ベーシック・インカムについて(1)

 ようやく前門の虎も後門の狼もいなくなって一息ついたところです*1。その間にchinalocaさんからも催促をいただき(chinalocaさん、お久しぶり)、ベーシック・インカムについて書くことへのハードルがかなり高くなってきましたね*2。ちゃんと議論しようとすると長くなりそうなので、最初から連載にしようと思います。今回はその第1回目です。
 さて、基本的なおさらいから。ベーシック・インカム基本所得)は、「すべての個人へ無条件で給付される所得」を意味し、赤ちゃんから死ぬまで、生きているだけで一定の生存保障の所得を政府が分配するというものです。ベーシック・インカムについての文献は以下のものがあります。

トニー・フィッツパトリック『自由と保障――ベーシック・インカム論争』勁草書房
Isbn:4-326-60185-X
ベーシック・インカムを考える上での基本文献。私の記事もこの本に多くを負っている。
小沢修司『福祉社会と社会保障改革――ベーシック・インカム構想の新地平』高菅出版
Isbn:978-4-901793-04-9
→終章での日本での実現可能性を具体的に試算しているほか、ベーシック・インカムを「所得と労働との切り離し」と捉える観点から、欧米の議論を検討している。
ゲッツ・W・ヴェルナー『ベーシック・インカム現代書館
Isbn:978-4-7684-6963-7
→大手のドラッグストア・チェーンの経営者である著者が主張しているところがこの本のみそで、ヨーロッパでの議論の広がりをみせてくれる。

