沖縄戦での「集団自決」を日本軍が強制していないってことにはならないんだけど。

 養田さん、久しぶりにコメントをありがとう。他にもいろいろコメントをもらいましたが、それに応える前に、きょうはやはり「教科書検定沖縄戦集団自決に日本軍の強制はなかったという修正意見」というニュースに触れざるをえないでしょう(「記憶」と「トラウマ」とも関連するものですし、もとは沖縄研究者でもあったわけですから)。長くなってしまうでしょうが、それについて書きたいと思います。
今回の教科書検定の記事をまとめると、以下のような感じになるでしょうか。

文部科学省は、30日に2008年度から使用される高校教科書(主に2、3年生用)の検定結果を公表した。高校の日本史Aと日本史Bの教科書計10点のうち、6社8点に沖縄戦の記述があり、文科省は、このうち5社7点について、日本軍が住民の集団自決を強制したという内容の記述に、「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見を付け、修正を求めた。
修正意見によって変更されたのは、以下の通り。「日本軍に集団自決を強制された人もいた」という記述が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院日本史B』)、「日本軍に『集団自決』を強いられたり、」が、「追いつめられて『集団自決』した人や、」(三省堂『日本史A』『日本史B』)、「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」という記述が、「『集団自決』に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」(東京書籍『日本史A』)。このように、「日本軍」と「強いられた」という言葉が削除されているのが目立つ。また、「日本軍は(中略)くばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ」という記述は「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」(実教出版日本史B』)と変更して合格した。
 修正前の記述は、いずれも現在出版されている教科書と同じ記述であり、沖縄戦の集団自決については、昨年の検定まで軍の強制を明記した教科書もすべて合格していた。文科省は、今回判断基準を変えた理由を、①沖縄返還(72年)前後から「日本軍の命令」とする通説に対して疑念や異説が出ている(73年の曽野綾子『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』や2000年の宮城晴美『母の遺したもの――沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』)、②05年には、慶良間諸島での集団自決をめぐって座間味島の集団自決を命令したとされる元日本軍少佐や渡嘉敷島で自決を命じたとされる元日本軍大尉の遺族らが名誉棄損を訴えて裁判を起こしており、元日本軍少佐が座間味島での命令を否定するなど、異説を補強する状況が出てきた、③近年の研究では、命令の有無よりも住民が自決を受け入れた精神状態に考察を加える学説が多く、極限的な状態に置かれるなどさまざま状況が絡まって、自決に追い込まれたとも指摘されていると説明している。日本史Aの記述を修正したある出版社の編集部長は「教科書調査官から『命令はなかったというのが定説になりつつある』と説明を受けた」と明かした。

