中野麻美『労働ダンピング』を読む

中野麻美『労働ダンピング:雇用の多様化の果てに』岩波書店岩波新書)、2006年
Isbn:4004310385

 労働問題を扱う弁護士でNPOの「派遣労働ネットワーク」の代表をしている中野麻美さんは、まず、それまで労働基準法で違法とされていたけれども、1986年に施行され1999年に改正された「労働者派遣法」によって可能となった労働者供給事業(人材派遣)の実態から書いています。それは、規制緩和による雇用の多様化・液状化を端的に示しているものとなっています。中野さんは、労働者派遣が導入されたときは、「契約本位」に専門性を活かして働くことができるという「選択の自由」が謳い文句だったが、実際の派遣労働はそれとは無縁のものになっていると言います。施行当初は、労働法で安定した雇用と賃金の守られていた正規雇用派遣労働者に置き換えられていくことにならないように、派遣の対象業務が専門性の確立した業務に限定されていましたが、1999年の改正労働者派遣法ではこの規制が取り払われ、原則自由に派遣できるようになり、派遣労働のダンピング競争が一気に加速していくと同時に、正規雇用が安上がりな非正規雇用に置き換えられていったのです。
 中野さんは、「無料お試しキャンペーン実施中! 一週間無料、一ヶ月35%オフ、三ヶ月13%オフ」というチラシを手に人材派遣会社の営業マンが他社の人材派遣会社のお得意先を廻っているという実例を紹介しています。そして、当然のことながら、このダンピング競争のなかで、派遣労働者の賃金は下がり続けています。「派遣労働ネットワーク」のアンケート調査では、1996年に派遣スタッフの全国の平均時給が1,660円だったのが、2001年には1,465円、2006年には1,327円になっています。正社員と同じ仕事をしていても収入は3分の1程度というのが実態だということです。「アルバイト派遣」「日雇い派遣」といったケースも増えており、最低賃金(地域によって異なり、現在では、東京都で時給719円、神奈川県717年、大阪で712円、愛知県で694円、埼玉県と千葉県687円、最も低いのは、沖縄、青森、岩手、秋田の610円)ぎりぎりか違法の低賃金で、しかも仕事の無い日もあるので、月収に平均すると最低賃金を割り込む場合も少なくありません。ちなみに政府が子育てや人間らしい生活をするための労働時間短縮目標として掲げているのは1800時間までですが、東京の最低賃金ぎりぎりで働くとすると、年収130万円弱となります。現在、最低限度の生活を保障するとともに、その自立の助長を図ることを目的とする生活保護精度での給付基準は、東京で標準3人世帯(33歳、29歳、4歳)月額162,170円ですから年に195万円弱です。この最低限度の生活のための生活保護給付を下回る収入しかない「ワーキング・プア」が創り出されているわけです。
 このような労働ダンピングによるワーキング・プアは、非正規雇用だけではなく、正規雇用にも見られると中野さんは言います。そして、コンビニや外食産業で、「管理監督職」が最低賃金以下で働かされているという、かつてであれば考えられない実例を挙げています。若い正規雇用の正社員が、「店長」とか「チーフ」という肩書きで1日16時間近くも働き、1日8時間、週40時間を超えて働かせる場合に支払いが義務づけられている割増賃金も支払われないケースが結構あり、そういった中のあるケースを時給に換算すると670円程度で、東京の最低賃金を下回るといいます。そして、労働基準監督署に申告すると、使用者から、「時間外労働は命じていない(自主的に働いているか、時間外になるのは能力不足だから)」、そして「割増賃金を支払っていないのは支払わなくてもよい『管理監督職』だから」という回答が返ってくるそうです。
 また、正規雇用において、ノルマや「自爆」、成果主義賃金、賃金なしの残業などで、これまで守られてきた雇用条件が崩壊していると指摘しています。ノルマとそれに伴う「自爆」として農業協同組合の例が挙げられています。農協では、農協共済の加入や日用品を購入してもらうなどの「事業推進」をノルマ化して義務付け、ノルマを達成できないと、自分の名義で必要もない契約をしたり架空の契約をしたりして身銭を切ることを「自爆」というようです。そして、ノルマ達成のための長時間労働には割増賃金は支払われません。こうした「ノルマ」「自爆」「成果主義賃金」といった労働実態を、中野さんは、「一定時間を使用者の指揮命令下において労働を提供して賃金を得るのではなく、一定の成果を働き手の個人責任で請け負う、労働の『請負化』」だと言います。つまり、正規雇用が「請負化」して、個人の自己選択・自己責任によって労働する請け負いになっているというわけです。言い換えれば、「正規雇用の非正規雇用化」であり、正規雇用であり労働法によって守られている正社員を労働法の外に置こうとするものです。そして、中野さんは、

[二極化の]両極ですすむ変化の共通項は、労働法による規制が機能しない、働き手が自己責任で使う側本位に決めた値段で成果物やサービスを提供するという労働の液状化である。このように雇用の型枠が崩れ、使う側次第で形が変わるように液状化された労働が、働き手にはもっとも過酷な商品としての性質に収斂されてしまう様は、まさに「雇用の融解」と表現するにふさわしい。[9頁]

