沖縄戦の「歴史修正」からなにを学ぶのか

 海とばばさんに続いて、黄色い犬さんとmacbethさんからもコメントいただき、ありがとうございました。海とばばさんの、「証言をできる人たちが世代的に減っている今、こんな歴史修正がおこなわれている。何のための『歴史』なんでしょう」という言葉を受けて、黄色い犬さんが、「こういう『歴史』から学べることって、すごくつまらないもののような気がします」と書いています。歴史修正主義(歴史見直し論)によって修正された「歴史」から学べることはごくつまらないことしかないということには賛成です。日本国家や旧日本軍の行なったことで、「美しい国・日本」のイメージに都合の悪いことは、「修正」していくわけで*1歴史修正主義者にとって、「歴史」とは自分たちのアイデンティティを増長させるためのものであり、最初から「学ぶ」ものではないということでしょう。
そして、そこからいまの学生たちが学んでいることは、自分にとって都合の悪い事実に目を瞑って(あるいは「修正」して)、「仮想的な自己有能感」(「オレ様」化というやつです)を作り上げてそれを維持することぐらいです。保守主義者たちは、戦後教育が道徳や愛国心を教えないから、公共心がなく自己中心的な若者たちを生んだのだと批判しますが、だったら、歴史修正主義者たちをもちゃんと批判すべきだと思いますが。
もちろん、これは半分冗談で、前にもこのブログで内田樹さんの『下流志向』に絡めて触れましたが、生徒や学生たちが「オレ様」化して「学ぶということ」をしなくなったのは、後期近代の高度消費社会と学校が、彼らを「消費者」として扱っているからです。けれども、このことは、現在の歴史修正主義が社会の保守化や右傾化によって登場してきたのではないことを示しています。それは、高度消費社会において「消費者マインド」しかもたない大人たち(すなわち「おこちゃま」のままの大人たち)が、自分たちの「仮想的な自己有能感」の源である「ナショナル・アイデンティティ」を満足させてくれない「歴史」にクレイムをつけていると解釈すべき事柄なのです。つまり、高度消費社会での「『お客様』中心主義」に馴らされた大人たちが、店などで顧客=神様として扱われずに満足できないとキレて、「ふざけるな! 土下座しろ」とクレイムをつけるのと同じだというわけです。ですから、まともな保守主義者なら、そのような「自己中心主義」的で「グローバル資本主義」的な歴史修正主義者たちを批判すべきだろうというのは、半分以上は本気です。
ただ、問題は、現在の歴史修正主義の要因が社会の右傾化にあるのではなくても、それが逆に社会を右傾化していくというところにあります*2。つまり、「消費者マインド」しか持たず、しかも自分の「比較可能で交換可能な自己」が市場で評価されない(あるいは市場でしか評価されない)大人たちや若者たちを「癒す」ものが「歴史修正主義」とか「スビリチュアル・ブーム」となっていることに、今回の文科省沖縄戦の「集団自決」についての「歴史修正」を批判するリベラル派の人たちも、もっと真剣に目を向けるべきでしょう。
私が今回の教科書検定問題での議論をざっと眺めて感じたことは、反対派と「よくやった」という賛成派のあいだで議論がまったく成立していないということです。ポストモダニズム的な構築主義が、「歴史的事実」と「歴史史観*3(「物語」)」との区別ができないと指摘して以来(念のために言っておきますが、この指摘自体は、正当なものです)、どうも最後は「歴史史観」が違うからと、対話をやめてしまうような印象をもちます*4
 反対派・賛成派の両方とも、「歴史の真実」を歪めるなと怒鳴りあうか、あるいは、すべての「歴史」は、構築された物語にすぎないから、好きなほうの物語を選べばいいんだ(市場で商品を選ぶように)ということで終わっているような気がします。数の上では前者のほうが多いでしょうが、それも構築主義とは無関係ではなく、「歴史の真実」というときの「真実」は好みで選んでいるわけで、いずれにしろ構築主義の悪影響といえるかもしれません。しかし、ポストモダニズム的な構築主義が主張していたのは、物語られた歴史の中に組み込まれた「歴史的事実」はたしかに物語るという行為の外にあるのではなく、物語行為においてはじめて成立するということであって、「歴史的事実」なんてないということではありません。むしろ、それは、あらかじめ「歴史の真実」ということを前提として、物語に組み込まれた「歴史的事実」の意味を最初から一義的に規定してしまう「大きな物語」を批判するものでした。いいかえれば、「歴史的事実」のもちうる意味の多様性を、「大きな物語」に合わないからといって抑圧してしまうような「歴史」の物語を批判し、「歴史的事実」がさまざまな意味を持ちうる「小さな物語」の連鎖として「歴史」を見ようと提唱するものでした。