文科省教科書検定での「定説」についての見解は、「知」というものや学者をバカにしているものが多すぎると思わざるをえません(「南京虐殺」や「従軍慰安婦」のときもそうでした)。教科書調査官が「『命令はなかった』というのが定説になりつつある」というのも、調査官が研究者ではないことの弊害でしょう(もっとも研究者と自認している者のなかにも「知」を軽視している者はいくらでもいますが)。これでは、生徒や学生が「知」というものに対して敬意を払わなくなってもしかたないでしょう。「アウシュヴィッツはなかった」という「異説」が出されると、ホロコーストに関しても争点となっているからと教科書から記述を削除するというのでしょうかね。ましてや、裁判が起こったからといって学問的な定説が変わるなんてことはありえないでしょう。
 「歴史的事実」に関してはこれから歴史家がきちんと反論するのでしょうが、ここでは文科省の言っている「判断基準を変えた理由」について、もう少し詳しく疑問点を挙げておきましょう。
 まず、全体の構図から。文科省の挙げている異説や裁判は、座間味島の守備隊長(海上挺進第一戦隊長)であった梅澤裕元少佐や渡嘉敷島の守備隊長(海上挺進第三戦隊長)であった赤松嘉次元大尉からの当日の直接命令があったという証拠があるかどうかを争点としています。つまり、米軍が最初に上陸して「集団自決」のシンボルとなっている慶良間諸島の事例を「隊長の命令はなかった」とすることで、沖縄全体の「集団自決」における軍の強制を否定するというやり方なのです。それは、ホロコーストのシンボルである「アウシュビッツ」を否定することでホロコースト全体を否定するのと同じ構図をとっており、「歴史見直し論(歴史修正主義)」の常套手段といえます。
しかし、たとえ梅澤隊長や赤松隊長が「集団自決」の当日(座間味島では45年3月26日、渡嘉敷島では45年3月28日)に「玉砕」命令をしていなかったとしても、「敵の捕虜になったら男は股裂きにされ、女は強姦される。そんな目に会う前に玉砕せよ」、「投降するな、捕虜になるな、玉砕せよ」と住民たちに訓示していたのは隊長たちをはじめとする日本軍です。座間味島でも、前任の守備隊長の小沢隊長が、「玉砕」の訓示を住民たちである守備隊員にしていました。つまり、座間味島でも渡嘉敷島でも、米軍の上陸前から、住民たちに島外への避難を許さず、米軍への投降も許さず、軍とともに玉砕することが宣言されていたのでした。
また、「玉砕」用の手榴弾を住民たちに与えたのも日本軍の兵士たちです。渡嘉敷島では「集団自決」の1週間前(3月20日)に、軍曹と呼ばれていた下士官が、渡嘉敷部落にいた20人以上の住民たちを集めて、1人2個の手榴弾を与え、「敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」と命じたという証言があります。その後、渡嘉敷島では、28日に村の指導者から軍の自決命令が出たと聞かされ、守備隊員から手榴弾が配られています*1。軍はそれ以前に住民たちの食糧を殺して奪ったり、投降しかけた「スパイ容疑」で住民たちを虐殺もしています。渡嘉敷島でも、「集団自決」のあとですが、米軍占領後も長く山中に立てこもっていた赤松隊は、集団自決で妻子を失って自分は生き残って山をさまよっていた住民を殺したり、1945年4月には、伊江島で捕虜になり渡嘉敷の収容所に連行されてきた女性5人と少年1人が、米軍の死者として赤松隊長に降伏勧告状をもってきたところを、赤松隊長の命令によりスパイ容疑で処刑したりしています。つまり、渡嘉敷島の赤松隊は実際に住民が捕虜になることを許さなかったわけです。
このような状況を指して、「極限的な精神状況にあって、さまざまな要因が絡み合って、自決に追い込まれた」と、「さまざまな要因(米軍に捕虜になることの恐怖、日本軍への恐怖、日本軍の配った手榴弾の存在等)を誰が作り出したのか」、「誰が自決に追い込んだか」は問わない形で記述するように、日本政府は要求しているのです。しかし、「日本軍によって集団自決に追い込まれた」のであり、そのような極限状況を作ったのも日本軍だったというべきでしょう。そして、座間味島渡嘉敷島でも、たとえ隊長の当日の命令がなくても、事前に「捕虜になるな、玉砕せよ」と訓示していたわけですし、下士官が手榴弾を住民に勝手に配ったとは考えにくいので、少なくとも隊長が「玉砕」用の手榴弾を配れと命令したのでしょう。事前の隊長の「玉砕」の訓示や、下士官が手榴弾を配ったときに「これで玉砕せよ」というのは明らかに「軍の命令」でしょう。要するに、住民たちに「集団自決」を強制したのは日本軍であり、この集団死に最も責任があるのは日本軍であることは、どう考えても否定できないでしょう。これを、「隊長の命令の有無」という争点に矮小化して、沖縄の住民集団死において「軍の強制」はなかったというのは、やはり「アウシュビッツ収容所での虐殺はなかった、だからホロコーストはなかった」というのとほとんど変わりないでしょう。
 では、文科省の言っている「判断基準を変えた理由」について、すこし長くなりますが、具体的な各点を批判しておきましょう。
 まず、文科省が、異説が出されているとして、1973年の曽野綾子『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』と2000年の宮城晴美『母の遺したもの――沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』を挙げている点についてです。これら2冊の本はともに、当日の守備隊長の自決の命令があったというこれまでの証言が、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」による補償を申請するために捏造された、ないしは方便で行われたものだったことを明らかにしています。これによって「軍命令」説が否定されたというのが、産経新聞自由主義史観研究会(代表:藤岡信勝拓殖大教授)の主張です。その後も、2005年に産経新聞の取材に応じて、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後に軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さんが、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言し、当時の村長らが、終戦時に赤松嘉次元大尉に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たということを明らかにしました。また、裁判にあわせるように曽野綾子さんは、2006年に『ある神話の背景』の改訂版である『渡嘉敷島「集団自決」の真実――日本軍の住民自決命令はなかった!』を出しています。
