沖縄の「スピヴァク不在のスピヴァク講演会」での本橋哲也さんの「妄言」

 「討論の広場」というブログでのU君による「スピヴァク講演会」の連載記事も第14回となり、佳境にはいってきています。全部で16回ということですから、その完結を待ってコメントすべきかもしれませんが、今回の「スピヴァク講演会14」で紹介されている本橋哲也さんの「妄言」がとても興味深いものなので、取り上げたいと思います。
 前回のエントリのタイトルを「スピヴァクによる剽窃疑惑?」というあざといものにしましたが*1、私の興味は、エントリを読んでいただければ分かるように、スピヴァクの「剽窃疑惑」の真偽にあったわけではなく、「BOOKS Mangrooveの店長」さんが書かれていたような、「東京の関係者」と「沖縄の実行委員(コメンテーター)」との対立にありました。そもそも「剽窃疑惑」といっても、講演はしなかったのですから、実際に「剽窃」はなかったわけで、また、講演をしてそれを論文という形にするという段階になれば、新城郁夫さんの論文にもレファレンスすることになったでしょう。もちろん、そのような「剽窃」まがいの講演草稿(ドラフト)を用意したこと、およびその後の対応の仕方 *2 は、これから検証されるべきでしょうけれども、ここで問題にしたいのはそのことではありません。
 スピヴァク不在のスピヴァク講演会での「東京の関係者」の発言について、U君のおかげで、その場にいた人の証言が出てきて、「東京の関係者と沖縄の実行委員(コメンテーター)との対立」の実態が明らかになってきました。それが予想を超えて、ちょっと驚くべき発言で、しかも、ポストコロニアル思想の根幹にもかかわることですので、取り上げてみたいと思います。私がブログで取り上げたところで無視されるのがおちでしょうが、「東京」での情報と現場からの情報の格差を少しでも埋めるためにも取り上げなくてはと、柄にもなくまじめに思っています。まず、前回のエントリ以後の「スピヴァク講演会」での本橋哲也さんの発言をまとめてみましょう。

本橋「扇動された参加者が,パクリだとか剽窃だとかいわれたことが非常に残念です.彼女のテキストを翻訳した日本で最高レベルの翻訳家からして,彼女は剽窃など行っていない.」
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/b47ea40d0b0dd1d56311a7c5a2beb1c5

本橋「あなたがた(コメンテーター)はスピヴァバクをよんだのか.あなた方はサバルタンなのか.ちがうでしょう.サバルタンとは,ベンガルで,強制労働に従事させられ,自らのおかれている状況を言語化できずに,本という概念すらしらない,そのような子どもたちのことでしょう.彼女はその子どもたちに学校をつくり,そして,そこを毎年訪問しているのです.そのような研究者はいますか.この会場にはサバルタンはいない」
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/12bc3137e8343d3c123160b19cad20c1

 なるほど、これを見ると、「BOOKS Mangrooveの店長」さんが、ブログで「『東京』からやって来たひとたちよ、あなたたちの『ことば』は、どう『ホスピタリティ』がほとばしるような気持で考えてみても、『沖縄』『沖縄人』『沖縄という場所で考え行動しているひとたち』に対し、はるか『上』から見くだしていたとしか思えない」とか、「でもスピヴァクを『読めない』『沖縄人』にはちゃんとした議論など無理なことだと思っているのかな? 『東京のひとたち』は」と書かれていたわけもよく分かります*3
 ところで、本橋さんの発言はあまりに程度が低すぎますが*4、ここまでではなくとも、似たようなことは、私も含めてありがちなことで、ポストコロニアル研究や人類学の陥りやすい落とし穴だといえるでしょう。すなわち、研究者がアカデミックな空間で「サバルタン」という「発話のポジション」を憧憬しつつ(実際の「サバルタン」にはスピヴァクが指摘しているように「発話」の機会そのものが奪われているにもかかわらず、です)、あたかも自分が「サバルタン」に同一化しているかのように発言しながら、その一方で、誰が「サバルタン」なのかという認定をするのは自分たちだという権威を保持していくという態度です。
本橋さんの「妄言」は、そのようなポストコロニアル研究の陥穽が最も程度の低い形で出てしまったといえるでしょう。そこに見られるのは、実際の「サバルタン」そっちのけで、誰が「よりサバルタンと言えるのか」という研究者の間での競争をして、「より悲惨なサバルタン」に自己同一化したほうが、相手の研究者を黙らせられるという、くだらない研究者のアイデンティティ・ポリティクスです*5
 いずれにしろ、本橋さんも鵜飼哲さんも、おそらく沖縄側の実行委員に比べて、これから今回のスピヴァク来日について、「東京」で(つまり目立つところで)発言や論考を発表する機会に恵まれているのでしょうから、沖縄での「スピヴァク不在のスピヴァク講演会」における「沖縄側の声」に対する「応答責任」を果たしていかなければならないはずです。それを、「あなたがたはスピヴァバクを読めていない(自分は正しく読めているけどね)」とか、「ベンガルの強制労働に従事させられている子どもたち」を引き合いに出しながら「サバルタンでないなら黙ってろ」*6などと言って、黙らせようとしたままなのであれば、ご自分があまりにもバカすぎることを晒したというだけでは済まず*7、あなたたちがポストコロニアルなどと口に出すことがポストコロニアル研究全体を貶めることにもなるでしょうから*8
 

*1:これは「東京」ではほとんど話題になっていなかったので、ちょっと「釣る」ために、我ながら「あざとい」タイトルにしたわけです。今回もちょっと「あざとい」タイトルですが、「発話」における格差を埋めるための姑息な手段だと思ってお許しください。

*2:新城郁夫さんの「コメント」に対して「気分を害して」講演そのものをキャンセルするといった態度などのことです。「気分を害する」というのも「体調を崩す」ということかもしれませんが、その後の東京でのスケジュールは何事もなくこなしていたようですし、やはり「問題」はあったというべきでしょう。

*3:最初に「BOOKS Mangrooveの店長」さんの「店長の読書中」というブログを見たときには、本橋さんたちが実際に何を言ったのか知らない段階でしたが、いまとなっては、「静かな怒り」が伝わってくるように感じます。

*4:本橋さんご本人としては、文脈など発言全体から切り取られて真意が伝わっていないと、「妄言」を指摘された政治家の常套句と同じようなことを言われるのでしょうが、「はるか『上』から見くだしていた」という印象を与える発言だったことは、複数の証言があることからして確かでしょう。そして、その「妄言」が自分たちの「正しさ」を基にして自分たちを「上」のポジションに置いているところからきています(その点も、政治家の「妄言」と共通していますね)。けれども、「サバルタンであること」とは、そのような一貫した普遍的・超越的な「正しさ」を取れず、そのような「正しさ」に抑圧されていることを指すのであり、「サバルタンに学ぶこと」とは、そのような一貫した「正しさ」の抑圧性を知ることなのでしょう。

*5:この研究者のアイデンティティ・ポリティクスが「戦略的本質主義」だといいかえれば、これは「戦略的本質主義」の最もくだらない現れだといえるでしょう。

*6:この言い方にみられる逆説が、アカデミックなポストコロニアル研究のねじれたところです。

*7:こういう人たちにかぎって、例えば、アフリカ出身のエリート研究者が目の前にいると、「あなたはサバルタンではない」などとは言えずに、相手がアフリカ人だというだけで、その場ではサバルタン同一化競争などできず、自分がサバルタンに同一化するような発言ができないために黙ってしまうんだよね。

*8:なるべく無視されないようにちょっと挑発的に書いてみましたが、むしろ逆効果かなあ。