正義と倫理のあいだについて

 レヴィナスの話で好きなのが、裁きと顔の関係の話です。ポワリエとの対話の本、『暴力と聖性』(国文社、1991年)のなかで、レヴィナスは次のように言っています。

 ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり、裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情など斟酌してはならない、というのです。……けれども別の聖句があります。……「主はそのお顔をあなたに向ける」という聖句です。ラビたちは彼らの流儀で[この矛盾]に答えています。「判決を下す前には決して顔をごらんにならない。けれどもひとたび判決が下されたのちには、あのお方は顔をごらんになるのである。」(『暴力と聖性』160頁)

 レヴィナスのこの言葉を知ったのは、2001年に出版された内田樹さんの『ためらいの倫理学』によってでした。内田さんは、裁き人が被告の顔を見てはならないのは、「顔」が誰によっても代替し得ない固有性を表すからであり、「顔」を見てしまうと裁きは下せなくなるから、裁き人は「正義」を実現させるためにあえて「顔」を見ないのだといいます。しかし、峻厳な正義を求めるのはもともと虐げられた「他者への慈愛」から来ています。ですから、裁きが下されたあと、人は再び慈愛に戻ってゆかなくてはなりません。被告の「顔」を見つめ、断罪された人びとのために「正義の峻厳さをやわらげ、個人的な訴えに耳を傾けること」、それが次になすべきことになります。すなわち、「裁き」の後に「赦し」が来なくてはならない、そう内田さんは解説していました(『ためらいの倫理学』角川文庫版、124-125頁)。
 このレヴィナスの言葉は、倫理にとって「正義」と「慈愛」の両方がともに必要だということを語っていると解釈するのが一般的なのでしょう*1。けれども、ここで注目したいのは、「顔」すなわち個の固有性・単独性・代替不可能性・比較不可能性を消し去らないと「正義」の裁きは実現しないということです。それは、「倫理」が個の固有性・単独性・代替不可能性・比較不可能性に根ざすものであるのと対照的です*2。公正な裁きによる正義においては、比較不可能な個の固有性を消去して比較不可能なものを比較する必要があります。比較することなしに公正さは生まれません。先の光市母子殺害事件の判決に関して、瀬尾佳美さんが自身のブログで、「最低でも永山基準くらいをラインにしてほしい。永山事件の死者は4人。この事件は1.5人だ」といったことを書いたことが問題になりました(私はそのブログを直接読んでいません)。それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。つまり、その非難は、固有性・比較不可能性をもつ死者を数えて比較すること自体に向けられてはいないわけです。正義=裁きにおいては、そのように数えて比較することが当たり前のことであり、その意味では「0.5人」という数えることも(当否については意見があるでしょうが)、「正義」(=公正さ)にとってはなんら奇妙なことではないのです。しかし、「倫理」にとっては、「子供を1人」と数えようと、正義のためには不可欠な、数えて比較すること自体がそもそもふさわしくないのです。ようするに、瀬尾さんに対する非難は、正義と倫理を混同してしまっているわけです。
 この騒ぎに関して起きたもっとも奇妙な出来事は、瀬尾さんの所属する青山学院大学伊藤定良学長が「当該教員の記述は適切でなく、また関係者のみなさまに多大なご迷惑をおかけしたことはまことに遺憾であり、ここに深くお詫び申し上げます。今後このようなことが繰り返されることのないよう努めてまいります」と謝罪したことです。大学に非難の電話が殺到したからということらしいのですが、学長の見解をホームページに載せるのであれば、「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね、なにせいちおう大学なんだから*3。もちろん、大学や学長とは異なる見解の表明でも本学は擁護するなんてことを載せたら抗議の電話を鳴り止ませることはできないかもしれないけども、よりによってそれを「多大な迷惑をかけた」(ここでも「迷惑」が理由になっています!)、「今後このようなことが繰り返されることのないよう」だとは(所属する教員に社会通念に反することを二度と述べさせないってこと? それって研究するなってことか)*4
 さて、話をレヴィナスの「正義」と「倫理」の区別に戻すと、最初に引用した言葉の少し前に、レヴィナスが、「人を比較して裁きを下す」ということは「〈国家〉のうちにおいてしか可能ではない」ということを言っています。それをレヴィナスは、慈愛と対比させて「始原的暴力」と呼んでいます。そして、「人間の諸権利についての気遣い、それは〈国家〉に属する機能ではなく、〈国家〉のなかにある非-〈国家〉的な制度であり、〈国家〉のうちにおいてはいまだ成就されていない人間性の訴求なのです」(『暴力と聖性』159頁)と述べています。つまり、「正義=裁き」と「倫理=慈愛」の区別は、同一平面での対比ではなく、前者が〈国家〉という社会の水準にあるものであり、後者はその水準のものではないということです。この区別は、レヴィ=ストロースのいう非真正な社会の水準と真正な社会の水準とに重ね合わせることができるというのが、私の言いたいことです。
 レヴィ=ストロースの真正性の水準を、私はよく「〈顔〉のある関係」と言い換えていますが、その〈顔〉は、実はレヴィナスの〈顔〉に由来するのです。現代社会には、正義も倫理も必要です。しかし、それをともに用いるには、前者が固有性のある〈顔〉のある関係を捨象して成立する非真正性の水準にあるものであるのに対して、後者は真正性の水準にあるということを理解することが重要だということです。
 そして、真正性の水準での「倫理」は、正義における(普遍的な)善悪をも超えてしまうということも大事なポイントでしょう。それについてはまた別の機会に書きたいと思いますが、私たちが正義=裁きとは無関係に、〈顔〉ある関係にある人を擁護するのは、その人が正義にかなっているからではなく、その人の代替不可能=比較不可能な固有性(私にとっての)を擁護しなければならないからです。でも、十分長くなりましたので、今回はこの辺で*5