戦傷病者戦没者遺族等援護法」による補償を申請するために軍命があったと証言したという「捏造」説ないしは「方便の嘘」説には根拠が薄いという反論も出されています。というのも、「援護法」は軍人・軍属を対象にして民間人は対象とされなかったから、「集団自決」犠牲者に補償を適用するのは困難だったため、軍命があったという方便を用いたというのが「捏造」説ないしは「方便の嘘」説の根拠となっていますが、沖縄戦で特徴的なのは、「軍民一体の戦闘協力」という形で、住民たちが「守護隊」に組み入れられていたということです。したがって、当時の厚生省も1957年の補償申請開始の最初から、沖縄戦の民間人に関しては、「準軍属」として扱っていたので、「補償申請が認定されにくいために『軍命』が捏造され」る必要はそもそもなかったという反論です。しかし、宮城晴美さんの『母の遺したもの――沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研)にも、晴美さんのお母さんの初枝さんの証言として、1957年に座間味で厚生省引揚援護局の職員による「戦闘参加者(協力者)」調査が始まったとき、島の長老たちに「梅澤隊長から自決の命令があったことを証言するように」と言われ、村役場の職員や長老たちのいる前で、厚生省の役人の「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」という質問に「はい」と答えたと書かれています。厚生省の意向とは別に、陳情する側である沖縄の琉球政府の役人や村役場の職員たちが、「軍命」があったとしたほうが適用されやすいと考えたということはありうる話かもしれません。すくなくとも、宮城初枝さんの例のように、自分の見聞した事実とは異なる証言があったのでしょう。
しかし、集団自決の当日に隊長の命令がなかったということ*2が、「軍の強制」はなかったということにはならないのは、すでに述べたとおりです。
これまで、たとえ当日の隊長の命令ないしは軍の命令がなくても、「軍の強制」によるものといえるということを述べてきましたが、文科省自身が「軍の命令があった」とする資料と否定する資料の双方があると認めているように、渡嘉敷島では、軍の自決命令を聞いたという当時の役場兵事主任の証言や、関東学院大学林博史教授が、慶良間諸島日本兵が住民に「集団自決」を命令したという証言をしている米公文書を見つけています。米軍は、(自決しようとして)怪我をした住民たちが多いことに不審をもち、住民たちからの聞き書きを行なっていたのでした。このように、軍による直接の命令が当日にあったという証言も少なくありません。また、座間味島でも、住民たちは「玉砕」命令が軍命だと認識していました(そう認識するだけの根拠があったからです)。しかも、これらの証言の多くは、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」制定より前のものですから、補償を申請するために「捏造」されたものではありません*3。当日の隊長の命令があったかどうかは、たしかに断定できないかも知れませんが、そのような争点の矮小化を取り除けば、「軍の命令」があって集団死に至ったという説のほうが、いまだに「定説」であることに変わりがありません。
 それにしても、文科省が「異説」として具体的に挙げた2冊の本は対照的な著書で、曽野綾子さんの本と一緒にされた宮城晴美さんの本にとって不幸なことでした。もちろん、今回の教科書検定問題以前に、産経新聞自由主義史観研究会小林よしのりの本には、「軍命捏造説」の根拠として使われており、そのことを覚悟の上で、宮城晴美さんはお母さんのために出版されたのでしょう。
宮城晴美さんの『母の遺したもの』という本は私のおすすめの本です。「良心的な」歴史家の書くものには、壕の中で幼い子が泣くと、軍人が「捨てて来い」と言ったり壕から追い出されたという記述がされているのに、この本には、幼い子が泣くと他の住民が「アメリカーに見つかるじゃないか、海に捨ててこい」と言ったとか、「殺せ、殺せ」という数多い声が壕の奥から飛んできたと書かれてあったり、青年団長だったお母さんを含めた住民たちの「戦闘協力」の様子が書かれていたりしています。
それにたいして、曽野綾子さんの本の性格は、ご自身が渡嘉敷島の戦跡碑(この碑は、「海上挺進第三戦隊」、すなわち赤松隊が建立したものです)に書かれている「『集団自決』は愛によって行われた」という碑文によく現れていると思います。つまり、私利私欲を超えた自己犠牲を伴う愛(親兄弟への愛が祖国愛につながるような愛)の行為をネイションの基盤としたいご自身のナショナリストとしてのアイデンティティを確証したいがための本であり、当然、それに都合の悪い証言は切り捨てています*4。私は、「歴史見直し論」と共通して、「ポストコロニアル論」(あるいは人類学も)の陥りやすい罠で、そして最も避けるべきだと思うことは、「自分のアイデンティティを確立したいという欲望のために他者を利用する」ということです。曽野さんの本はまさに「自分のアイデンティティのために他者を利用する」典型例ですが、ポストコロニアル論も「良心的な研究者」という自分のアイデンティティのために弱者たる他者を利用するという罠に陥ることがあります*5。それは、ご自身の母親である〈顔〉を知った人のために書くという、宮城晴美さんの本とは正反対です。
つぎに、2005年に梅澤元少佐と故赤松元大尉の遺族(弟さん)らが、大江健三郎の『沖縄ノート』の中に、軍命令による集団自決の記述があるとして発行元の岩波書店と大江氏を名誉毀損で訴えている裁判を起こしていること、そして、梅澤元少佐がその裁判で座間味島での命令を否定する証言をしたことを、異説を補強する状況としている点についてです。これは、まったく不思議な民事訴訟です。というのも、名誉毀損で訴えられた『沖縄ノート』には、梅澤元少佐の名前も赤松元大尉の名前も出てこないからです(名前が出ている本ならいくらでもあるのに)。ただ、政治的に民事訴訟を起こすこと自体の効果を狙ったものとすれば、不思議でもなんでもなく、まさに今回の教科書検定に狙った効果が現れたということでしょう。そして、その裁判で原告の梅澤元少佐が、事実であろうとなかろうと、自分は命令していないと証言するのは当然のことで、その証言を「異説の唱える歴史的事実を補強するもの」と捉えているという文科省の見解は、理解しがたいものです。この裁判自体は、原告側に勝訴する見込みがないと思っていますが(これで勝訴したらいくらなんでもまずいでしょう)、沖縄タイムスなどの記事を見ていくと、面白い点もいくつかあります。例えば、3月30日の第8回公判では、原告側は、「部隊長側は、沖縄戦時下の慶良間諸島日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す米公文書が見つかった」とする報道に反論して、「文書は座間味でも渡嘉敷でもない慶留間島のものだ」と述べ、今回の訴訟とは無関係だと主張したといいます。慶留間島は同じく慶良間諸島の、最初に米軍が上陸した島ですが、これを見る限り、原告側も、慶留間島では日本軍が住民に「集団自決」を命令したということは認めて争っていないようです*6文科省のいう根拠がこれでひとつなくなることになるわけなのですが。
 さて、文科省が挙げている状況の変化の3つめの「近年の研究では、命令の有無よりも住民が自決を受け入れた精神状態に考察を加える学説が多くなっている」ということについてですが(これが最も「弱者と同一化する」トラウマ学説やポストモダン思想と関係があるのですが)、もう十分長くなってしまったので、いずれまたということで、きょうのところは割愛して、これで終わりにします。ふー、それにしても長いなあ。

