「疎外論」の落とし穴について

 黄色い犬さん、養田さん、macbethさん、コメントありがとう。3人のコメント、とりわけmacbethさんのコメントを読んで、「感情労働とキレる客」以降の3回エントリの議論では、「疎外論」のもつ落とし穴について充分に留意をした書きかたになっていなかったかなと反省しました。
 たとえば、アーリー・ホックシールドに倣って、19世紀のイングランドの工場労働者が彼自身の身体と肉体労働から疎外されていたのと同じように、20世紀のアメリカの客室乗務員は、彼女自身の感情と感情労働から疎外されていると書きました。しかし、それは、疎外される以前の「本来の自分の感情」、「ほんものの私」が喪失されるということを非難するためではありません。疎外論の落とし穴というのは、そのような「喪失の語り」(ジェームズ・クリフォードの言い方を借りれば「消滅の語り」)になってしまうということです。私が強調したかったことは、むしろ、そのような感情労働における「疎外」が(疎外される以前の)「本来の自分の感情」とか「ほんものの私」といった観念を創り出しているということです。それは、疎外以前にあったものではありませんが、疎外後にそれ以前からあったものとして事後的に創られていくというわけです。
そこから、感情マネジメントが社会に広がっている現代社会では、その感情マネジメントによって創り出された「本来の自分の感情」というものを「取り戻したい」という欲望が生成されていき、感情マネジメントをしなくてすむ唯一の機会である「顧客」になるときに、それを「取り戻す」べく、感情的になる「キレる客」やクレーマーとなってしまうという議論をしたのでした。
また、リチャード・セネットの『人格の腐食』の解説でも、macbethさんが言っているように、「喪失の語り」に取られるような書きかたになっていたかもしれません。そこでセネットをだしにしながら「経験の喪失」や「社会の喪失」と私が呼んでいるのは、喪失以前の「本来の状態」をノスタルジックに創出しようという「喪失の語り」ではなかったつもりなのですが(そしてセネットの議論もそのようなものではありません)。
どう違っているかは、ジュディス・バトラーの「構築された外部」という概念とそれへの批判という迂回路を使って説明すると分かりやすいかもしれません。バトラーは『ジェンダー・トラブル』のなかで、クリステヴァらの差異派フェミニストたちが「言語」以前に存在していたものと想定している「身体」や「自然」や「生物学的性差」について、それら「言語の外部」とされているものは、言語の内部において「言語の外部にあるものとして構築されたもの」でしかないと述べていました。
たしかに、この「構築された外部」という概念は強力です。すでに述べたように、感情マネジメントの「外部」にあるかのように思われる「ほんとうの自分の感情」は、まさに感情マネジメントによって、その内部に構築された「外部」でしかありません。したがって、「ほんとうの自分の感情」に依拠して、この感情労働における疎外を批判することは端的に間違っているし、不可能なこととなります。
同じように、新資本主義が「人格の腐食」を起こすというとき、腐食以前の「本来の人格」があるかのように想定されているけれども、それは、「喪失以前にあった人格として構築されたもの」にすぎないというわけです。もっとも、セネットの議論は、新資本主義における時間のあり方の変容によって、「人格の指針」という考え方自体が機能不全を起こしているという指摘をしているもので、以前の「人格の指針」がよいものだったとか、そこに戻るべきだといっているわけではありませんが。
ところで、バトラー流のこの強力な構築主義には別の落とし穴があります。それは、言語そのものがもつリゾームのような横へのずれを無視することによって、あたかも言語がツリー構造をもち、それによってその内部をすべて意味づけているかのような想定をしていることです。そのような想定によってツリー構造に「外部」などないかのように思わせることこそ、その落とし穴だというわけです。いいかえれば、「構築された外部」という概念によって、リゾーム的な内部/外部の未決定さを隠蔽してしまっているのです。
セネットや藤田省三のことばを援用して語ろうとした「時間の喪失」や「経験の喪失」や「社会の喪失」は、それらの喪失以前のことを「よき時代」としてノスタルジックに語るものではなく、ツリー構造によって規定された内部/外部や以前/以後の未決定性というリゾーム的な「外部」を指し示すためのものでした。そして、おそらく昔クリステヴァが「ル・セミオティック」という用語で語ろうとしたものもそのようなリゾーム的な「外部」あるいは「関係の過剰性」だったと思います *1
疎外論の落とし穴は、疎外される以前の「ほんとうの状態」「本来の姿」を実体化してしまうことにありました。そして、その実体化された「本来の状態」をもう一度「自分のもの」にしようとする欲望は、けっきょくはその疎外を推し進めてしまうものでした。しかし、「疎外からの回復」の不可能性を、そもそも「外部」などないという形で指摘する「構築された外部」論にも、それに劣らぬ落とし穴があるということを指摘しておきました。それは、つねにリゾーム的な過剰性をもつ「経験」(および「経験」を可能にする「時間」)そのものを追放してしまうという落とし穴です。詳しく論じることはできませんが*2ジュディス・バトラーの提唱する「創発的連帯」(とりあえずの一時的なつながり)が、実は新資本主義やネオリベラリズムと親和性があるのも、その落とし穴のせいだといえるだろうと思います。

*1:クリステヴァはその後それを「母の身体」といった形で実体化してしまうのですが。

*2:私の論文「二元論とその批判が隠蔽すること」『社会人類学年報』29巻(2003年)を参照してください。