気になる言葉シリーズ・第2弾――「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」

ローランさんがコメントを下さったので、調子に乗って「気になる言葉シリーズ」の第2弾を。取り上げる言葉は「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」って言葉です。気になるのは「何をしてもいい」という部分ではなく、「他人に迷惑をかけないなら」というところです。つまり、「他人に迷惑をかける」かどうかということが、このように重大な基準となっているのは、どこかおかしくないかと言いたいわけです。「他人に迷惑をかける」ことがそんなにも避けるべき悪いこととされているのはどうしてなのでしょうか。
 なんらかのかたちで他人に迷惑をかけないで生きていくことは不可能でしょう。もちろん、だからといって、なるべく人に迷惑をかけないで暮らすように努力することは悪いことではないだろうと思われるかもしれません。しかし、人に迷惑をかけることから人との関係が作られていくわけで、迷惑をかけないということは人とのつながりを否定してしまうことになります。もちろん、ひとに迷惑をかけることを奨励しているわけではなく、たとえば、電車の中で背中の荷物をおろさずにひとに押し付けている行為なんていうのは、別にお互いにあなたとつながりなんてもちたくないっていう関係でなされる迷惑だから、やめるに越したことはありません。ただ、混雑している電車では、そこに乗っているだけでお互いに迷惑であるわけで、それを「お互いさま」と感じることで公共圏なるものが作られるわけです。
 そして、「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいい」という言い方の背後には、自由というものを「選択の自由」としてのみ捉えて、「他人に迷惑をかけない自己選択」こそ〈個〉の尊重だという思想があります。実際には、どのような選択も他人に迷惑=影響を与えるわけですが、そのような迷惑=影響をもちゃんと計算して、最も自分にとって利益の大きな選択をすることが、自律的で自由な主体の証というわけです。そこには、他人への迷惑は、自分の利益にならないということが含意されています。
 最近、「迷惑をかけない」ためにということを理由にした出来事がありました。まず2月には、プリンスホテルが、周辺住民や他の泊り客に迷惑をかけないためにという理由で、司法の決定にも逆らって日教組の集会の「グランドプリンスホテル新高輪」の予約を取り消すということがありました。そして、今回の映画「靖国YASUKUNI」の上映中止を決めた映画館も、理由として「観客や近隣に迷惑をかける」ということを挙げています。「安全・安心」や「迷惑をかけない」ことが、他の何よりもまして大きな価値となっているからこそ、ホテルも映画館もそのような理由を持ち出せば理解が得られると思っているわけです。もちろん、街宣車で抗議をすると脅す右翼団体を非難したり、自主的に上映自粛を決めた映画館や予約取り消しを決めたホテルを批判したりすることは間違っていないでしょう。しかし、ホテルや映画館が「集会の自由」や「言論・表現の自由」を侵害していると批判することはできません。憲法で保障されている「集会の自由」や「言論・表現の自由」は、国家権力がそれを侵害することから守っているわけで、たとえば、映画館が「客が入らない」という理由である映画を上映しないことや、民放テレビ局が、視聴率を取れないという理由で特定の番組を流さないことは、まさに「選択の自由」です。街宣車がきて騒音をまきちらす事態になったとき、ホテルや映画館に「迷惑だ」とクレイムがくることは、ホテルや映画館の利益にならないのですから。
 今回の事件で、よくヴォルテールの言葉とされる「私はあなたの意見には反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利を、私は命にかけて守る」という言葉が引用されています*1。もちろん、その言葉は、文化庁助成金が使われているから、「税金の使い道」をチェックするための国政調査権という名目で試写を要求したアホな国会議員たちへの批判として向けられるべきものです。そもそも仮にその映画が日本という国家を批判するものだったとしても、その言論や表現の自由を守るために税金を使うことは当たり前のことです。「美しい日本バンザイ」みたいな映画だけに助成金が使われるほうがよっぽど問題でしょう。ただし、このヴォルテールの言葉を批判の矢としてホテルや映画館に向けることはできません。ホテルや映画館の公共性などといっても、いまの社会では、私企業としての自分の利益のための「選択の自由」のほうが大事であるのですから。私たちがすべきことは、「集会の自由」や「言論・表現の自由」を根拠にした批判の言葉をホテルや映画館に向けることではなく、そのような「選択」がホテルや映画館にとって、むしろ利益にならないということを思い知らせることでしょう。私個人は、二度とプリンスホテルには泊まらないことを決意し、周囲の人たちにも、宿泊や結婚式のときにプリンスホテルを利用することを思いとどまらせるようにしようと思っています。同じように、映画『靖国YASUKUNI』を上映する映画館に見に行きますし、上映中止にした映画館はなるべく行かないようにしようと思います(ホテルとは違って他に選択の余地がない場合もありそうですが)。「選択の自由」には、「選択の自由」で対抗するしかないわけです。
 ようするに、問題は、ホテルや映画館に「迷惑だ」というクレイムをいれることを当然のように受け入れてしまい、ホテルや映画館側に、それを理由に集会や上映を取りやめるほうが利益になると思わせてしまっている私たちのほうにあるといえるでしょう。いまの市場社会では、憲法が国家権力による侵害から「言論・表現の自由」を保障してくれていても、実際に私たちの「選択」を保障してくれるわけではありません。そっちのほうは、「選択の自由」の名の下にせばめられています。そのような社会にあって「言論・表現の自由」の恩恵を得るには(ヴォルテールのように「命をかけて守る」なんて気張らなくても)、まず、「選択の自由」を私たちも行使して(ただし、安くて便利という経済的=勘定的合理性による選択ではなく、「気にくわねえ」という感情的合理性によって)、「不買」をしながら、それと同時に、「迷惑をかける」ということが生きていくうえで当たり前のことであり、お互いさまであること、そして「迷惑」をかけるかかけないかを判断の基準としてしまうことが、人とのつながりを切断してしまい、けっきょくは私たちの「自由」を無意味なものにしてしまうことを、頭のどこかに置いておくことが大事でしょう。
つまり、「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」という言葉は、かえって私たちの「自由」をせばめてしまっているわけで、プリンスホテル「不買」運動とともに、この言葉の追放からはじめないとね。

*1:この言葉は実際にはヴォルテールの言葉ではないようですが。私自身はこの言葉はちょっとヒロイズムが入っていて、それほど好きな言葉ではありません。そんな大げさなことを言ったりしたりしなければ「言論の自由」が守れないとしたら、私のような勇気のない普通の人間にとってはそれこそフリーライドするしかありませんからね。