 つまり、すべてが構築された物語ではあるけれど、そのうちの「大きな物語」と「小さな物語」とはまったく性質の異なるものですし、また、その物語に組み込まれた「歴史的事実」は物語行為と切り離せないものだけれども、相対的な真偽はもちろんあります。ひとつの言葉(語)の意味はその発話とは切り離すことができないけれども(物語の外の辞書の中に語の意味があるのではなく)、その語の意味を私的言語のように自分で決めたりすることができないのと同じです(厳密にいうとちょっと違うけど)。
 さて、実はここまでが前置きで、これから本題に入るのですが、本題は短くしますのでご安心を。今回の沖縄戦の「集団自決」の議論で気になったのは、あまりにも「歴史的事実」をないがしろにしている点です。今回の教科書検定での修正意見では、「軍の強制」ということを、渡嘉敷島座間味島での当日の「軍の命令」の有無に矮小化している点はすでにこのブログで批判しましたから繰り返すことはしませんが、反対派も賛成派も、あたかも沖縄全体で「集団自決」があったかのように議論しているようにみえます。たとえば、戦前の教育で「捕虜になるな」などと洗脳されていたことや、「米軍に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦される」などと「鬼畜米英」の教育が「集団自決」という痛ましい出来事の要因だと、反対派も賛成派も書いています。「歴史修正」反対派は、そのような戦前の教育や軍の訓示が住民を集団死に追い込んだのであり、「強制」の一種だといい、「歴史修正」賛成派は、「集団自決」は「軍の命令」なしに住民が自主的・自発的におこなった行為だというわけです。
しかし、これは「教育」を「洗脳」と捉えるもので、良くも悪くも教育にそんな力はありません。たしかに、渡嘉敷島座間味島以外にも「集団自決」はありましたが、実際には「集団投降」した地域のほうが多いのです。たとえば、慶良間諸島では、慶留間島渡嘉敷島座間味島で「集団自決」がありましたが、日本軍が駐留していなかった前島では、米軍が上陸してきたとき、もともと軍の駐留に反対していた分校長を先頭に集団投降しています。
また、沖縄本島での「集団自決」として有名なのは、読谷のチビチリガマでの「集団自決」です。慶良間諸島での「集団自決」や沖縄戦末期の本島南部での「集団自決」とは異なり、米軍上陸直前までいた日本軍はすでに4月1日の米軍上陸時に後退していて、チビチリガマには日本軍がいませんでした。このチビチリガマでの「集団自決」(4月2日)については、下嶋哲朗さんが生き残った人たちから聞き書き調査をしています。そのような調査によって「証言」が残り、「歴史的事実」が私たちに届けられ、私たちがそれを物語ることで多義的な「歴史的事実」となることを待っているのです。チビチリガマでの日本軍なしの(ということはいま矮小化された争点となっている「軍の命令」なしの)「集団自決」の「歴史的事実」をどのように物語るかは、私たちの問題です。それらの証言も読まずに、これだけを聞きかじって、「軍の命令」なしに「集団自決」は自主的に行われるのだという「大きな物語」に組み込んで終わることも、戦前の間違った教育のせいで「集団自決」に追い込まれたのだという「大きな物語」に囲い込むことも、ともに下嶋さんの調査によって集められた一人ひとりの「小さな物語」の連鎖を「語らずにすます」ことになってしまうでしょう。
 さて、チビチリガマでの「集団自決」の例を出したのは、同じ読谷(といってもチビチリガマよりも米軍上陸の海岸から離れた)シムクガマでは、逆に「集団投降」していることを紹介するためでした。シムクガマでは、約千人の住民が避難していましたが、ここにも4月1日に米軍がやってきます。洞の入り口にいた3名が米軍艦からの艦砲の直撃を受けて亡くなったのですが、残りの人々は、4月1日に集団投降して無事でした。このシムクガマにはハワイ移民帰りの二人の長老がいたことが幸いしたといわれています。米軍がガマにやってきて、通訳が「デテコイ」、「デテキナサイ」と呼びかけたとき、警防団の男たちが訓練どおり竹槍で突撃しようとしたところまでは、チビチリガマと同じです。しかし、シムクガマではハワイ移民帰りの長老が突撃をやめさせ、自分たちが先に壕を出て、米軍の指揮官と英語で交渉し、全員ガマを出て離れた収容所へ移動することで話がつき、二人は住民を説得して*5、米軍の上陸の日のうちに、背負えるだけの家財道具をもって収容所へと向かったといいます。次の日、チビチリガマでは「集団自決」が起こったのでした。