と述べています。そして、グローバル経済の下での大規模な国際競争のなかで生き残るために各国が行っている規制緩和策には、「労働者の配置や労働時間のフレキシビリティ、労働契約の多様化、労働市場の流動化、労使関係の集団から個人へのシフト」といった一貫した共通性が見られると述べています。これらの共通性は、一言でいえば、「個人化の徹底」といえるでしょう。雇用関係でのそのような個人化の徹底が、労働の徹底した商品化と雇用の液状化を生んでいるわけです。
 このような従来の労働システムの液状化は、景気が回復しても基本的には変わりません。景気が回復して失業率は下がり、非正規雇用の中のフリーターの数は減りましたが、その過酷な労働条件は変わったわけではありません。そして、正規雇用が増えても、その正規雇用が実質的に非正規雇用化しています。つまり、拡大したのは質の劣悪な雇用であって、その犠牲の上に企業の収益があがったわけですから、企業は劣悪な雇用を変更しようとはしないでしょう。中野さんは、生活保護を受ける世帯が、小泉内閣の発足した当時の80万件から105万件に急増していることを挙げて、景気が回復しても、社会の二極化と雇用の融解現象は変わっていないと言っています。
 まだ、中野さんの本の最初のところしか紹介しておらず、後半の「性差別」による格差が隠されているという論点はすでに長くなっているので紹介できませんが、本の前半部分で中野さんが強く主張しているのは、「労働は商品ではない」ということです。労働法で雇用にさまざまな規制がかけられているのは、もともと労働力が生身の人間であって、商品化にふさわしくないものだからです。労働の価格が変動したからといって、他の商品のように増産したり減産したりという生産調整や在庫調整をするわけにはいきません。不足しているときには1日20時間働かせて、余っているときには働くのをやめるというわけにはいかないのです。よく農業でキャベツが採れすぎて市場で値崩れして、農家の人がブルドーザーで育てたキャベツを潰しているという映像がテレビ・ニュースで流れることがあります。あれは、農産物が商品化された結果です。もちろん、農家の人たちは、自分たちが育てた農作物を喜んで潰しているわけではなく、せっかく自分が育てた農作物を泣く泣く潰しているのですが、しかし、商品としてみたキャベツは、大事に育てればそれに応えて大きくなるという関係にある「生きもの」ではもはやなく、生産調整される「もの」となっているわけです。農家の人の苦渋の選択というこの例には、農業もまた完全な商品化にはふさわしくない側面があることを示していますが、労働の場合は、労働の価値が市場で値崩れして低下したからといって、商品としての労働力を(つまり生身の人間を)ブルドーザーで潰すことはさすがにできません。逆に言えば、労働を商品化するとは、人間を生身の生きものとして見なさず、「もの」としてみるということだということです。しかし、この「もの」としての労働力は、根本的なところで「もの」とは異なっています。つまり、いくら労働力を商品のように「もの」や「個」として見なしたところで、その再生産には、妊娠・出産・子育て・教育など、生身の人間としての生活が不可欠だからです。その生身の人間としての生活において、人は「もの」でも「個」でもないのです。
労働が商品ではないというのは、ILOフィラデルフィア宣言で掲げられた原則だそうですが、それで思い出すのは、市場社会(資本主義社会)が成立するには、労働、土地、貨幣が市場に商品として組み込まれることが不可欠であるが、労働、土地、貨幣が本来商品ではないことも明らかだというカール・ポランニーの議論です。1944年に出版された『大転換』(東洋経済新報社、1975年)という本のなかで、ポランニーは、これら三つはいずれも売るために生産されたものではなく、それらは擬制的商品、つまりフィクションのおかげで商品のように市場に組み込まれているのだといいます。市場システムは、市場の形成を妨げるような措置や政策をとれば、その自己調整作用は危機に陥ってしまうから、それを妨げる可能性のある取り決めとか行動は禁じられるが、土地・労働・貨幣については、そのような市場の自己調整メカニズムに人間や環境を委ねれば、社会はいずれ破壊されてしまうというのです。「労働力」という擬制的商品は、「たまたまこの特殊な商品の担い手となっている人間個々人に影響を及ぼさずに無理強いできないし、見境なく使ったり、また使わないままにしておくことさえできないから」であり、「文化的諸制度という保護の被いがとり去られれば、人間は社会に生身をさらす結果になり、やがては滅びてしまうであろう」[ポランニー 1975:97-98]と、ポランニーは述べています。ネオリベラリズムの「規制緩和」とは、この「文化的諸制度という保護の被い」を徐々に取り去ろうとするものなのです。
ポランニーは、市場経済で売るための商品を生産するためには、特に土地・労働・貨幣という基本的で重要な生産要素の供給が保障されなければならず、市場社会ではこれらの組織的供給は、ただひとつの方法、すなわちお金で購入できるものにすることによってのみ可能であり、だから市場経済にとって、この三つが商品として市場に組み込まれることが必要不可欠であるが、しかし同時に、「もし社会の人間的・自然的実体が企業の組織ともどもこの悪魔のひき臼から保護されることがなかったら、どのような社会も、そのようなむき出しの擬制システムの影響には一時たりとも耐えることはできないであろう」[ポランニー 1975:98]と述べていました。このようなポランニーの見方からすれば、ネオリベラリズムは、この保護を少しずつ取り去ってどこまで人間が耐えられるかの実験をしているようなものだということになります。
ポランニーは、市場社会には、労働を市場に組み入れて労働市場を作り出す必要があり、しかも市場メカニズムが働くためには規制があってはならないのだけれども、もともとフィクションとしての商品である労働力の場合は、その実体(生身の人間であるという)から、労働市場には規制が必要となるという矛盾があることを指摘していたわけです。ネオリベラリズムは、それを実体としての生身の人間というほうを切り捨てて、フィクションとしての商品というほうを全面化しようとしているわけですが、それには限度があり、現実の生身の人間からの反撃を受けざるをえないでしょう(少子化はその反撃のひとつであるかもしれません)。どのような有効な反撃が可能なのか、それがどのような効果をもたらすのかを考えるうえで、中野さんのこの本はとても参考になります。