*1:そして、それはキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』における「正義の倫理」(何が正義なのか)と「ケアの倫理」(具体的な他人の声にどのように応えるのか)という区別とも重なります。ギリガンもその両方が必要であると主張しており、その二つの倫理をどのようにつなげたらいいのかという問題を提起していました。

*2:このようなレヴィナスにおける正義と倫理との区別については、同僚の哲学者の村瀬鋼さんのお話に示唆を受けました。ただし、私の誤解や曲解が入っていますから、村瀬さんには責任はありませんが。

*3:これはもちろんヴォルテールの言葉の焼き直しです。ところで、宮台真司さんがTBSラジオで、これをボードレールの言葉と言っていました。そのときは生放送だったので単なる言い間違いだろうと思っていましたが、宮台さん自身のブログでもボードレールと記してあったとのこと(http://d.hatena.ne.jp/macska/20080415/p1)。勘違いしてたのですね。そういった勘違いは私もやるので、寛容になりたいところですが、ボードレールがそんなこと言うわけないという勘ぐらいは働くと思うけど。

*4:この問題についてエントリーを書こうと思っていましたが、SUMITAさんがブログで「愚劣な言論を擁護する」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080427/1209224631)というエントリーをすでに書いていましたので、そちらにお任せすることにします。ただ、私は瀬尾さんの見解を「愚劣な言論」だとは思いません。すでに書いたように、正義=裁きにおいては「子供の命は0.5人」とか「いや無垢な子供こそ2人と数えるべきだ」といったように、数えて比較するようなことは当然のことだからです。瀬尾さんのブログ自体を読んでいないので遠慮すべきかもしれませんが、他のブログに引用されているのを読む限り、その問題は蓮っ葉な文体にあるでしょう。ユーモアもない(そのくせご本人はユーモアのつもりの)単なる蓮っ葉な物言いはいかがなものかというのが正直な印象です。

*5:なお、ここでの議論は、加藤秀一さんの『〈個〉からはじまる生命論』の読書ノートでの倫理の議論とつながっています。ご参照ください。http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20071024#1193241782