 また、久米島では、海軍見張所があり、そこに海軍通信隊(鹿山隊)約30人が駐留していました。この久米島では、軍による住民殺害で約20人が犠牲になったことでも知られています。米軍が上陸したのは6月26日で、慶良間諸島から逃げてきた人などから、投降しても米軍は危害を加えないという情報が伝わっていたといいます。久米島の農業会長は、村の幹部たちに無抵抗を主張し、軍に対してもわずかばかりの軍隊が玉砕しても仕方ないし、かえって住民に危害が加わると説得したところ、逆に軍から利敵行為として殺されかけます。そして、米軍上陸時に、久米島出身者が一緒にやってきて、山に避難していた住民たちに安心して山を降りるように説いてまわり、その後、住民たちも投降します。この久米島出身者の捕虜は、本島で米軍に捕まったのですが、米軍に対して久米島には軍備がないからといって艦砲射撃をやめさせることにも成功しており、住民たちの命を救った人物ですが、投降を説いてまわったということで、鹿山隊に殺されました。
 この他にも、集団投降はいたるところで見られます。また、日本軍からも大量の逃亡兵が出ています。それも、沖縄の住民から徴兵された防衛隊員だけでなく、正式な訓練を受けてきた正規兵の逃亡や投降もたくさんありました。たとえば、慶良間諸島阿嘉島には、海上挺進第二戦隊が駐留していました。3月26日に米軍が上陸、700名の日本軍と400名の住民は山に逃げます。27日には「自決」するところまで追い込まれたのですが、幸いなことに、米軍が島から撤退し、自決しないで済みました。その後、飢餓に苦しみながら、終戦後の8月22日に降伏するまで山中に立てこもっていました(終戦後まで降伏しなかったのは渡嘉敷島座間味島でも同じです)。その間、日本軍による住民の殺害(例によって「スパイ容疑」での処刑ですが、食糧目当てとも言われています)、軍夫として連れてきた朝鮮人の殺害などが起こり、悲惨な「持久戦」でしたが、「集団自決」は起こりませんでした。それどころか、将校の逃亡・投降が相次いだのです(だから、住民たちも「自決」する気もなくなったといえるかもしれません)。特筆すべきは、日ごろから「国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命を大切にしなければいけない。だから私は絶対に死なない。敵が上陸したらすぐに逃げるんだ」と住民たちに話していた少尉が、米軍が上陸した日に、朝鮮人軍夫20人ほどを引き連れ、白旗を掲げて投降したことです。この少尉は、投降後、米軍艇からスピーカーで投降を呼びかけ、兵士や軍属の投降(軍から見れば逃亡)が続き、第二戦隊長と不仲だった中尉も白昼に堂々と投降していったといいます。その中に、刳り舟で逃亡し、久米島まで脱出したグループがいて、久米島に、投降しても米軍は危害を加えないという情報をもたらしたわけです。
 さてと、長々と「歴史的事実」をつなげてみました。これももちろんひとつの物語りです。そして、もっと多くの「歴史的事実」が、私たちの語るのを待っています*6。大事なことは、「歴史的事実」をつないだ連鎖によって、数多くの沖縄の住民が死んでいった沖縄戦の戦場が一人ひとりの「生きる場」であったことを想像すること、それを、自分のアイデンティティ確立のための「大きな物語」(「歴史の真実」)とするのではなく、一人ひとりの「小さな物語」の連鎖(ネットワーク)として、そこに現在の自分の物語りをもつないでいくこと(そうすれば自己をかけがえのないものにするのには、他者の語りを抑圧してまで守らなくてはならない貧弱な「アイデンティティ」など要らないこともわかるでしょう)、それが「歴史」から、そして今回の「歴史修正」から学ぶことなのではないでしょうか。
今回の教科書検定問題をめぐる議論が、どうも自分のアイデンティティ確立のための「大きな物語」(「歴史の真実」)を守ろうとする双方の議論になってしまっているような危惧を覚えたため、また自戒していた、「両方とも違っているんじゃないの」という「エラソウ」論法になってしまいました。日々反省。

*1:もちろん、歴史修正主義(歴史見直し論)者にとっては「都合の悪いこと」ではなく、「反日」勢力の陰謀によってこれまで歪められた「歴史」を「真実」へと修正していくということになります。この「反日勢力陰謀論」は「ユダヤ陰謀論」や「宇宙人陰謀論」ととてもよく似ています。

*2:だから、卑しい保守主義者たちは、「軽蔑すべき連中」だけれども自分たちの味方となると計算して批判しないのかもしれませんが、それは保守主義の名を汚すことになるでしょう。

*3:今回ネットで見つけた言葉です。

*4:もちろん、互いに最初から「対話」なんてするつもりがないという場合のほうが多いのかもしれませんが、それはそれでもっと問題ですが。

*5:40人ほどが「自決」すると言って、ガマの奥に残ったのですが、彼らも4日後に投降しています。

*6:そのため、あえてチビチリガマの「集団自決」についての「歴史的事実」は語りませんでした。