セネット『人格の腐食』あるいはネオリベラリズムによる「経験の喪失」

 リチャード・セネットは、『それでも新資本主義についていくか』(ダイヤモンド社、1999年、原著は1998年刊行のThe Corrosion of Character,つまり『人格の腐食』というタイトルです)のなかで、新資本主義(ネオリベラリズム時代のグローバル化した市場原理主義の資本主義)の特徴を「ノー・ロングターム」(長期的展望はいらない)というモットーに見ています。セネットは、「ロングターム」という思考が必要とされた要因を市場がかつてなく消費者主導になっていて、消費者が変化を求めているために、企業が毎年同じことを同じ方法で繰り返すことが許されなくなっていることや、「せっかちな資本」が素早い投資リターン(報酬)を求めていることに求めています。その変化に企業が適応するために、「ノー・ロングターム」をモットーとして雇用と組織をフレキシブル化しています。そうなると、働くほうも、今日のアメリカの大学の卒業生は、一生を通じて少なくとも11回転職し、40年間に少なくとも3回はスキルベースを変える可能性があると推計されていることに現れているように、「ノー・ロングターム」の思考を身につける必要があるというわけです。
前期近代の「ロングターム」という思想から後期近代の「ノー・ロングターム」の思想への変化は、ネオリベラリズム時代のグローバル化の進行による「時間のあり方」の変容と「経験の喪失」ということと密接に関係しています。アンソニー・ギデンズは、現代のグローバル化の特徴を「隔たりのある作用」に求めています。つまり、遠く隔たった地域の出来事がローカルな事柄に直接的に影響を与え、そこでの変化の原因となっているということがグローバル化だというわけです。これは、時間のあり方、歴史のあり方を変化させます。というのも、それまでは、目の前の事柄の原因や理由は、過去の出来事、つまり時間的な連続性に求められていました。そのことが歴史や伝統というものを意味あるものにしていたわけです。「ロングターム」でものを考えるということも、この時間の連続性においてものごとを考えるということです。ところが、グローバル化によって、現在の事柄が、自分たちの知っている過去の出来事によって起きているのではなく、自分たちの知らない遠く隔たった地域の出来事によって起きるというようになって、自分たちの経験してきた時間の連続性が意味を持たなくなり、「ロングターム」の思考、つまり長期的展望にたった計画というものが無意味になったのです。それは、計画的に長期の展望ができないということは、リスクの増大をも意味します。そこで、「ノー・ロングターム」というモットーが出てきて、短期の、いますぐの報酬・利益を求めたほうが得策だということになってきたわけです。
セネットによれば、AAT(アメリカン・テレフォン&テレグラフ社)のある役員は、「ATTでは、労働力というものをすべて外注的なものととらえるよう努めなくてはならない。その外注労働者のほとんどが、社内にいるという考え方だ。そこで、『職務』は『プロジェクト』や『業務領域』に置き換えられつつある」と述べているそうです。そして、今日の企業は、このような短期的な契約労働、いわば臨時的な雇用を増やすことで、ピラミッド型の組織をよりフラットでフレキシブルなネットワーク型の組織へ変えることを目指しています。ピラミッド型の階層よりもネットワーク型の体系のほうがリストラクチャリングに適応できるからです。セネットは、「このことは、昇進や解雇が明確に決められたルールに基づいて行なわれなくなり、業務内容も明確に規定されなくなることを意味する」と述べています。この辺りの事情は、前に紹介した中野麻美さんの『労働ダンピング』(岩波新書)の指摘する日本の事情と同じです。
このような変化は、セネットの言葉を使えば、前期近代における「生涯変わらぬ道筋で積み重ねた長い物語的な時間体験」がいまや機能しなくなり、「ノー・ロングターム」という原則に集約される否応のない変化の連続が人生や家庭生活における人格の指針に機能不全を起こしていることを意味します。セネットは、「ノー・ロングターム」というモットーは、インフォーマルな信頼や忠誠心や相互の献身などに裏づけされた社会的絆を腐食させてしまうと言います。こうした社会的絆は、インフォーマルに、組織の裂け目や断層に少しずつ根を張りながら、長い時間をかけて形作られていくものだからです。短期的な契約労働や、課題ごとに作られ、そのつどメンバーも入れ替わる「プロジェクト・チームワーク」中心の現在の短期的な組織の枠組みは、いざというときに頼りになるという意味でのインフォーマルな信頼を熟成することができないのです。
セネットは、ネオリベラリズム時代の新資本主義が人びとの精神生活に最も直接的な影響を及ぼすのは、ハイテク情報通信やグローバル株式市場や自由貿易などではなく、新資本主義の時間のあり方だといいます。そして、この「ノー・ロングターム」というモットーの意味は、一つのところにとどまるな、献身や自己犠牲はやめておけということですが、いまやそれが家庭に浸透しつつあると、セネットは示唆しています。
このようなネオリベラリズムと新資本主義が人々の支持を集めた根底には、それが前期近代を特徴づける「鉄の檻」としての官僚制と固定的な組織と日常的なルーティンワークを打破することで、「自由」を得たい、「自己実現」したいという欲望によるものでしょうが、セネットは、ルーティンワークへの嫌悪とフレキシビリティの追求が、人間に自由を得させるという考え方を批判し、それらは自由の条件を作り出すどころか、むしろ新しい権力の集中と統制の新しい構造を生み出しただけだといっています。セネットは、「反復性のある習慣」のもつ重要な価値についてのアンソニー・ギデンズの見解を引用しながら、二者択一を迫られたとき、人はすでに身につけた習慣に照らして実地に選択してみるほかはなく、瞬間的な刺激に動かされる生活、短期的行動の生活、ルーティンを欠いた習慣性のない生活は、そういった人間の精神活動を失った生活だといいます。そして、「習慣」は、変化しているけれども連続性のある時間経験を意味するけれども、今日のフレキシブルな変化は、制度や組織を後戻りできない形に作り替えようとするもので、現在と過去とを不連続にし、その不連続によって組織も個人も方向性を見失うというのです。そして、セネットは次のように言っています。

