真正性の群島

 Macbethさん、ようこそ。コメントありがとうございます。コメントのなかでmacbethさんは、

「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」あるいは「《顔》のある関係」の重要性はその通りだと頷けるものでした。それら(非真正性社会に包摂された真正性の島)がますます退縮するネオ・リベラリズム期の世界資本主義という現実のなか、如何にして「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」へシフトする(あるいは真正性島の領土を拡大する)のか、その具体的な実施案(あるいはそのヒント)をお持ちでしたら、是非お教えください。

と書かれています。「真正性の島」の領土拡大というのは難しいことです。というのも、その性質上小さな島のままでしかありえないからです。領土拡大して大きくなると真正なものでなくなりますから。それと、真正な社会は固定した領土をもたないものでしょう。それはどこにでも作ることは可能ですが、固定されはしないのです。たしかに、ネオ・リベラリズム期の新資本主義は、〈顔〉のある関係を断ち切っていきます。その典型例が職場でしょう。資本は、労働力をフレキシブルに使うという長年の夢を実現しつつあります。労働者のほうも、「自己実現」のために職場での「しがらみ」を断ち切って一箇所に滞留することなく、状況に応じて臨機応変に流動しながら次から次へと新しいことにチャレンジすることが求められています。けれども、そんななかでも、真正な社会はつねにどこでも作られていきます。その「真正性の島」を再生産して維持していくために大事なことは、おそらく、つぎの2つでしょう。
第一に、「しがらみ」の両価性を認識することです。家族だろうと学校だろうと職場だろうと友人だろうと、「しがらみ」は「ウザい」ものです。また、それを回避することができればと誰もが思っているでしょう。そして、現在では、それを回避する手立てが市場や国家にいくらでも用意されています。ですから、「しがらみからの解放」というイデオロギーが流布されれば、「しがらみ」はどんどんなくなり、関係の過剰性は縮減していきます。それは、(ネオ・リベラリズムではなく)リベラリズムの夢でもありました。とくに日本のリベラリストは、日本では「共同体主義専制」(日本を代表するリベラリスト井上達夫さんの言葉です)が強いため、共同体的関係の重要性を唱えることは、個人の権利や自由を侵食すると同時に国家的公共性への参加も弱まるだけだといいます。たとえば、井上達夫さんは、日本のように中間共同体が過剰な社会統制力をもつところでは、それは「談合共同体」のようになるだけだといいます。もちろん、地方公共体ぐるみ、業界ぐるみ、会社ぐるみの「談合」には〈顔〉のある関係などなく、そこにあるのは「役割」だけです。それについては、真正性の水準の区別を忘れるべきではありませんが、真正な社会での〈顔〉のある関係の重要性を言いながらも、そこにも弊害があることは認めます。会社でもセクハラなどは〈顔〉のある関係で起こりますし、〈顔〉のある関係の相手に便宜を図ることはよくあるでしょう。しかし、弊害があるから、ウザいからといって、それを断ち切るのではなく、その両価性を認識することが大事です。そして、その弊害の可能性を含めて、そこには社会的連帯の可能性があり、そこにしか社会的連帯の可能性はないからです。たとえば、メディアで報じられた迫害された者、あるいは被害にあった弱者に、直接ではなく、国家やメディアやNPOなどの団体を通じて援助したほうが分配の効率はいいでしょう。しかし、それがていのいい「厄介払い」になっていることに留意したほうがいいでしょう。
第二に、つねにすでに作られている「真正性の島」の間を行き来して「群島」にすることです。そのいくつかの島は現在の状況にあって水没しかけているかもしれません。しかし、「群島」なら他の島にもいけますし、そこを足がかりに別の島を作ることもできるでしょう。「真正性の島」のしがらみの「ウザさ」も、他の島と群島をなしていれば、ひとつの島での「ウザさ」を他の島でウサ晴らしすることもできるでしょう。
これは、〈選択的コミットメント〉とは違います(かといってそこに「全人称・全人格的コミットメントがあるというのでもありません)。たいていの伝統的社会は、「義理」とか「恩」とか「忠誠」とか(全部古い言葉だねえ、他にもっとイメージのいい言い方はないのかね)のコミットメントを拡散させていました(ヌエルの分節体系もそうでした)。つまり、この「義理」とか「忠誠」の関係は、〈全人格的コミットメント〉とも〈選択的コミットメント〉とも違うということです。日本でも、丸山真男が『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)のなかで言っているように、まだ徳川時代までは、忠誠の関係が拡散していました。そのような社会では、丸山が言うように、

ある集団ないしその価値原理から疎外されたり、またはそれへの帰属感が減退しても、そうした疎外なり減退なりは、彼が同時に属している他の集団または価値原理に一層忠誠を投入することで補充され易いから、全体としての社会の精神的安定度は比較的に高いわけである。[丸山真男『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫、98頁]

それが、明治になって天皇への忠誠へと一元化したというわけですが、この一元化によって、どこへ行っても同じ忠誠が求められるため、閉塞感が生じるわけです。このように、一元的な価値や忠誠による社会の閉塞は、共同体の本来性からくるのではなく、近代になって生じたのです。現代でもこの忠誠の一元化は続いています。ネオ・リベラリズム以前は、まだ、たとえば国民国家への一元化と市場原理への一元化とのずれがありましたが、この二つの価値原理をネオ・リベラリズムは一致させてしまうので(一致しているようにみせるだけですが)、日本帝国の「天皇への一元化」と同じ閉塞感が生じてきます。社会学者やリベラリストは、こういったことを無視して、近代になって全人格的な共同体への帰属が衰退した結果、複数の帰属集団に部分的に属するようになり、アイデンティティが重層化して、価値観が多様になったという物語を繰り返しているわけです。
話がまた脱線してしまいましたが、「真正性の島」の群島化によって、〈選択的コミットメント〉や〈全人格的コミットメント〉(そんなコミットメントはありえないのですが、程度問題としてあったとしても)に拠らなくても、疎外や帰属意識の減退という問題は軽減されるでしょう。
 話の脱線のために、回答のつもりが長くなってしまいました。とはいってもこれだけで納得のいくものにはなっていないでしょう。具体的な策として、ネオ・リベラリズムに対抗するには、リベラリズムでもコミュニタリアニズムでも不十分だという話はまたいずれ。