言論の自由について

 論文執筆で忙しいさなかですが(いつのまにか次の締切が近づいてきました)、田母神前空幕長の更迭問題に絡んで、「言論の自由」についての言説が飛び交っているようです。この言葉の使い方が前から気になっていたので、ちょっと言論の自由について書いてみたいと思います。
 まず、マスコミや歴史学者が田母神前空幕長の「論文」と称するものの「内容」を、「事実に反する」とか「中学生以下」と批判しているのに対して、ものを自由にいう言論の自由はないのかと怒っている人がいます。今回の問題に限らず、ブログで書いたことを批判されると「言論の自由はないのか」と言ってしまう使い方は前から気になっていました。言論の自由は、その内容にかかわらず、意見を公表することを妨げることに対する「自由」の主張です。公表した後で批判されるのは当然引き受けなければなりません。ある言論の「内容」に対してはあくまでも言論で対するというのが「言論の自由」の意味で、自由に批判されることも言論の自由には当然含まれます*1。けちょんけちょんにけなされたからといって、「言論の自由はないのか!」というのは、言論の自由を否認していることになります。
 また、これは前にも言ったことですが、言論の自由に、その言論の「内容」は関係ありません。たしかにすでに批判されているように、田母神氏の「論文」は、歴史修正主義としてもできの悪い幼稚なものですが、内容がでたらめであったとしても、その公表を妨げてはならず、それに対しては言論で批判する以外にないというのが言論の自由の理念でしょう。
 なかには、政治活動を禁じられた国家公務員や自衛官に「言論の自由」はないという意見もありましたが、憲法学者の大勢は、国家公務員法の公務員に対する政治活動の禁止自体が違憲という意見があり、特定の政策に対する異論表明は、政治活動に当たらないとされています。また、自衛官に関しても、反戦自衛官として有名になった小西誠さんが1969年に、70安保を前にした治安出動訓練に対する反対意見のビラを自衛隊内で撒くとともに、治安出動訓練を拒否して逮捕された(!)ことに対して、1981年に「言論の自由の範囲内」として無罪が確定しています。つまり、国家公務員かどうか自衛官かどうかは、今回の問題でも関係ないと言わなくてはならないでしょう。
 今回の問題は、自衛隊のトップが誤った歴史修正主義についての見解を論文として公表して、それを理由に空幕長という役職を更迭されたというもので、この更迭が「言論の自由」に反するかどうか、更迭の理由が「言論の自由」よりも重大なものかどうかが問題になります。政府から更迭の理由と挙げられているのは、どうやら「文民統制(シビリアン・コントロール)」に反するというもののようです。たしかに、軍を代表して特定の政治的発言、たとえば憲法改正を主張することは文民統制に反することでしょう。新聞の報道によれば、防衛省の事情聴取に応じなかったということで、それってもっと文民統制からすれば問題じゃないのという気がします*2。しかし、政府もどこが文民統制に反したのか明確には説明責任を果たしていませんし、政府見解と異なる内容の論文を応募しただけで軍を代表して政治的意見を表明したといえるかどうか、つまり文民統制に反するといえるかどうかは、微妙でしょう。
 その辺の議論なしに蓋をして終わりというのでは、かえって文民統制とは何か、そして言論の自由とは何かをあいまいにしてしまいます。田母神氏は更迭に不満をもっていて「言論の自由はないのか」と言っているようですから、ぜひ地位保全を求めて提訴してほしいものです。そうしたら、司法の判断も出るでしょうし、議論も続くでしょう。
 それにしても、今回の問題で考えさせられたのは、あのくだらない「論文」に賛同の意見を表明する人が多かったことです。「民意が低い」といえばそれまでですが、歴史修正主義に反対する人たち(私もその一人ですが)の工夫も必要かなと思いました。歴史修正主義に反対すると「自虐史観」だ「反日」だと脊髄反応する人たちが何に不安を持っているのか、その不安を取り除くような(大きなお世話だというだろうけど)言論をしないと、いつまでたっても「民意が低い」で終わってしまいそうな気がします。陰謀史観と同じで、マスコミや日教組に強行に反対することで何の不安を解消したいのでしょうか。だいたいマスコミを「左翼」や「反日」と名付けたり、教員の影響力(工作員の影響力?)を過大に評価したりすることは、どこかで感じている自分の弱さを隠したいという欲望なのでしょうが、なぜ自分に弱さを感じてしまうのか、その辺を考えて批判しないと、言論には言論で対抗するといっても効果はないのでしょう。マスコミが(陰謀も工作員もなしに)体制べったりであるのは当たり前のことだし*3、教師の言うことなんてたいしたことではないと思うのが、ふつうの庶民の感覚だったと思うのですが、そのような感覚を失わせてしまう体制自体を批判していかないとだめだということでしょうか。まあ、こういう言い方自体が反感を招いて、逆効果になるのでしょうけれども。

*1:もちろん、これは理念であり、現実には、意見や反論を表明する場をどれだけ持てるのかに関する力の差、不平等があります。ですから「サバルタンは語れるか」という問いが出てくるのですが、それもまた、この理念に照らしてその状況を変えていくしかないことであって、この理念はまやかしだといって捨てるのは愚策でしょう。

*2:それだけで更迭の理由になると思いますが、それを理由にしているのではなさそうです。

*3:朝日新聞」や「岩波」が赤かったことはなく右の体制べったりのマスコミであると思っていたし、日本共産党はスターリニストとナショナリストだと批判していた身からすると、それらが「左翼」とか「反日」とされていること自体、笑ってしまうのですが。