沖縄の「集団自決」補遺

 海とばばさんもお久しぶりですね。コメントありがとう。海とばばさんがおっしゃるように、筆の勢いで書いてしまって、文章のおかしなところや読みにくいところがありますね。そのうち修正しましょう。
 まだいろいろ書き忘れていることがたくさんあるような気がしているのですが、1点だけ、補っておきましょう。宮城晴美さんの『母の遺したもの』という本で印象に残った場面があります。それは晴美さんのお母さんの初枝さんが梅澤元少佐と1980年に「再会」を果たしたあと、梅澤氏が初枝さんの誘いで座間味島を再訪したときの場面です。

……母としては梅澤氏が住民の「集団自決」を最も気にしていると思い、村の三役や住民が大勢亡くなった農業組合の壕の跡を先に行くつもりだった。しかし、梅澤氏は、部下の誰が、どこで、どんなふうに戦死したのかという質問に終始し、部下が死んだ場所に行くように急かした。
 一中隊と二中隊の特幹が斬込みをした場所に来たときだった。梅澤氏は膝をついて「○○くん、すまなかった」「△△くん、許してくれ」としばらく号泣した。(中略)その後も、部下の戦死した場所を母に案内され、「謝罪」の供養をしてまわった。
 帰り道、村の三役と住民の「集団自決」の碑にさしかかったとき、母が「ここでたくさんの住民が自決しました」と案内すると、梅澤氏は「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と軽く言い、おもむろに車を降りて行った。
 私はそのとき、住民に「玉砕」を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した。もし、自分の命令で大勢の住民が死んだとなれば、たとえ“人を殺す”ことを職業とする軍人であれ、気持ちがおだやかであるはずがない。(中略)母が話す住民の話題にはあまり興味を示さず、部下の話になると、たとえささいなことでも必ず反応する梅澤氏を見て、私は住民と梅澤氏の隔たりの大きさを改めて感じた。[『母の遺したもの』264-265頁]

この文章が私にとって印象的だったのは、梅澤氏が住民とは〈顔〉のある関係をまったく作っていなかったということを如実に示していると思われたからでした。それが軍隊だといってしまえばそれまでなのですが。この宮城晴美さんの本は、不幸なことに、「歴史見直し論者(歴史修正主義者)によって、曽野綾子さんの本と並んで、必読文献として挙げられています。この本の中には、その後の1987年に座間味島の慰霊祭に訪れた梅澤氏が、「集団自決」*1のときに、住民に「忠魂碑前に集まれ」という伝令を出した助役の弟さんを訪ね、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、助役誰々の命令であった」と書かれた念書に押印させようとし、その弟さんが自分は当時は島にいなくて知らないことなので押印できない」と断ったところ、次の夜、弟さんが泥酔しているところを訊ねてきて、「決して迷惑をかけないから」といいながら、押印させたという話も載っています。現在の裁判にも原告側の証拠として提出されているこの念書のコピーと思われるものが宮城晴美さんのお母さんの遺品あったといい、晴美さんによれば、「筆跡の特徴からして、明らかに梅澤氏の書いたものであった」といいます。このような都合の悪い証言については、自由主義史観研究会などの「歴史見直し論者」たちは、「母親の初枝さんとは違った思想の持ち主の娘が書いた」として否定しています*2。このように、曽野綾子さんの「調査」と同じように、自分たちの「アイデンティティ」をゆるがすことのない部分だけをつまみ食いすることも、「歴史見直し論者」たちの特徴ですが、母親とのつながりを基に書かれたこの本にとって、そのような賞賛と否定は、不幸なこと以外のなにものでもないでしょう。
 それにしても、現在の「歴史見直し論者」たちは、曽野綾子さんのように、自分のナショナル・アイデンティティのために、「集団自決」を自主的な愛によるものと、とことん美化するような(ことばは悪いですが)ファナティックな確信もなく、住民たちが「軍の命令」だと勘違いをしてやったことだとか、自分たちがやった「集団自決」という事態の重大さに気づいたとき、それに耐えられずに「軍の命令」という責任転換をして自衛したのだという(心理学主義的な)論理を用いています。きのうきょうのウェッブ上の書き込みを見ると、軍の命令があったという証言を取り上げた記事に対して、高齢となっている「集団死」の生存者である証言者に対して、「このじいさんの言っていることはめちゃくちゃだ」と嘲笑しているものもあります。そのおじいさんが自分の爺さんだったら、という想像を抑圧しているのでしょう。そのようなことをして、ようやく守ることのできる「アイデンティティ」はあまりにも貧弱です。現在の「歴史見直し論者」たちは、「なにがなんでも日本軍が悪い」という「自虐史観」を保たないとやっていけない人たちを批判していますが、「なにがなんでも美しい日本!」としなければ保てないような自分たちのアイデンティティが、その人たちよりも脆弱なものであることに目を瞑っています。
 海とばばさんは、

この国、どういうことになってるんだろう、とこのニュースをみていて思ったのですが、同時に自分に何ができるのかよくわからないとも思っていました。

と書いていますが、〈顔〉のある関係からものごとを見ること、そしてその関係をつないでいくこと、そうすれば、そのような脆弱なアイデンティティを守るようなことを自分に強いる必要もなく、かといって「浮遊する断片」と化することを強いる必要もなく、比較不可能な「私のかけがえのなさ」を感じられるのだということを、いろいろな方法で示し続けることも、私たちにできることの一つでしょう。

*1:宮城晴美さんも「集団自決」という語を必ず鍵括弧つきで使っていますが、この「自決」という語が、「住民の自発的な愛による美しい行為」と捻じ曲げられた意味を付与される一因なっているのでしょう。「集団死」と表記したほうが実情にあっていると思います。

*2:宮城晴美さんは、反戦・反基地を唱える「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の会員です。