 さて、ベーシック・インカム論争で面白いところは、マルクス主義者にも主流経済学派にも右派リバタリアン(経済自由主義者ネオリベラリスト)にも、またフェミニストにも保守主義者にも、賛同者がいることだと書きました。もちろん、それぞれに根強い反対者がいて、党派的にまとまらないことが、ベーシック・インカム実現の障害になっているのですが、しかし、この弱みは強みにもなります。主義や党派を超えて賛同者を多数派にすることができるということでもあるからです。ベーシック・インカム論争(日本ではまだ始まったばかりですが)の問題点は、賛同者がそれぞれの主義・党派から主張していることにあります。もちろん、それは理論的整合性などの点で大事なのですが、それだけだと賛同者の裾野は広がりません。
 この連載記事では、まず、賛同するのに二の足を踏んでいるいろいろな立場の人たちに、ベーシック・インカムの利点を示して、賛同へのネックとなっている考え方を一つ一つ取り除いていこうと思います。それと同時に、ベーシック・インカムの思想的な意義を述べたいと思います。実は、この二つは両立しがたいところもありますが、同じことの裏表でもあります。というのも、最大のネックは前にも書いたように、近代に創りだされた(たかだか200年間の)「労働倫理」(「働かざる者食うべからず!」)にあるからであり、ベーシック・インカムの思想的な意義は、この労働倫理の放棄と、経済の社会への再埋め込みにあります。つまり、労働倫理の賞味期限が切れていることを示すことができれば、最大のネックが外れるというわけです。
 しかし、思想的な意義については次回以降に述べることにして、今回は、まず、具体的なさまざまな利点の提示とその他の細かなネックの取り除きをしておきましょう。ただし、それを述べる前に、どのようなベーシック・インカムを想定するかを明らかにしておく必要があります。たとえば、月額3万円の基本所得と月額12万円の基本所得ではまったく違った制度になってしまうからです。ここでは、小沢修司さんの試算である「所得税率50%で1人月額8万円」というベーシック・インカム*3をもとに、もう少し生存最低保障ということを考慮して、「所得税率50%で1人月額10万円」というベーシック・インカムを想定しておきましょう。
 小沢さんの試算は、一律税率50%でも、子供1人世帯の収入はほとんど変わらず、2人以上の子供がいる世帯は収入が増え、減るのは子供のいない世帯ということを示すためのものでした。もちろん、一律税率ではなく、累進課税のほうがいいと私は思っていますが、少なくとも1人月額10万円にすると、子供のいないシングルでも減収になる人が減り、合理的なものとなります。これだと、ベーシック・インカムの総額は28.8兆円増えますが、これは相続税の課税を強化することでまかなえます*4
 ここで想定されている50%という税率は、1999年に改正される前の限界課税率と同じです。1989年と1999年に行われた高所得者への減税は、景気対策という名目なので、ベーシック・インカムの景気への効果を考えれば、高所得者への増税はそれほど大きなものという感じではなくなるでしょう。さらに、現在検討されているような景気対策としてはあまり効果の期待できない定額減税や1999年以降行っていた定率減税、さらに少子化対策の子育て手当など、一時的な財政支出の必要がなくなり、財政上は長期的に見れば安定します。
 では、このようなベーシック・インカムを導入した場合の具体的な利点を思いつくまま並べてみましょう。
 1.景気対策
 2.貧困対策
 3.失業の不安の解消
 4.福祉のスティグマ(負の烙印)の解消
 5.失業と貧困の罠の解消
 6.少子化対策
 7.年金問題の解消
 8.雇用のフレキシブル化の促進
 9.ワークシェアリングの促進と労働時間の短縮(働きすぎの解消)
 10.学術・芸術等のクリエイティヴな活動の活性化
 11.シャドウ・ワーク(未払い労働、家事労働や自己投資など)問題の解消
 12.家族と地域共同体の復権
 13.子どもの権利と個人の権利の保護
 14.過疎化対策と農林水産業の復興
 なんか利点だらけですが、よく見ると互いに両立しないようなものもあります(自分で挙げていてなんですけど)。それは、ベーシック・インカムがこれらすべての万能薬などではなく、個別の問題解決の基盤を提供するということを意味しており、それぞれの問題を解決するにはベーシック・インカムと個別の政策を組み合わせる必要があるということです。その部分で何を優先させるかはまさに政治の問題ですが、逆にいえば、ベーシック・インカムが広い層、さまざまな立場の人々に受け入れられる可能性があるということでもあります*5
 それぞれの利点を簡単に説明しておきましょう。1番目に景気対策を挙げておきましたが、もちろん、ベーシック・インカムの最大の利点は貧困対策で、左派の賛同者は新しい再分配のやり方として提唱しています。ただ、それだけを前面に出すと広範な賛同がえられないことと、現在の金融危機に端を発する不況を考えれば、まず、あまり強調されていないけれども、ベーシック・インカムが有効で持続的な景気対策になるということを示しておくのが得策だろうと思い、最初にあげたわけです。現在の主流の経済学者たちは、不況のときの景気対策には、公共投資や減税などの財政政策ではなく、金利を下げる金融緩和政策しかないと主張しています(「リフレ派」というやつですね)。公共投資による一時的な好況や減税などでは、人々が、それによる可処分所得の増加を一時的なものだと予想するために、消費が増えず、景気対策としては効果的ではないとされます。それが正しいとすれば*6 、財政政策で効果のあるのは、恒常的に広くお金を支給することです。死ぬまで1人当たり月額10万円という最低保障があれば(そして相続税の課税を強化すれば)、自分の将来のためや子供に美田を遺すために預金をするのではなく、自分に必要なケアやサービスのために消費するようになるでしょう。
 つぎに「貧困対策」、「失業の不安の解消」、「福祉のスティグマ(負の烙印)の解消」、「失業と貧困の罠の解消」といった利点についてですが、これが生活保護などの現行の社会保障ワークフェア政策(自立支援政策)と根本的に違い、「無条件に給付する」というベーシック・インカムのもつ最大の利点です。近代の「労働倫理」は、働かないこと(怠惰と失業)、施しを受けることについての道徳的スティグマを烙印することで、すべての人々が働いて自立することが自己実現なのだというイデオロギーを広めました。
そのため、福祉社会においても、生活保護などの社会保障を受け取ることが恥ずかしいことだという観念があり、それを受け取る人々をミーンズ・テスト(資力調査)でカテゴリー分けして負の烙印をおして排除していく傾向があります。このため、日本では生活保護を受けとる資格のある人のうち2割程度しか支給を受けていないといいます。また、以前、エアコンを購入したら生活保護がうち切られたという事例もありました。ミーンズ・テストは、カテゴリー分けと負の烙印による社会的排除の方法の一つになっているのです。それに対して、ベーシック・インカムはすべての個人に無条件に同額の支給をするわけですから、カテゴリー分けのためのミーンズ・テストや、働く意思を確かめるテストは不要となり、道徳的スティグマをもつカテゴリーが解体されます*7。これには、ミーンズ・テストのための書類審査や計算等のコストがなくなり、そのために税金を費やす必要もなくなる(社会保険庁などは不要になる)という利点も付随しています。
 つぎに、失業と貧困の罠の解消ですが、これらの罠は失業や貧困に対する「ミーンズ・テスト」つきの社会保障の給付を受けている者が、就労によって収入が増えると税金や社会保険料の支払いが増え、給付が減らされるために、失業や貧困の状態にとどまることを合理的に選択するというものです。しかし、ベーシック・インカムでは、収入が増えても支給は減らされたり打ち切られたりしないために、これらの罠は解消できるというわけです。
 おや、気がつけば、ここまででもずいぶん長くなってしまいました。その他の利点と、ベーシック・インカムの予想される問題点については、次回にしたいと思います。

