまうということを肝に銘じておく必要があります。これは自戒のことばですが。