これらすべてが、要するに、人間を変化に屈服させる力になっている。官僚主義の徹底的改革しかり、フレキシブル生産方式しかり、中央集権なき権限集中しかり。ルーティンワークへの反撃というかたちを取る自由の新たな装いは、人の目をあざむきやすい。企業組織の時間と個人の時間は、過去の鉄の檻から解き放たれたが、代わって新たなトップダウンの管理と監視が君臨するようになった。フレキシビリティの時間は新しいパワーが支配する時間である。フレキシビリティは無秩序を生みこそすれ、拘束からの自由を生み出すことはない。[『それでも新資本主義についていくか』71頁]

セネットのこの本は、ネオリベラリズムや新資本主義における労働・雇用・組織のフレキシブル化が、たんに経済格差やアンダークラス(負け組)を生むから問題なのだということを超えて、新エリート(勝ち組)を含めて、すべての人びとにとって、それは「人格の指針」の機能不全による「人格の腐食」を生んでいくような体験を強いていることに問題があることを指摘しています。
 そして、それは端的に言い換えれば、「経験の喪失」であり、「社会の喪失」を意味します。そこでは勝ち組も負け組も、勝ったこと負けたことを「経験」として活かすことができません。経験となるべき出来事も一回限りの衝撃体験でしかなく、生き方の指針とはならないからです。藤田省三氏は、25年以上前に名著『精神史的考察』(平凡社ライブラリー)のなかで次のように書いていました。

生き方についての精神的骨格が無くなった社会状態は十分な意味ではもはや社会とは言い難い。一定の様式を持った生活の組織体ではないからである。それはむしろ社会の解体状態と言った方がいい姿なのである。そうして、そういう時にこそ得てして社会の外側から「生活に目標を」与えてやろうという素振りをもって「国家のため」という紛いの「価値」が横行し始める。[『精神史的考察』12頁]

この言葉は、現在のネオリベラリズム時代における「社会の喪失」を予言しているかのようです。けれども、現代においても、日常生活は反復する「ルーティンワーク」に充ちています。それは、人間が身体的存在/間身体的存在である限り、そうであり続けるでしょう。そして、それらのずれを含んだ反復が沈殿して習慣となっていく限り、そこに信頼や依存によって創られる社会的絆、すなわち真正な社会ができているはずです。いいかえれば、私たちは、かつてはそこから解放されるべきと思っていた「しがらみ」にこそ希望を見出すしかないのでしょう。