*1:村の指導者が手榴弾を保持しているわけはなく、軍の命令が関与したことは確かでしょう。

*2:初枝さんの新しい証言でも、正確に言えば、「初枝さんが隊長の命令を聞いていない」という事実が明らかになっただけですが、晴美さんが言うように、梅澤隊長は、当日に命令を出していなかったのかもしれません。しかし、役場職員で防衛隊員である住民が「これから玉砕するので忠魂碑前に集まってください」と呼びかけまわっていて、そこには日本軍の兵士たちもいたといいます。伝令役の住民が独断で呼びかけまわったということは考えにくいでしょう。また、軍の命令があったという証言は、初枝さんだけのものではなく、他に複数の証言があります。つまり、住民たちが軍の知らないところで自主的に決めたり、あるいは勝手に玉砕をしたと主張することは無理なようです。

*3:「捏造」説を採る人たちも、これらの証言を一概に否定できず、住民たちが勝手に「軍の命令」と勘違いをしたという「軍命思い込み」説を唱えはじめていますが、たとえ「思い込み」だとしても(これだけ多くの人たちが「勘違い」をしたというのも苦しいところです)、そのこと自体が、そのように多くの人たちに思い込ませるのに十分なことを事前に日本軍がしていたということを意味しており、集団死に追いやったのは日本軍だということを示すものでしょう

*4:曽野綾子さんは『ある神話の背景』の改訂版である『沖縄戦渡嘉敷島「集団自決」の真実』で(私は読んでいませんが)、「マサダの自決」(西暦70年にユダヤ人960人が要塞で自決)のように「自決に誇りを持て」と言っているそうです

*5:沖縄戦のコンテクストでいえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も、自分のアイデンティティのために弱者たる沖縄人を用いているといえると思います。ただ、自戒をこめていえば、対立する二つの立場(この場合は曽野氏と大江氏)がともにそのような罠に陥っていると指摘して、「自分はそれとは違う」というのもあまりいい趣味ではないと思っています。なるべくそうしないようにしたいのですが、私の書くものには、どうしてもこのような論法が入ってしまいます。注にしたのはそんな自戒の念があるからです。

*6:慶留間島には、海上挺進第二戦隊の第一中隊が配備されており、米軍上陸前の2月8日に第二戦隊長が阿嘉島から来島し、島民の前で「玉砕」の訓示をしたといいます。