*1:正確にいうと、さきに後門の狼をなんとか締め出したあと、すでに前門から入ってきていた3頭の虎に前庭で追いかけ回されたあげく、2頭はなんとか出て行ってくれたけど、残りの1頭については、ぎりぎり玄関から家の中に逃げ込んで、いなくなるのを待っている状態ってところ。後門の狼は、雑誌『思想』(12月号)のレヴィ=ストロース生誕100年記念特集の原稿です。11月には発売されますので、檻に入った狼をみてやってください。

*2:いま思ったのだけれど、なんで「ハードルが上がる」って言い方をするのだろう。陸上競技のハードルは上がらんだろうが(上がったら怖い)。障害物という意味のhurdleからきているのかもしれないけど、それももともとは藁で編んだ垣根みたいなものだから、上がりはしないと思うんだけど。高跳びのバーならイメージぴったりなのにね。なんでこんな言い方ができたのか誰か教えて。

*3:小沢さんの試算は、1人月額8万円で年間に必要なベーシック・インカムの総額が115兆2000億円(96万円×1億2000万人)、現行の個人所得税は所得控除のために給与総額222.8兆円のうちの97兆円にしか課税されていないが、基礎控除配偶者控除・扶養控除老年者控除などの所得控除もベーシック・インカムによって不必要となるので、給与総額222.8兆円すべてに課税でき、一律50%の所得税として111.4兆円で、ほぼまかなえるというもの。さらに、現行の社会保障費総額75兆円のうち、労災・保健医療等の除く現金支給約43兆6000億円はベーシック・インカムに替えることができるので、残りは4割程度ですむことになります。

*4:森永卓郎さんは「相続税の課税強化を考えてもいいと思う。相続税が高くなったら、どうせ税金で取られるなら生きているうちに使おう、という金持ちの高齢者も増えるはずです。相続税最高税率は、小泉政権以前は70%だったのに、金持ち優遇政策を取った小泉政権が50%に下げてしまった。少なくても70%に戻すべきです」「試算すると毎年、約90兆円が遺産として残されている。このうち10兆円を基礎控除として、残り80兆円に50%を課税すると40兆円の税収になるはず。ところが、実際の相続税収は1.5兆円しかない。さまざまな節税の手口が駆使されているためです。遺産が1億円以下の庶民や、代々商売をしている自営業者に相続税を課す必要はないが、大金持ちには厳しく課税すべきです」と言っています。相続税の減税や控除を正当化してきたのは、「事業の継承」や「タックス・ヘブンの他国に資産家が流出する」という理由ですが、自営業者の事業継承に控除をすれば、それらの理由はあまり根拠とならないでしょう。また、森永さんの相続税の課税強化は、「遺産が1億円以下の庶民」を対象外にしていますが(これだと90%は庶民になります)、庶民の相続税控除の根拠は「子どもへの愛情」と自分の死後の不安というものでしょうが、これは遺された0歳児でも年収120万円あるのですから、ベーシック・インカムでかなりの部分の不安は解消されますから、庶民への相続税課税の強化も行うことができます。リバタリアン森村進さんは、リバタリアンには珍しく、相続税一律100%を主張しています。けれども、「機会の平等」が保証されてはじめて「結果の不平等」が正当化されるというリバタリアニズムの論理的整合性からすれば、森村さんの主張のほうが正当でしょう。これについては、また次回に述べたいと思います。

*5:フィッツパトリックがヴァン・トリアーの言葉を引いているように、「本当に実現する可能性が生じたときから、……大同団結が失われ、ベーシック・インカムの提唱者間の相違が、敵対者との相違くらい大きくなってしまうかもしれない」という恐れはもちろんありますが。

*6:つまり麻生内閣のやろうとしていることが間違っているとすれば

*7:これが、フリードマンらが提唱した「ミーンズ・テスト」つきの「負の所得税」とベーシック・インカムとの大きな違いです。