戦略的本質主義を乗り越えるには(1)

 きのうの夜は、センター試験の疲れ(受験したわけじゃないけど)と、他の仕事で、予告したコメントへのコメントを書けませんでした。改めて、養田さんと黄色い犬さんのお二人のコメントから、「本物の自分」をどこかに求める志向と本質主義的言説の関係を考えてみたいと思います。
養田さんが言及してくださった拙論「現代社会の『個人化』と親密性の変容」は、「小田亮の研究ホームページ」にアップしたものです*1。そこでは、若者たちの親密な関係の作り方が〈包括的コミットメント〉から、「参入・離脱の比較的容易な関係において、生活の文脈を限定的・選択的のみに共有するような親密性」を作る〈選択的コミットメント〉へと変化しているという浅野智彦さんの議論や、状況に応じたロールプレイをするような「キャラ的人間関係」へと変化しているという森真一さんなどの社会学者の議論を使って、現代の若者たちの親密な関係の作り方における「自己」について、ポストモダン的ともいえる「自己の断片化や多元化」が見られること、そしてそのような自己の断片化や多元化そのものが、かえってポストモダン思想では否定されていた「本物の自分」や「自分らしさ=個性」といった「空虚な自己」を要請しているということを指摘しました。そこでのポイントは、〈選択的コミットメント〉や「キャラ的人間関係」が、ネオ・リベラリズムの要求している「フレキシブルな役割」と親和的だということ(これをポストモダン思考の体制化・支配的イデオロギー化と呼んでいます)、そしてその「本物の自分」や「自分らしさ」が、「個性」や「自分らしさ」といった特徴や「キャラ」や「役割」などと無関係に成り立つ「私のかけがえのなさ=個の代替不可能性ないしは比較不可能性」とはまったく違うものであり、根源的な偶然性を基盤とし、〈顔〉のある関係性において生成する個の代替不可能性こそ、ネオ・リベラリズムに対抗するための拠点となるということでした。
それを踏まえて、養田さんは、

キャラの分担は逆説的に「(与えられたキャラではない)本当の自分」を想起させるように思ったのですが、実は「本当の自分」が存在するという言説、それ自体が戦略的本質主義なのではないかと・・・。

というコメントをくださいました。そして、それに対して、私が「養田さんが言うように、キャラとは別に「本当の自分」がどこかにあるのだとすることは、新資本主義に親和的なキャラ的人間関係の不安定さに対する対抗戦略だといえます。その場合も『本当の自分』というのが『空虚な自己』であるため、本質主義的言説とは言えないでしょうけれども」というコメントをすると、黄色い犬さんが、

「本当の自分」=「空虚な自己」は本質主義的なんじゃないんですか?

というコメントを書いてくれました。それに対するコメントでも書いたように、私が「『本当の自分』というのが『空虚な自己』であるため、本質主義的言説とは言えない」と書いたのは、ふつう本質主義的言説というときの「女性」や「黒人」や「ゲイ」といったカテゴリーによるアイデンティティとはならない「本物の自分=空虚な自己」では、「自分探し」になるだけでアイデンティティ・ポリティクスにはならないからでした。
 しかし、お二人のコメントを続けて読んでいるうちに、本質主義的言説の基盤となるのが「本物の自分=空虚な自己」ではないかという気がしてきました。そして、戦略的本質主義の強みも欠陥もそこにあるのではと考えるにいたったわけです。
さらに、そのことと関連して、「現代社会の『個人化』と親密性の変容」という拙論では、ネオ・リベラリズムに対抗するためには、「根源的な偶然性を基盤とする個の代替不可能性」によってはじめて可能になる「社会的なるもの=連帯」が根拠とならなければならないという結論だったのですが、「根源的な偶然性を基盤とする個の代替不可能性」は、戦略的本質主義を乗り越えるための、リベラリズムポストモダニズムコミュニタリアニズムへの批判の根拠ともなるということを述べたいと思っています。ただ、戦略的本質主義の話だけでもかなり長くなるので、きょうは予告というか、ほんのさわりだけで、「次回に続く」となりますが(次々回以降にも続くことになるでしょう)。もっとも、コメントがゼロだとさわりの1回で終わるかもしれません。
さて、アイデンティティ・ポリティクスの核となる「本質的なアイデンティティ」とは何かということからはじめます。本質主義構築主義の論争について注意すべきことは、社会学構築主義(社会構築主義)では、たとえばジェンダーについて「性差は生物学的に決定されているのではなく、社会的・文化的に構築されているから、変えることもできる」というものが構築主義だと言われているように、「生得的か獲得的か」あるいは「不変的か可変的か」ということで本質主義構築主義の対立が理解されています。これは、文化人類学でいう本質主義とは違っています。というのも、文化人類学における構築主義が批判するのは「文化的本質主義(cultural essentialism)」だからです。とりあえず、本質主義とは何かという定義をしておけば、それは、「アラブ人」「女性」「同性愛者」「下層階級」といった民族や性や階級などのカテゴリーに共通の変わらぬ性質(本質)があるとする考え方ということになるでしょう。人類学者のR・ニーダムの用語を使えば、それらのカテゴリーは「単配列的」で、他と明確に区分しうるものだということになります。たしかに、人類学的な構築主義が攻撃する文化的本質主義でも、その単配列的に共通する「本質」は変えがたいものだという意味が含まれてはいますが、その本質主義は、それらのカテゴリーが「生得的」だと主張しているわけではなく、その多くが社会的・文化的に構築されたものだということを自明のこととして認めているのです。つまり、そのような本質を、民族や性や階級などの人間分節(カテゴリー)に属するが共有する「文化」に求めて、そこに帰属する人々が一様にその文化によって行動や思考を規定されていると捉えるものが、「文化的本質主義」であるわけです。そして、文化的本質主義は、そのような「本質」に合わせて、そのカテゴリーに属する人々の「役割」や「属性」もまた自然に決まっていくと主張するわけです。
ですから、人類学における本質主義構築主義の対立は、社会学におけるように「生得的か獲得的か」、「不変的か可変的か」という不毛な論争とはまったく無縁だとまで言わないにしろ、すくなくともその論争が中心に位置していません。人類学の構築主義は、むしろ、構築された獲得的なものこそが、根底で(そのカテゴリーに属する)個人の行動や思考を決定しているという本質主義的な見方を批判していくということになります。
 ここまで押さえたうえで(前提の説明だけでかなり長くなってしまいましたが)、では、戦略的本質主義によるアイデンティティ・ポリティクスにおける「本質的なアイデンティティ」とはどんなものなのでしょうか。それは、「役割」(たとえば、教師や家事や育児をする役割やリーダーといった役割)や「属性」(賢いとか美しいとか)からくるアイデンティティなのでしょうか。しかし、これらの「役割」や「属性」は比較可能で代替可能なものです。そして、比較可能で代替可能なものは戦略的本質主義における「本質」にはそぐわないでしょう。ですから、戦略的本質主義は、「本質的なアイデンティティ」として、比較不可能で代替不可能なものを求めることになるでしょう。けれども、それは「私のかけがえのなさ」というときの「個の代替不可能性・比較不可能性」と同じものでしょうか。あるいは、他者の「本質」を規定するときに使われる本質主義(人種主義やオリエンタリズムなど)の「本質的アイデンティティ」は、自己を規定する戦略的本質主義の「本質的アイデンティティ」と同じものなのでしょうか。
 「前提」と「問い」を並べただけで、もう長くなりすぎたようです。ではこの続きは次回にしたいと思います。