ベーシック・インカムについて(予告)

 前々回のエントリーで触れた「ベーシック・インカム」について書こうと思っていたのですが、とっくに締切のすぎた原稿をまだ書かないうちに、前方から別の現行の締切が2本迫ってきている、まさに「前門の虎、後門の狼」という状況です(どこか「まさに」なんじゃ、比喩がおかしいだろ*1)。まあ、一言でいうとさぼりすぎです。
 それはともかく、このままだと9月も更新なしということになり、「月刊」にもならなくなってしまうので、あわてて、10月には「ベーシック・インカム」について書くという予告だけでもしておこうかと。
 ベーシック・インカムとは、前にも書いたように、「就労の有無、労働意欲の有無、年齢・性別・資産状況などの一切の条件を問わず、無条件ですべての個人に個人単位で支払われる生活保障の所得」のことです。つまり、働こうと働くまいと、生まれてから死ぬまで、生きている限りにおいてお金が得られるわけです。ベーシック・インカム論争の面白いところは、マルクス主義者や福祉社会リベラルといった左翼にも、リバタリアンネオリベラリストといった右翼にも、ともに賛同者がいると同時に、左翼にも右翼にも反対者が多いということです。ここでいう左翼は「所得の再分配を肯定し、平等を重視する」立場で、右翼は「自己所有権と不平等・格差を肯定する」立場という古典的な意味で使っています*2
 つまり、ベーシック・インカムには、所得の再分配に似ていますが、それとは違っているところがあり、また、自己選択・自己責任によって格差を肯定するのと似ているところがありますが、それとも異なっているのです。そして、反対が多いのは、ベーシック・インカムの「所得」が労働とは無関係なものだという点にあるように思います。すなわち、近代における「働かざる者、食うべからず」という「労働倫理」に反していることによるのでしょう。
 その一方で、ベーシック・インカムは、ワーキングプア問題や年金問題少子化問題を一挙に解決し、需要を拡大するという点で経済的にも効果のある「現実的な」政策として注目を集めています。財源的にも実現可能な試算もいくつか出されています*3。もっとも、その財源をどうやって得るのか、どれくらいの所得額にするのかによって、同じベーシック・インカムといっても、まったく異なるものになるのも確かです。賛成派のなかにも、「労働意欲をなくさないため」には「生活保障の所得」(たとえば月額10〜12万円くらいでしょうか)ではなく、「部分的なベーシック・インカム」(たとえば月額5万円くらい)を唱える人が多いのですが、それでは「近代の労働倫理」を超えるというベーシック・インカムの面白みはなくなってしまいます。
 ベーシック・インカムについての最も優れた本は、いまのところ前にも挙げた、トニー・フィッツパトリック『自由と保障』(勁草書房、2005年)です。
 では、次回にベーシック・インカム論争のどこが面白いのかを書きたいと思います。

*1:どこがおかしいかというと、この成句は前門を閉めて虎をようやく防いだら、後の門に狼が迫ってきたということを意味していて(後ろの門を閉めていなかったんですね)、「一難去ってまた一難」という意味です。私の場合、前門で虎をまだ防いでおらず、「一難」も去っていないので、間違いというわけです。ためになるでしょ? それに、「身から出た錆」を外からやってきた「災難」みたいに言うのもどうかと。

*2:現代の日本では、国家主義ナショナリズムを「ウヨク」、反ナショナリズムを「サヨク」という使い方をしていますが、もともとの使い方では、ナショナリストかどうかと左翼か右翼かとは無関係です。ついでにいえば、右でも左でもない「第三の道」ということを売りにしたのがファシズムでした。

*3:代表的なものが小沢修司さん(『福祉社会と社会保障改革』高菅出版、2002年)による「所得税率を定率50%で月に定額8万円」のベーシック・インカムです。