気になる言葉シリーズ――フリーライダー

 3月になればひまになるはずだったんだけど、もうすぐ任期が終わるはずの学会の庶務担当理事の仕事やらがあって、時間はあるはずなのですが、気分的にひまになったというどうも気がしません。まあ、ひまになってもブログを書いていないことの言い訳でもありますが。
 さて、「気になる言葉」または「気に入らない言葉」シリーズです(そんなシリーズあったの?って突っ込んでください)。これまでも、たとえば、1月21日のエントリーで、「受益者負担」という言葉を気になるというか気に入らない言葉として取り上げましたが、それをシリーズ化してみようというわけです。きょうは、その「気になる言葉シリーズ」の栄えある第1弾として、「フリーライダー問題」という言葉を取り上げたいと思います*1
 「フリーライダー問題(free-rider problem)」という言葉がいつごろから使われ始めたのかは知りませんが、最初のうちは労働組合等での問題というように使われることが多かったと思います。労働組合が労働者全体(日本のように企業別組合の場合は従業員全体)の利益のために賃上げや福利厚生の充実などの要求を苦労して通したとき、組合費を支払っていない非組合員の労働者や従業員もその利益を享受することを「フリーライド(ただ乗り)」と呼んでいたわけです。それが「問題」なのは、フリーライドが横行すると、誰も組合費を払って組合に入ろうとしなくなるし、また、組合の中でも、自分の時間や労力を費やして交渉にあたる者がいなくなる、あるいは時間や労力を費やそうという「インセンティブ」(この言葉も嫌いだけど)がなくなり、「モラルハザード」が起こるからというわけです。
 まあ、大学という組織はごく一部の人しかがんばらない「フリーライダー天国」みたいなところで、そのなかにいる私としてもフリーライダーを非難する気持ちもわからないことはないけど、それで「インセンティブ」ってやつがなくなるというのは、いかにも浅薄な言い方という気がします。そんなインセンティブでしかやる気が起きない仕事って、最初から意欲のわかない仕事ってことでしかないでしょう。イヤイヤやっていれば、フリーライダーの存在はどうしても目障りになります。
つまり、「フリーライダー問題」で考えるべきことは、フリーライダーをどのように無くすかという問いではなく、フリーライダーが目障りではなくすにはどうしたらよいかという問いでしょう。大学でフリーライダーを数多く見てきたり、自分もときどきフリーライドをしてきた経験からいえば、フリーライダーに腹を立てるのは、たいてい自分ひとりの能力で仕事をやっていると勘違いしている人です。自分の能力と労力にふさわしい評価(たいていは給料ですが)を要求し、フリーライダーには厳しく当たることになります。けれども、その能力も労力も、共に働く人や学生との関係のなかではじめて出てくるものです。また、フリーライダーと〈顔〉の見える関係にある場合、しょうがないなと思うし、ときには本気で腹が立ちますが、同時にフリーライダーの存在がほっとさせてくれることもあります。そして、なによりも、〈顔〉の見える関係では、自分にとっては直接に利益がないことでも、他人のためにひとは労力や時間を割いてしまうものなのです。しょうがないなといいながらも。
 もちろん、ひとは放っておけば他人のために一所懸命つくすものだなんてことを言いたいわけではありません。しかし、ひとは放っておけば自分の利益になることしかしないというのも同じように単純すぎる見方です。だいたい他人の利益と自分の利益とがつねに背反するというわけではなく、何が利益なのかも、収入として数量化できるわけではないでしょう。
言いたいのは、ひとが自分の利益にならないことを、顔を知っている他人のために(あるいはその関係やしがらみのために)一所懸命やっているところを見ると、世の中まだ捨てたもんじゃないなと思うし、ふだんは面倒な連中だと思っているその人たちと関係がもててよかったと思うということです*2。そんなことは、めったにないことですが、それだけにそのような経験は大事だし、そういう経験があるかどうかで、人の思想も違ってくるでしょう。
 フリーライダー問題という言葉が気に入らないのは、そのような生活の中の経験を大事なことと考えず、数量化できる「インセンティブ」ってやつで人が働いたり働かなかったりすると考えているところです。とはいっても、なんでおれだけこんなに忙しいんだと、フリーライダーに腹を立てている今日この頃ですが。

*1:たぶん第1弾で終わると思うけど。候補は他にも「自己選択」とか「自己責任」とか「自己実現」とか「体感治安」とかいくらでもありますけどね。

*2:そのようなことを伊集院光さんがラジオで言っていたような記憶がありますが、確かではありません。