「感情マネジメント」についての再論

 morutanさん、chinalocaさん、黄色い犬さん、コメントありがとう。このようにコメントをいただくとブログが続きますね。
 さて、みなさん、前回のエントリには納得しかねるところがあるようです。とくに「キレる客」の部分についての疑問が多く出されていますが、この部分は講義の直前に『AERA』を読んで思いついたもので、私自身もちょっと疑問を感じてはいます。でも、ここは擁護してみましょうか。まず、いくつか出された疑問に答えておきましょう。
morutanさんは、「[店員にキレた客が]実生活ではそれほど感情労働しているようには思えないので。アエラの記事がいうように甘え的なところ(あるいはもっと別の何か)もあるのではないか、と思いました」と書かれています。消費社会において、「消費者がものすごい甘えを許される環境ができている」という「答え」は、間違いではありません。私も合格点ぎりぎりは出しました。ただ、それだけでは説明がつかないだろうという疑問から、別の答えを探ってみたというわけです。
また、chinalocaさんは、「日本で1980年代だったら、そのころから理不尽な要求をする飛行機の乗客はいたのではないかという気がします」と書いていますし、黄色い犬さんも、「キレる客、怒りっぽい客自体は、むかしからいたので最近増えたわけではないように思います」と書いています。
たしかに怒りっぽい客は昔からいたでしょう。あるいは、感情管理(管理というとコントロールと解される恐れがあるので、「感情マネジメント」と表記したほうがいいかもしれません)をみんながそれほどしていなかった時代(西欧中心主義的にいえば、まだ「文明化」されていなかった時代)には、人前で怒鳴る人や、スチュアーデスにセクハラする乗客はむしろ多かったかもしれません。私もナイロビで知らない人に怒鳴られたことがあります。また、「キレる客」、「理不尽ないちゃもんをつける消費者」が増えているというのは、社会学者やメディアが言っていることで、私自身は確証をもっているわけではありません。ですから、増えていないのかもしれません。
ただ、ここで言っている「キレる客」というのは、ただ怒りっぽい客や「文明化」されていない客とは違っています。つまり、「キレる客」とは、ふだんは感情マネジメントを要求されているのに、客となるとキレたり理不尽に横暴になる者を指しています。そして、その区別の前提となっているのは、日頃から「感情マネジメント」を訓練されている時代以前の「怒りっぽい客」と、「感情マネジメント」が蔓延している社会での「キレる客」とでは、おそらく「感情」の意味自体も変わっているだろうということです。ですから、昔の「客であろうとなかろうと関係なく怒りっぽい人」と、現在の「キレる客」とではどっちが多いのかというのは、データもないのでわかりませんが、その増減と関係なく、「キレる客」の出現を問題にしようというわけです。それに、仮に「キレる客」自体は増えていないけれども、それについての言説が増えているというのが事実であれば、その事実自体が「感情マネジメント」の蔓延を意味しているとは言えるでしょう。
そして、重要な点は、「感情マネジメント」は、ただ怒りとか不機嫌といった感情を抑制したり隠したりすることではないということです(この点は「感情労働」という概念を使う社会学者もあいまいにしている人が多いようです)。Chinalocaさんは、「これ[現代社会における親密圏への感情管理の浸透――引用者注]が一番、ひっかかります。感情(と呼ばれるようになったもの)の「抑制」や「統御」は、現代とか近代とか資本主義とかに関係なく、どんな社会でも、歴史上、いつの時代でもあったはずです」と書いています。もちろん、感情のコントロールはどんな時代、どんな社会にもあります。たとえば、アフリカでも、怒りっぽい人は妖術使いだとされ、文化ではなく自然の領域にいる者とされることがあります。また、前期近代を通じて、公的な場で成人男性が泣いたり感情を露わにしたりすることが抑制されていきます(これが「文明化の過程」です)が、「感情マネジメント」はこの感情の抑制とは違ったものです。感情を隠したり抑制したりするのであれば、「ほんものの私」の感情は疎外されません。ただそれを隠したり表に出さないだけだからです。しかし、「感情マネジメント」では、「心から」楽しみ、「ほんもの」の笑顔を見せるように、自分の感情をマネジメントしなければなりません。つまり、それは「ほんもの」の感情でなければならないのです。だからこそ、疎外が起こるというわけです。
もっとも、「現代社会では、友だちや恋人や家族といった親密な関係でも感情マネジメントをしている」ということについての確証はありません。これは、「やさしさ」の上昇や家族においても「キャラ的関係」や「選択的コミットメント」が見られるという社会学者たちの診断を信じるならば、ということです。人類学者として(あるいは日頃の私の社会学批判からすれば)そんなに簡単に社会学者の言説を信じていいのかと言われそうですが。
最後に、chinalocaさんが、「現在のアメリカの航空会社では、フライトアテンダント(FA)は、ホックシールドが描いたような感情労働をしているように思えません。……かつてのFAたちの「サービス」は、社会学者によって「感情労働」という過剰なものだと見出されたことによって、組合などが反対し、それをしなくて済むという成果を勝ち取ったのでしょうか」と書かれていますが、それは、フライトアテンダントという職業の価値下落のせいでしょう。ホックシールドが調査したときには、彼女も書いているように、「スチュアーデス」は高給かつ憧れの職業でした。過酷な「感情労働」はその価値の見返りだったわけです。しかし、その後、日本でもそうですが、フライトアテンダントは、正規雇用ではなく派遣となり待遇も悪くなって「ワーキング・プア」に近づいています(って書いたらさすがに彼女たちから怒られるか)。つまり、憧れの職業ではなくなっているから感情労働もしなくなっているということがいえるのでは。安い給料で待遇も良くないのに感情労働をしいられる職業に、介護・福祉労働や、GAPの店員やスタバの店員などがありますが、それらは現在のところ、まだ「憧れの仕事」という位置にあるからだといえそうです(スタバは最初の頃は店員の笑顔がステキだったけれど、もうだめになっているのかな)。